熱帯夜
六畳一間の俺の部屋には昼間の残り香のような生ぬるくて不快な空気が漂い、ねっとりと身体に触れる。
肌から滲み出る汗がベッドサイドのライトに照らされて、彼女の女性らしい丸みを帯びた首や肩や、腕にかけてのラインをつやつやと輝かせている。
電気代をけちってクーラーも、扇風機すらもつけずじっとりとしたこの部屋の中で、上半身だけを起こしてシーツを掴んだ俺の指先だけが唯一ひんやりと冷め切っていた。
「だからさ、私たち終わりにしよ」
「……だからって何、よくわかんないんだけど」
彼女を凝視している俺とは対照的に、横向きのままこちらに目を合わせることなく、のんびりとした口調で彼女は言った。
「だからさぁ、私たち大して好きじゃないんだって」
「なんでそれで分かるんだよ、意味わかんねえよ」「そうだよねぇ。ごめん、でもそう思っちゃったんだよね」
「だからさ、私たち終わりにしよ」
はっと目を覚まし、浅くなっていた呼吸を落ち着かせる。
毎年同じ季節がやって来るたびに記憶がフラッシュバックして、俺の眠りを妨げる。
あれからもう4年が経ったというのに。
暗がりでスマホの電源をつけると、起きたてのぼやぼやした目にこれでもかというくらいの光量が飛び込んでくる。
時刻は3:15。
さすがに起きるには早すぎるとスマホを裏返して寝返りを打ち、再度眠りについた。
大学に入学してすぐにできた彼女だった。
同い年で、ほっそりとした身体つきや綺麗に切り揃えられた細い髪が、しなやかに成長する植物のようで妙に印象が強く残った。
同じ大学で、仲良くなった男友達の知り合いだった。
喫茶店でぎこちなく交わす会話から垣間見える、彼女の感性や表現が面白くて、密かに気になっている人だった。
あの日のような熱帯夜を超えた夏の朝方、俺は彼女に告白した。
昨夜あんなことをしておいて今更恥ずかしそうに毛布に包まり、いいよ、とはにかみながら答える彼女が世界で1番愛おしく感じ、暑いのもお互いの汗も気にせず体を絡めた。
お付き合いを始めてから、彼女は俺が思っていた以上に不思議な感性を持っていることに気づいた。
俺の寝癖を「セロリみたいで可愛い」と言ったり、料理の感想も「男前だ」とか「アンニュイな味わい」などと表現する。
意味はよく分からないことが多かったけど、彼女自身の独特の言い回しが彼女を形成しているようだった。
喧嘩をすることもあったが、その度に彼女の深い核の部分を少しずつ見られていくような気がして、それが俺の気持ちをより大きくさせた。
付き合って2年ほどが経った週末の夜、仕事が終わってそのまま俺の家に泊まりに来た。
お互いの気配やスマホから流れる音、時々通る自動車の音をぼんやりと感じながら、彼女は背中を向けたまま話し出した。
「こうして暑いとさ、何に対しても離れてほしいなーって思わない?
布団も、服も、肌の表面にへばりついてるみたいなあっつい空気もぜーんぶ剥がして剥がして、なにもかも解放されたいって思う。
それでもくっついていたいな、触れたいな、って思う人こそが運命の人っていうか、本当に好きな人ってことだと思うんだよね、すごく当たり前というか、ありきたりなことを言ってるけどさ」
また始まったな、と思いながら「うん」と生返事をする。
視界は縦長の短い動画を捉えていて、次々といろんな情報が入って流れていく。
上にスワイプするとお笑い番組の切り抜きが流れる。今勢いのあるコンビだ。
「だからさぁ、私たちって多分もうそんなに好きじゃないんだよ。離れたいって感じるものの対象にお互いが該当してるの。
それで冬になったらくっつきだすのよ、でもそれは好きなんじゃなくてお互いの体温で寒さを凌ぎたいからで、都合がいいってだけなの。
冬が来て抱きしめ合ってたと思ったら、春が来て手繋ぎになって、夏になったらこうやって離れてそっぽを向き出すの。
都合の良い関係を続ける気もないし、いっそ違う方を向いてるのなら、お互いが向く方向にそれぞれ進んでいったらいいんじゃないかなって思うんだよね」
「、、、何、どういうこと?」
予想外の方向へ進んでいく話におどろき、上半身だけを起こして、固まってしまった口をなんとか開く。
「だからさ、私たち終わりにしよ」
「、、は、、、、?」
言葉の意味はわかるのに、話の理解ができない。
終わりにするって何を?
