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光から音へ、照応としての包摂 -- 是枝裕和『ルックバック』と『幻の光』

是枝裕和監督による実写版『ルックバック(2026年)』を観ました。
原作漫画・アニメ版との比較は多くの方が指摘・考察されると思うので、ここでは少し別の角度から、この作品について考えてみます。

というのも、作品を観たときに「なんとなく似ている」と感じた別の作品との関係を手がかりに、そこから自分なりの仮説を組み立てていく、ということ自体が、私にとっては批評することの面白さ、でもあります。

比較対象として取り上げるのは、是枝監督の長編デビュー作『幻の光(1995年)』です。



●「喪の仕事」を共通項として

ふたつの作品、というか是枝作品のメインテーマというべきものに「喪の仕事(モーニングワーク)」があります。ご本人もいろんな媒体で言及されているので説明は省きますが、それが第1作と本作のメインとなる主題に関わっていると捉えました。

この論考でも共通項として「喪の仕事」を考えることを出発点とします。

『幻の光』では、長い時間をかけた「喪の仕事」としてのトラウマ回復を描いています。これは比較的オーソドックスな物語構造(「喪の仕事」を完遂して喪失を乗り越える話)を持ちます。

それに対し『実写版ルックバック』のそれは、「特異な構造」なのかもしれません。

藤野は京本の死を衝撃を持って受け止めます、そして、そこからの回復の契機が「ある種の統合・再生」として表現されているのです。つまり、喪失した対象を「失ったもの」として切り離すのではなく、自分の創造の中に組み込むということが物語終盤に描かれます。

ふたつの映画にある「喪の仕事」という共通項よりも、むしろ「喪失への対処の仕方の違い」がより本質的な主題として浮かび上がってくるのです。


●幻の光〜「対象喪失」という問題

『幻の光』では主人公・ユミ子は、12歳のときに祖母を失い(四国で死にたいといって失踪した)、また幼い息子を残して前夫は(不可解な)自殺をしてしまう。そのトラウマ・衝撃からの回復を、後妻として入る奥能登の四季の描写とともに描いていく。そんなユミ子を救い出し、包摂するのは現夫・民雄である。

物語終盤の不穏なシークエンスのなかで、ユミ子は「海の向こうにみえる光」を見つけます。前夫や祖母のみた「幻の光」を彼女もまた、見るのです。

そうして、ユミ子は、自身に深くまとわりつく「問い」を発します。
「私、わからへん、どうして、、あの人は死んでしまったのか」(ユミ子はここで自我を保つギリギリの、危いところにある)という魂の叫びに対して、
民雄はこう応えました「海に出ると時々、遠くの方に“光”がきらきらと輝いている。その光を見ているとすうーっと引き寄せられるんだと。でもそこには光なんてない。幻みたいなもんなんやと、言うておった。人間生きてると、誰でもそういうことはあるんと違うか。」

民雄(とその家族)の朴訥とした明るさ、素直な受け止め、つまり照応(※コレスポンダンス)が契機となり、ラストシーンでは、おだやかな内湾のシーンで、日常を感じさせる「生活音」が印象的に響きながら終わる。彼女のながい「喪の仕事」としての嵐は去り、、、「終わった」というより、ひとまず生の側へと戻ることができた。

※「照応」という言葉はここでは、「相手の存在が自分を変え、自分の存在もまた相手を変える関係」という意味で使用しています。

物語構造における留保としては、ユミ子・民雄の両者はここで、抱えきれない問い「つい、惹かれてしまうもの=「幻の光」=死の誘惑」には応えず、いわば彼岸にあるようなもの、として解釈しており、距離を置き直すことで(うまく回避して)回復を試みた、といえよう。

なので、じつは「トリガー」問題は残ってしまってはいるのだ。

●対象を内包する「描く」という回復装置

さて、『実写版ルックバック』でも、このような衝撃的な事件として「死」が描かれます。ただ、本作では、事件そのものよりも、その後の時間が描かれているのが特徴で、ストーリー上の現在地は、あくまでも「死の衝撃」からの回復にあります。

ふたつの映画が似ているポイントはその「現在地」の捉え方ですが、「幻の光」では、死への誘惑を生じさせる「光」と、生の側へ戻る契機とのあいだに、まだ断絶があります。一方の「ルックバック」では、京本という「トリガー」そのものが、藤野の創造行為の内部に保存されます。それが「再生・創造」への後押しとしても描かれていることに注目したい。

