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人が「ドパガキ」になるのは、果たして本当に個人の選択の結果によるものなのか?

個人の思想強めのnoteです。すみません。
このnoteは、自分の中のモヤモヤを消すために書く。

好きでやっているわけじゃない努力は、裏切ることが度々あると思ってる

例えば、受験勉強なんかはその際たる例だろう。
必死に受験勉強しても、志望校に受からない時は受からない。受験とはそういう椅子取りゲームだからである。
仮に、その受験勉強という名の努力が報われる条件が「志望校に合格すること」のみだとすれば、それ即ち「努力が裏切った」ことになる。その勉強によって学力が向上したことは、その目的達成に寄与しなかったためである。
ただ、勉強が本来嫌いで、受験のために仕方がなくやっていた場合はそうだが、勉強そのものが好きで、勉強して学力を上げることそのものが目的になっていたとすればこれはその限りではないだろう。
このように、「志望校の合格を目指して受験勉強したが、不合格だった」という事実1つを見ても、見方や背景次第でその努力が報われたかどうかは変化すると思っている。
だから、筆者は「努力」について個人的にこう考えている。
好きでもない努力は、裏切りやすい。
好きな努力は、中々裏切らないしそもそも努力と認識しづらい。

これが「努力」の性質なんだろうな、と勝手に思っている。「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったものだなーと納得する。大谷翔平も藤井聡太も、その道の才能や、その才能を伸ばすための恵まれて環境があったことは前提として、その上で好きなことに関する努力を苦痛な努力と思わず続けられたが故に、あそこまでの才能を開花させたんだろうなとMLBもプロ将棋も追っている身としては勝手に考えている。あれほど以上に「好きこそものの上手なれ」を体現している存在も稀だろう。
だから、今も言われているかはわからないが、「努力は裏切らない」という言葉は言葉足らずであり、厳密には「(好きな)努力は裏切りづらい」と言うべきだろう。何故なら、また勉強を例に出すと嫌いな勉強はあくまで勉強する本人にとっては目的達成のための一手段でしかないためであり、努力の評価基準は多くの場合その目的を達成することだからである。

この国というか、世界やインターネットは努力に疲れた人に厳しすぎやしないか?

これは資本主義社会というか競争社会の定めなのかもしれないが、少し回り道というか、一時期長い休憩を仕方なくした上でどうにか人生を生きてきた筆者からしても、この国というか世界は努力を信じれず疲れてしまった人間に対して厳しすぎないか?と思ってしまうのは個人の穿った見方だろうか。
なんというか、筆者の言語化能力ではうまく説明できないが、「ドパガキ」という俗称がネットスラングになり何かと笑いものにされ、筋トレや語学学習などのモーニングルーティンなどの意識高い系vlogが定期的に持て囃されるのを見ていると、この国・世界・そしてインターネットの海は努力することに対して「どうせ報われない」「必ず時間と労力の無駄になる」と恐怖し、したくてもできなくなってしまった人間に対して厳しすぎやしないかね?と思ったのだ。私がそう感じているだけかもしれないが。経験者だからこそ言えるが、脳の学習性無気力のようなものやトラウマを是正するのは労力も時間もかなりかかるぞ?
この社会は「ドパガキ」と呼ばれる存在になってしまった人を、勝手に「努力しないでその場の快楽だけ後先考えず味わう人間」と決めつけすぎてやしないかね?と思ったのだ。その背景にあるのが、単なる怠惰かこの時代の文化の弊害か、この社会への諦めか、「努力」に裏切られ続けてきたが故の諦めかも知らないで。
一見結論は同じでも、選択肢がある上でそれを選ぶことと選択肢が限られている中でそれを仕方なく選ぶことには天と地ほどの差があると筆者は考えている。

私は「ドパガキ」を笑えない、むしろ-

そんな私も、これまでの人生を振り返ると、あまりそれぞれ深くは書かないが好きかどうかに関わらず、色々なタイプの努力を頑張って何度かしてきて、その上でそれらの努力に悉く裏切られてきた人間である。正直、報われた努力を探すより報われなかった努力を探す方が圧倒的に楽なレベルであると自負している。
正直に言おう。今の私は、好きなことだろうが嫌いなことだろうが努力に対する抵抗感が凄まじいことになっている。そして、気を抜くと即座にドーパミンが脳内で放たれる、ソシャゲなどの即効性の高い快楽に勝手に逃げるようになっている。少し前までは意識的にyoutubeのshort動画を避けてきたが、最近は割と平気で受け入れているのだからその点も恐ろしい。意図的に自分から離していたXなどのSNSについても、最近はじわりじわりと自分と距離を縮めつつあるのが正直な現状だ。
初めて自分のスマホを持ったのが高校生の頃からでSNSに触れたのもそれくらいと、比較的現代基準的にその辺の馴れ初めが遅かった人間ですらこれなのだから、物心ついた頃からスマホやソシャゲ、SNSと触れ合ってきて、かつ努力による成功体験や自己肯定感に乏しい人間が成長してどうなるかは...想像したくもない。
まあそれはそれだけ、ソシャゲなどのクイックドーパミン系コンテンツの構造がすごいと言うことでもあるのだが、これらの理由から私は「ドパガキ」を笑えない。むしろ、既に「ドパガキ」になっていると言っても良いかもしれない。そう思っている。

まとめ

色々書いたが、纏めると以下の通りである。
・「ドパガキ」にはただ怠惰や惰性でなるものとは限らない、「努力」に対する諦めなどによってもなり得ると筆者は考えている
・「努力」に何度も裏切られていると、次第に「努力」そのものを脳や身体が受け付けなくなってくる
・現代社会のクイックドーパミン分泌系のサービスは、まずその構造が素晴らしいが、単にそれらから離れるドーパミンデトックスを促すだけでなく、それと同じくらい何故そのサービスにハマるかについても「ドパガキ」対策を考える上では理解すべきだと筆者は思う

以上3点である。
念のため書いておくが、筆者は「ドパガキ」になることを推奨しているわけではない。
ただ、一口に「ドパガキ」になると言っても、ただこの時代の文化によるものだけでなく、その背景は人によって様々ではないか?という個人的な思想を語りたかっただけである。
何故人は「ドパガキ」になるのか。
その根底について理解しないと、一時のドーパミンデトックスなどを行っても、その効力は一時的なものに収まってしまうかもしれないと思うから。
以上、筆者の思想語りでした。

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