何を終わりにするって?
っていうか都合のいい関係ってなに?
それからはずっと彼女の横顔に理由を問いただしたが、けろっとした態度で「そういうことだから」と繰り返し答えるだけだった。
2年も付き合った割に、こんなにあっさりと別れを告げるものなのだろうか。
詳しく理由を言わないのは、俺には何を言っても伝わらないと思ったからだろうか。
朝になって、俺の家に置きっぱなしにしていた服や下着をまとめて袋に入れ、彼女は溶けそうに暑い夏の外に消えていった。
別れを受け入れられず、ろくに寝れなかった俺の目には濃い水色が広がる青空があまりにも刺激的で、目が痛くなって涙がでた。
それからというもの、彼女に似ても似つかないような女を何人も抱いた。
抱き心地のいいむちっとした体型とふわふわとゆるく巻いた髪型の、ふにゃふにゃした相槌しかしないような女を持ち帰り、都合の良い関係を続けた。
するりと自分の手から離れていった彼女を忘れるために。こんな方法しか思いつかなかったのだ。
しかし、夏だけはそのごまかしすら効かないのである。
目を閉じるとあの日の情景が夢に出て、他の女を抱こうとすると、あの日の記憶が蘇ってきて吐き気を催した。
どんなに涼しくしても、あの日のべっとりとした空気が肌に張り付いている。
必死に剥がしても剥がしても、あの夜から逃れられない。
目を瞑ればあの日が蘇ってくるから、夏は一晩中煙草を吸う。
彼女は煙草が嫌いだった。煙草の煙を揺蕩わせておけば、匂いに負けて俺の妄想の彼女が逃げていかないかなという期待を込め、別れた後に吸い始めた。
今のところ効果はない。
煙を肺に入れてゆっくりと吐き出しながら、彼女のことを考える。
俺が彼女に近づけていると感じていた傍ら、彼女はどう思っていたんだろうか。
もしかしたら本当は1ミリも満たないくらいの距離しか縮まっていなかったのかもしれない。
そう思えば、別れるまでの1ヶ月前はどんな話をしていたのか覚えていない自分がいた。
いつも思い出すのはあの感情の乗っていない、別れを切り出す横顔だけだった。
それから俺は社会人になり、あっという間に2年が経った
建設関係の会社に勤め、給料は決して高くはないがそれなりに真面目に働いて、学生時代にだらだらと続けていた都合の良い関係は全て絶った。
その間、他に気になる人もできた。
煙草だけはやめられなくて、昼休憩に屋上で吸っているとポケットに入れていたスマホの振動に気づいた。
「もしもし、久しぶりだなぁ。元気にしてたか?」
『おー!久しぶり!こっちは相変わらずだよ。
お前は?』
彼女を紹介してくれた友人だった。
社会人になってから段々と疎遠になってしまったが、久しぶりに連絡をくれたことが単純に嬉しかった。
「元気だよ、それよりどうしたんだよ急に」
『そうそう。お前の元カノの作品が芥川賞のノミネートされてたからさ」
「え?」
『あれ、朝のニュース観てないのか?
期待の新人小説家ってちょっと話題になってたんだけど』
朝のニュースで芥川賞についての話題が触れられていると思いつつ聞き流してしまっていた俺は知らなかった。
彼女は小説家になっていた。
繊細な息遣いを感じる文章と、なにより彼女の独特なセンスと高い表現力が人気を集めているらしい。
確かに本を読むのが好きだって言っていたような気がする。
そういえば、デートの待ち合わせの際は本を読んでいたし、彼女の家には大きな本棚があったような気がする。
俺は彼女のことを知ってる気がしていただけで
本当は何にも知らなかったんだな、と我ながら呆れた。
仕事帰りに本屋に寄った。
何も知らない彼女のことを、今更だけど知ってみたいと思った。
別れた後だからこそ、俺の知らなかった部分を知りたくなった。
彼女の本は芥川賞ノミネートの影響か、平積みで大量に置かれていてすぐにわかった。
本が置かれた棚の前に立って、初めてタイトルを知った俺は一瞬目を見開き、あの夏のような熱い涙が頬を伝った。
『熱帯夜』
おしまい
