Episode 18|私が感じた、ギリホリのメリット
30歳間近。女性にとっては特に、結婚や出産、そしてキャリアにとっても大切な時期ですよね。そんな時期に敢えてワーホリに行くという選択は、果たしてどうなのか?私が感じたギリホリのメリットを記事にしてみます。
自分が何なのか、やっとわかった気がする。
私は、自分というものが本当にわからなかった。
頭の中で考えていることは形容詞ばかりで、「眠いな~」「寒いな~」「お腹すいたな~」くらい。「自分とは何か?」「5年後10年後どうなっていたいか?」本当にわからなかった。目の前の仕事をただ頑張る。それだけだった。仕事さえ頑張っていれば誰にも文句言われなくてラクだった。
言語化も苦手だった。「これが好き!」「あれが好き!」という明確なものが自分には多くなかったし、「自分はこうである」と文章を作っていても「本当にそうかな?」と疑問視してしまうこともあった。
思い出話や苦労話を言語化するのも苦手で、その時のイメージや感情が言葉に収まりきらないような、言語化した瞬間にこぼれてしまうような感覚があった。
人から貰った何気ない言葉に勇気付けられた話とか、ちょっとクスッと笑える話とか、それを自分の語彙力で全部表現できない。エッセイを読むのが好きな自分にとって、「プロの物書きはそれを表現するのか本当に上手だな~」と。それを素晴らしい…としみじみ感じるがゆえ、自分で言語化してみたときに「ああ、全然伝わらない」と途方に暮れていた。
でもワーホリを経た今は、自分の好きなもの、嫌いなもの、強みや弱みを言語化するときに迷わなくなり、それを英語で説明することも難しくなくなった。そして自分の価値観や将来のビジョン、この人生で大切にしたいことを、腹落ちするまで言語化することができた。
『第二言語を習得する』ということは、その『言語化』という過程で否応なく自分と向き合うことにも繋がるんだと思った。そしてワーホリの中で得た沢山の時間と経験、そして人との出会いによって、自分の輪郭を掴むことができるようになるんだと思う。
「自分はどうしてワーホリに行こうと思ったんだろう」「どうして英語を喋りたいと思ったんだろう?」「どうして日本だとダメなんだろう」「何がしたくてその目標を達成したいんだろう?」「どうして自分はそのことに興味があって、それに向いていると思ったのか?」
具体的なエピソードとともに言語化できて初めて、「自分」を正しく説明できる。それが分かるようになるのって、ドラッカーの言う通り、やっぱり20代後半なんだと思う。
自己の適所を知るのは、二十代半ばをかなり過ぎてからである。
やがて自己の強みがわかっている。自己の仕事の仕方もわかってくる。
自己の価値観もわかってくる。したがって、得るべき所も明らかとなる。
・学び方を知る
書くことによって/行動することによって/読むことによって/話すことで
・仕事の志向を知る
トップとして or ナンバーツー/緊張や不安 or 安定/大組織 or 小組織
私は読むことで学ぶタイプ。文字が一番頭にスッと入ってくる。邦画観ていても日本語字幕出しちゃうんだよね。例えば恋愛映画。声で「愛してる」って聞くよりも、字幕の「愛してる」になぜだかときめく。共感してくれる人いるかな?
