お母さん、自信を持って③
※文章を少し、ブラッシュアップしました。
あの時、祖父母が家にいたら助けてもらえた
前回書いた、私が母の前で土下座した日のことを、今でも思い出す。
「玄関で何をやってるの。せっかく娘が会いに
来てくれたのに」
と、祖母は言ったと思う。
母が大人げなく、幼稚なことで怒ったとしても
「そんなことで、まだ中学生なんだから頭ごなしに言いなさんな」とか。
いつも、助けてくれた。
祖父母は私がわがままを言っても、
受け止めてくれたこともあったし、
「さきこちゃんは、可愛い可愛い」と言ってくれたこともあったのだ。
だから、あの日、祖父母が家にいたら。
私は土下座などせずに済んだと思う。
これは断言できる。
母はあの時、祖父母がいないところで私を責めた。
祖父母の前では、天然で世間知らずな「可愛い娘」でいた母。
けれど私との間では、本音を丸出しにして、言いたいことをぶつけてくることがあった。
母にとって私は娘であると同時に、遠慮なく感情をぶつけられる、永遠の格下のような存在だったのかもしれない。
今そう思っても、やっぱり腹が立つ。
祖父母はいつも、心配してくれていた
母方の祖父母の家は、私の唯一の避難所だった。
母や私、弟が父から暴力や暴言を受けるたびに、祖父母の家へ逃げていた。
父は、今で言えば「鬼舞辻無惨か」と思うくらい、恐怖で家族を振り回す人だった。
そのことは、母方の親戚の間でも知られていた。
あの避難所があったからこそ、私はなんとか生き延びることができたのかもしれない。
「愛はお金」「お金は愛」
金銭的に助けてくれたのも祖父母だった。
会うたびに、お小遣いをくれた。
それが、私にとってどれほど救いになったことだろう。
この経験が、
「愛はお金」
そして、
「お金は愛」
という私の価値観につながったことは、今でもあまり変わらない。
もちろん、お金そのものが愛なのではない。
お金の価値は、状況やタイミングで大きく変わる。
祖父はいつも、
「お父さんには言うなよ。さきこ、持ってなさい」
と言って、お金を渡してくれた。
毒家庭では、困っているときに父がお金を出してくれないことが多かった。
だから祖父からもらったお小遣いは、私にとって、
「あなたに使う価値がある」
「あなたを気にかけている」
という証として、私の心に届いていたのだと思う。

助け舟はあった。私は乗る気だった。
ーーーでも、母がそれを蹴った。
祖父は一度、母に言ったことがある。
「辛いなら、離婚してもいい。面倒を見る」
それは私にとって、まぎれもない助け舟だった。
ただし、祖父母の家に連れてこられるのは、姉弟のうち女の子である私ひとりだと言われた。
弟には悪かった。
それでも私は、飛び上がるほど嬉しかった。
私は本気だった。
気が早く、引っ越しの準備のつもりで、自分の荷物を段ボール三箱ほどに詰め始めていた。
それくらい、私はあの家から出たかった。
けれど結局、その話は現実にはならなかった。
母が、その助け舟に乗らなかったからだ。
なぜ母は逃げなかったのか。
母は私に、こう言った。
「初めて、お父さんに可愛いって言われたんだよね。」
私は、一瞬、意味がわからなかった。
「は?」
という思いが先に来て、そのあと、
「嘘でしょ?」
という驚きが押し寄せた。
私はもう、荷物を詰めていた。
段ボール三箱分の希望を、自分の手で作っていた。
それなのに母は、父から逃げる理由ではなく、父に可愛いと言われた記憶を握りしめていた。
お母さん、目を覚まして
その言葉は、あなたを守ってはくれなかったでしょう。
お母さん、自信を持って。
父に可愛いと言われた記憶ではなく、
父の妻であることでもなく、
自分の足で立つための自信を持って。
母が父から離れられなかったことは、母の人生の問題だった。
けれど、その選択の中に、私と弟を巻き込まないでほしかった。
祖父母は、確かに助け舟を出してくれた。
けれど、その船に乗るかどうかを決められるのは、子どもの私ではなかった。
もちろん、理由はそれだけではない。
母は、堂々と「わたし、働きたくない」
とも言った。
結局、母はいくつもの理由を並べて、父のもとに残った。

その後、心身に不調が出た。
私たちきょうだいは、成長過程で明らかに限界のサインを出していた。
詳しい症状については、ここでは書かない。
けれど、表情や言動にも支障が出ていた。
それを見ていたのが、祖父母や、たまに会う親戚たちだった。
みんな、薄々気づいていたのではないだろうか。
親の問題を、子どもたちが背負わされていることに。
父という一人の暴君が、教祖のように一家に君臨していたことを。
ただ、親戚といえども他人の家庭だ。
子どもへの平手打ちを「躾」と言われれば、当時は家庭の中に踏み込むことが難しかったのだと思う。
今のように、DVや虐待という言葉が、家庭内の暴力を説明する共通語として広く知られていた時代でもなかった。
当時の私には、
「親に頬を二発叩かれました」
と訴えたところで、誰かが家庭の中に入り、助けてくれるとは思えなかった。
だからこそ、本当は家族の中の大人が立ち上がらなくてはいけなかった。
子どもだった私がいくら頑張ったところで、何一つ動かせなかった。

毒両親と離れるのに時間がかかってしまった
コロナ禍がきっかけで、ようやく現在、
私は自分の人生を取り戻しつつある。
同時に心の平穏も感じている。
ただ、離れればいいだけなのに
ここまで来るのに、大変な時間と労力を費やしてしまった。
なぜかと言うと。
毒両親の強力タッグと連携プレーに抑え込まれたから
両親ともに、種類の違う毒親だった。
父は、直接的に傷つける毒だった。
恐怖で支配する、目に見えやすい毒を持っていた。
母は、逃げることを許さない毒だった。
どこまでも追いかけてきて、罪悪感で縛る猛毒だった。
私はこの二つの毒に、長い間、挟み撃ちにされていたのだ。
その具体的な連携プレーについては、次に書きたい。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
素敵な記事をあつめました💐
マガジンに入れて頂いた方々、本当にありがとうございます。
また、改めてご紹介させていただきます🏵️
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