とくに着目したのは、是枝版による拡張部分でもある「京本の世界」への「感応・照応」として、藤野が「なぜ、描くのか」が表現されているという点です。
しかも、これは「二度」にわたって反復されています。

①ラストシーンと、子供時代の冒頭シーンとは対応関係にあります。
いずれの場面も藤野の現在は「描くのをやめている(小6での「やーめた」と、事件による「連載休載」)」。一度目の再始動は卒業証書を届けた際に京本と出会い、褒め称えられることでスイッチが入る、雨のなかを走っていく、あの名場面。

②そして、二度目の再始動もおなじく京本の家で、彼女の到達しつつあった作品群である「京本の(美術の)世界」を観て、再び圧倒される。しかも、それは、おもわず「アニメーションとしてその世界を思い描してしまう程」に藤野を揺さぶるのでした(あのシーンは、ふたりのみた「夢」なのです)。

またしても、ここで、藤野は京本に「背中を押される」こととなる。だから、もう一度(反復として)、田圃道を走っていくのだ。

アニメーションとして描かれるその世界は、二人がすでに「描く」ことを通じて互いの世界を内包していたことを、可視化するようでもある。藤野と京本が互いを内包した先には、回復・再生・創造のための手段である「描く」が待っている。

「描く」ことそのものが、かつては京本との出会いによって生じた「トリガー」を、今度は京本を失った後も自分の中に保持しつづける装置になるのです。

さらにいえば、この映画の聴覚的特徴である「さまざまなペンで描く音」は、「生=生み出すこと」の身体性を支えています。この「音」の全景化という点も見逃せないポイントです。

●本作の関心は事件ではなく、残された「他者の存在」との関係


ふたつの映画には、いずれも「死」が描かれていますが、その事件性・社会性ついては、是枝監督は距離をとっています。

是枝作品には、社会的な事件や制度の問題を正面から扱う作品(「ディスタンス」「誰も知らない」「怪物」など)も多数あります。
一方、本作『実写版ルックバック』の関心は、社会的事件そのものではなく、そこから残された「他者の存在」と、それを抱えて生きる個人の側に置かれているように思えます。つまり、京本の死によって藤野の内部に「何が残るのか」が描かれるです。

ひとりは不運な事故により活動をストップせざるを得なかったが、その関係(創造の源泉)はより補完され、揺るぎないものとして、いわば文字通り再-統合された人物として、ペンネームでもある「藤野キョウ」に託されていたことを、私たちは改めて理解します。

だから、お涙ちょうだいの悲しいお話、というよりは「生(生み出すこと)が溢れる物語」として劇場を後にすることができるのです。

●まとめ

『幻の光』のユミ子は、病んだ描写があるように、他者を包み込むというよりは環境や庇護者に溶け込むことで一応の安寧を得た。それは、他者の喪失を抱えた人間が、別の環境へと移り、そこに包摂されることで生の側へ戻ってく物語でした。象徴化された「光」という捉えきれない対象を巡って、そこにある種の留保や諦念、という態度も見られます。

一方で『実写版ルックバック』の藤野/京本は違いに包摂しあい、また照応の関係にある。藤野は、失った他者そのものを自らの創造の内部に抱えたまま、生を続ける/描き続けるという決意と態度で物語を閉じます。さらには具体を共なう「描く音」を全景化することで、「生きること=関わること」のリアリティをも示した、と言えます。

つまり、『幻の光』では、死者を象徴する「光」が彼岸にあるものとして捉え直されるのに対し、『実写版ルックバック』では、失われた他者の存在が「描く」という身体的な行為のなかに残される。そして、その身体性を最も強く支えているのが、ペンが紙を走る音なのではないでしょうか。

上記のような考察から『実写版ルックバック』では原作以上に「藤野/京本」それぞれの「藤野と京本、それぞれの「ひとりの世界」と、二人で共有する「ふたりの世界」、そして再び「ひとりの世界」」を、映像と音とで表現しつくすことにこだわったのでしょう。

その違いに、是枝裕和が30年かけて描いてきた「他者との関係」の一つの到達点を見ることができるのです。

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