仕事はナンバーツー、安定、小組織が性に合ってると思う。これは中小企業と大企業どちらも経験して分かったことだから、行動することで学んだに近いね。
ちょっと話がそれたけど、自分の強み、弱み、向いていること、向いていないこと、どういう風に将来働きたいのか、どんな人になりたいのか。それを浮き彫りにしてくれる要素である”経験値”を貯めてから、日本とは全く違う海外というフィールドに飛び込んでみる。そうすると、日本との比較を通して、「ああ、私はこういうところが好きだったんだ」「こういうところが嫌いだったんだ」って理解できるようになる。
つまり、ある程度の社会経験、働くってことを経験したうえで、ワーホリに行くからこそ見えるものがあるんじゃないかなと。それがギリホリの、一番のメリットなんじゃないかなと思います。
ドラッカーの論文を読んだ時、私は当時26歳でした。「そうか、そろそろ自分のことがわかるようになるのか。」と呑気に待っていましたが、一向に自分のことが客観視できるようにはならず、周りに流されまくりでした。
そろそろ結婚した方が良いのかな、早く子供産まないといけないのかな、これからのキャリアどうしよう、これが本当に自分のやりたいことなのかな…婚活に励んだりもしたっけ。あれ大変だよね~、初対面で色々なところに出掛けるの、ソワソワするし頑張って会話続けないといけないし…すぐ休会した😂
ワーホリを終えて今気づくことは、どんなに本を読んで知識を手に入れても、ワーホリした人の話を聞いても、椅子に腰かけているだけでは学べないことがある、ということです。それだけ経験というのは私達の脳に残る強烈な記憶で。自分を知るためには、ただ座って待つのではなく、自ら行動して学ぶ必要がありました。
19世紀の人類学者たちが「安楽椅子の人類学者」と揶揄された
どのような分野であれ、人は何かを知りたいと思ったとき、まずはこれまで先人たちが残してきた書物を探します。そして目的のことが書かれている本や文献、資料にあたれば、たいていのことはイメージが掴めるでしょう。しかし、それで本当に知りたいことの「すべて」が理解できるわけではありません。
女性はカン所として、知性は万能ではない、という実感があるのか、占いも含めスピリチュアル系が大好きです。確かに、出産やら子育てやら、計画通りに物事が進まない現実にさらされることが多い女性が、占いなどを頼りにするのは理解できます。しかし、あまりにも、安直にここに頼っていることが多い。人生にはいろんな悩みが次から次へと押し寄せてきます。そういったときに、人はまず、変えられない環境よりも自分のレベルアップを考えます。で実際、そういうときに、読んできた本やいろいろな文化教養が役に立つことは、本当にあるし、それをメインテキストにしながら、具体的な行動を起こすしかないのに、多くの女性は出雲大社にパワスポ旅に出かけてしまう。その時間とカネがあったら、恋でも仕事でも一目置かれる話題の引き出しのために、本を読み、映画を観た方がいいと思います。
そして30代になった今。「ああ、やっぱり私はこういう人間なんだ」って受け入れられるようになりました。ある意味で『固定観念』が育ち、そしてある種の『諦め』とも言えるかもしれませんね。
「人生で何をするか」一生わからない疑問
この問いの根本には「自分とは何か」という自分が一番知りたい、でもきっと知り得ることはない疑問があります。そして、その背景にはべったりと死というものが張り付いています。前述の通り、私は小学校四年生のときに、『カムイ外伝』全巻を読みふけっていました。自然と物語の根底にある自由とそのための戦いというイメージは受け取っていた気がします。それから、幾年月。途中には、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』というモードを数々実感するような思考停止等の会社員としての労働の現場、そして、「依存のラクとトクもいいじゃん、人間だもの」という考えによろめき、右や左にうろうろしたあげく、結局、「やっぱり私は、なるべく自由に、どこでも行きたいのだ」という、たったひとつの実感を得ることができたのです。それは、小学校の自分と四〇代の自分が、「自由」のテキストを通じてつながった瞬間でした。
自分って本当つまんないヤツだなって思ってた
ミッドナイトスワン。
主人公の賢児(凪沙)はまるで、バレエ『白鳥の湖』、悪魔の呪いで昼間は白鳥、夜だけ人間の姿に戻れるオデット姫のように、夜だけしか、新宿二丁目で素の自分として生きられない。素晴らしい本の内容はここでは割愛するが、私に引っかかった文章は、以下のものだった。
凪沙はすべてのおひねりを、そのまま貯金箱に入れる。
ぽとんと千円札を落とす瞬間の小さな快感を凪沙は嚙み締める。
貯金箱とはいっても、それは砂糖などを入れる透明の容器だ。札がどんどん貯まって行くのが目に見えてわかるのが気に入って使っている。もちろん給料などは、銀行で定期預金もしているが、実際に見える形でお金を貯めたかった。
少しづつ透明な容器の中のお札の山が高くなっていく。それは凪沙にとって大事なモチベーションになっていた。この貯金箱がお札でいっぱいになれば、念願の手術を受けることができる。それが凪沙の目標だった。
私は迂闊にも、良いなあと思ってしまった。私には、情熱を注げる『なにか』がなかった。お金を貯める目標があることが、無性に羨ましい。彼女がその目標を達成するための金額を、すでに私は手にしているにも関わらず、これといって使いたい目的も夢も目標もない。自分って本当、なんてつまらない人間なんだろう。
「最近何した?」って聞かれて「ああ、あの本を読んだよ」とか、「あの映画を観たよ」とかしか答えられない。それよりも「旅行行ってきた」とか、「誰々のライブ行ってきた」とか、そういう方がネタになるし面白い。
それで頑張って星野リゾート泊まったり観光名所に行ってみた。もちろんご飯は美味しいし温泉も気持ち良いんだけど、特段ハマるものが見つからなくて。自分の写真撮るのも楽しいと思えないし、推したい人も作れなくて。
私自身も好きなことがない人の一人です。
でも今回ワーホリで1年中旅をして、私が好きだな楽しいなと思うことは、WWOOFで赤の他人とゼロから信頼関係を築いていくこととか、そういう地味~なことなんだなって。
好きなことがないんじゃなくて、私の好きなことは世間からすれば『煌びやかなこと』には分類されないから、熱量を持って語れなかったんだって思った。盛り上がらないもん。
社畜してた時も、頑張ったご褒美に仲良しの同僚と深夜にラーメン食べに行ったり、友達と銭湯に行って湯上がりにコーヒー牛乳飲んだり。そういう小さなことが幸せでさ。もう語れなくても良いやって、写真で伝わらない幸せで良いやって思えるようになったんだよね。
大切な人を喪う。その人のもとに遺品として一冊の文庫本が残されたとする。第三者にとってそれは、古書店によるある本とあまり変わらない。しかし、遺族にとってそれは、世界にただ一つの、どんな大金でも買うことのできない本当に大切な何かだ。
故郷の風景、亡き人の面影もそうしたものの一つだろう。おそらく、幸福もそれに似た姿をしている。ほかの人から見れば月並みなものであっても、自分にとってかけがえのないものを一人で探さなくてはならない。
共感力の高さという特性は、ときには最強の強みにもなり、ときには足を引っ張る最大の弱みにもなります。
たとえば、会社などの組織で働く上ではマイナスに働くことが多いです。 誰かが怒られているのを見ると自分が怒られているように感じたり、他人をラクさせるために自分で仕事を抱えて疲弊してしまったりします。
一方で、共感力が高いおかげで、日常に溢れたささいなことからでも豊かさを感じられます。 人にちょっと感謝されただけでも飛び跳ねたくなるほど嬉しく感じたり、映画や漫画などの娯楽でも登場人物へ深く感情移入ができます。 また、ぽかぽかと暖かい太陽の光を浴びられることや、吉野家でおいしい牛丼が380円で食べられることにも確かな喜びを見出だせます。 つまり、最低限の暮らしでも十分に楽しく暮らせるのが敏感な人の大きな強みということです。
菩薩キャラでいこうと思えた
もう既にお気付きの方もいるかもしれないが、私は器量が良い方じゃない。
だから、とりわけ容姿を気にする日本では息を潜めて生活しないといけなかった。だってね、道歩いててすれ違いざまに知らないおっさんに「ブスだな~」って言われるんだよ…😭
けれど、恐らく私たちアジア人がヨーロッパ人を見ても美醜がわかりずらいように、ニュージーランド人もアジア人をあまり見慣れていないから、美しいのか醜いのか、判断できるだけのストックが脳に溜まっていない。すれ違う時はHi.とかMorning!だし、カフェでコーヒーくださいって頼んだ時、"I like your smile!"とか言ってくれるんだよ。受け入れてもらえて、本当に生きやすかった。
そしてニュージーランド人やオーストラリア人、フランス人に囲まれて生活していると、外国人って本当にFantasyの住民みたい。栗色のちょっとカールしたオーロラ姫みたいな金色っぽい目と髪の毛を持つ女の子もいれば、ハリーポッターのロンみたいな、そばかすに美しい赤毛を持つリトアニア人の女の子もいれば…本当に美しかった。
それに比べると私の顔はやっぱりアジアの仏像、特に菩薩に似てるなって思った。頬の丸みとか特に。そこで菩薩ってなんなのかネットで調べてみると…
菩薩(ぼさつ)とは、如来になるための修行をしている存在です。 菩薩は、あえて悟りを開かずに私たちと共にいてくださり、苦しむ人々を助けるために活動しているとも伝えられています。
だそう。良いじゃん。菩薩みたいに顔大きいけど、もっと菩薩に寄せて行こうと思えた一日だった。

今日本に帰ってきてテレビに出ている人達を見ても、「ああアジア人だな」としか思わなくなった。目の前に色々とかかっていたフィルターが取れたんだと思う。流行のファッションやメイク、髪を染めたりマツエクしたりネイルをしたり。それらはNetflixで観た『鳥の求愛行動』を見ているような、生物の不思議な生態を観察しているような気持ちになる。
自然に囲まれて過ごしていたからか、山、海、空などの自然に美しさを感じることが増えて、どんな側面でも、力でも美しさでも、人間は自然には適わないなあと、ぼんやり思うようになった。
誰かと一緒にいることが心地良くなった
私はなんか、誰かと一緒にいるとカメレオンになるみたいな感覚があって。
自分と相手の境界線がわからなくなるっていうか。自分よりも相手優先になっちゃう。そこまでやる必要ないのに、必要以上に気を遣っちゃう。
でも相手は別にその好意を同じくらい返してくれるわけじゃないから、一人で勝手に落ち込んで、人間って存在に落胆するんだよね。なんかバカみたいだよね。正直犬の方がよっぽど良いやって思ってたの。「犬が飼えれば、私は1人でも生きていける」って、ワーホリに行く前は本気で思ってた。
自分はこうしたいって(言えない)
人といると「合わせすぎちゃう」のかな。人といると自分がよくわかんなくなっちゃう。相手がどうしたいかが結請優先されちゃって。
自分としては納得していないんです。たぶん腹の底では。本当は「こうしたかったのに」とか「あのお店行きたかった」とか。そういうのがたぶん誰かといるときの居心地の悪さに繋がっていて。
だから、じゃあ「1人で行動しよう」みたいに結果なっちゃうのかなと思って。
でも常にホストや旅人とか、自分じゃない『誰か』がいる環境にいて、気付いたんだよね。誰かと一緒にいた方が、自分は生きていけるって。
一人暮らしだと底なし沼のように堕落していた自分。ベッドに横たわりながら、だらだらとクソみたいなYoutube short動画を観て、「誰か止めてくれ」と心のどこかで叫びながらお風呂に入れない日々を過ごしたり、深夜に牛丼Uberしてドラクエのために徹夜したこともあったっけ。でも、自分の他に『誰か』がいると、自然と自制心のストッパーがかかるんだよね。
カメレオンの性質も相まって、WWOOFホストの生活リズムに合わせるように、特に意識しなくても身体が順応していくし、逆にホストの意識が高いと私まで一緒に引き上げられる。堕落していたのは自制心のなさだと責めていたけれど、「誰かと一緒に生活するってことが解決策だったのか!」と、大きな発見でもあった。
しかしもちろん、それが誰でも良いわけではなく、こういう人と一緒にいると私はストレスを感じるなっていうパターンも、この旅の中で見つけることができた。そしてそういう人には、私のカメレオンの性質は使わないことに決めた。優しさは人を選んで、わかってくれる人だけに使う。脱八方美人宣言。
何はともあれ、ワーホリで出会った心優しい方達のおかげで、私は勝手に人間に落胆することもなくなったし、人間の善意を信じられるようになった。だからこうしてnote記事書いてみようかなと。善意で受け止めてくれる方に届けば良いじゃんって、思えるようになりました。
寮美千子さんのエッセイで綴られた経験に被せるのは大変おこがましいけれど、私も人間観を変えてくれた彼らには幸せであってほしいと、心から願っている。
空が青いから白を選んだのです。
これは奈良少年刑務所の受刑者が書いたたった一行の詩だ。
題名は「くも」。そこで出会った少年たちは、わたしが漠然と抱いていた「犯罪者」のイメージとはまるで違う人々だった。不器用で、孤独で、傷つきやすい子たちだったのだ。みな、加害者になる前に被害者であったような、過酷な暮らしをしてきてた。
~中略~
彼らのお陰で人間観も世界観も変わった。人間は基本的にいい生き物なのだと思った。みんな今頃、どこでどうしているのだろう。幸せであってほしい。
おわりに
最後まで読んで頂き、ありがとうございました🤗
一人でも共感してくれる人がいたら、本当に心から嬉しいです😭!
「自分がわかんないな」って人、「将来どうなりたいのか、全くイメージが持てない!」って人は、ワーホリでたっぷりの時間と、沢山の人との出会いを通じて、『ここだけは譲れないもの』が必ず見えてくるはずです。
20代後半になってまだ悩んでいる人は是非、ワーホリに行って『本当の自分』を見つけてみてはいかがでしょうか?
