「命までは取られへんよ」
【前書き】
大人になると、
仕事ができるとか、数字を取れるとか、
そういう分かりやすい物差しで、
人を見てしまう。
でも、
人生を長くやっていると、
それだけじゃ測れない人が、
確かにいたな、と思い出すことがある。
これは、
僕が会社員だった頃に出会った、
伊藤さんという人の話だ。
【本文】
伊藤さんと同じ会社で仕事をしていたのは、
今からもう20年近く前になる。
当時、伊藤さんは50歳くらいだった。
同期の多くが支店長や部長に
なっていく年齢だ。
僕は、その頃、
まだ24歳だった。
伊藤さんはお世辞にも
仕事ができるタイプではなかった。
見た目も年齢より、
さらに10歳ほど老けて60歳くらい見えた。
一年中、
痔の人が使う真ん中のくぼんだ座布団を
会社の椅子にくくりつけて、
自分仕様にカスタマイズしていた。
クライアントにも、上司にも、
しょっちゅう怒られていた。
ひどい時には、
入社3年目くらいの女子社員にまで
注意されていた。
かわいそうで助けたくなるのだけれど、
怒られる理由は、
100パーセント、いや150パーセント、
伊藤さんに非があった。
だから、どうにもできなかった。
それでも、
伊藤さんには、
たった一つだけ、最強の武器があった。
「僕、こう見えても、
郷ひろみと同い年なんよ〜」
この一言は、
会社の飲み会でも、クライアントの前でも、
スナックでも、どこでも必ずウケた。
小学生以上の老若男女に通用する、
完全な鉄板ネタだった。
活字だと少し伝わりにくいのが
もどかしいのだけれど、
伊藤さんは、
ほどよく頭皮が薄くなっていて、
ちょうどいい具合にお腹が出ていて、
香ばしい感じに足が短い。
その足の短さのせいで、
いつもズボンのすそが、
少しだけダボついている。
そのすべてが、
なぜか絶妙なバランスで成り立っていて、
そこに、あの一言が加わった瞬間、
伊藤さんは最強の破壊力を持つ。
一度、『餃子の王将』で、
注文を取りに来た店員の女性に向かって
このセリフを言ったことがある。
「僕、こう見えても、
郷ひろみと同い年なんよ〜」
すると、隣のテーブルにいた
三人組の主婦が、大爆笑しながら
「あーっ!ムリムリっ、もうダメー!
こんなの初めてーーー!」
と、
一昔前のアダルトビデオみたいな
大絶叫をして、
ハンカチで涙を拭っていた。
恐るべき破壊力だった。
伊藤さんは、
笑いを取る人だった。
でも、それだけじゃない。
ある日、
若手社員がクライアントと
大きなトラブルを起こし、
支店全体がピリピリしていたことがあった。
その重たい空気の中で、
伊藤さんは、ぽつりと、
「まあ、命までは取られへんよ」
と言った。
その瞬間、
支店の空気が、すっと緩んだ。
正直、
僕自身も、何度かこの言葉に救われた。
営業係だった僕たちは、
よく二人一組で外回りをする
「ローラー」をさせられた。
二人一組ということは、
二人分のノルマが課される。
数字を取れない伊藤さんは、
みんなから敬遠されていた。
結局、仕方なく、僕が伊藤さんと
組むことが多くなった。
実質、
僕一人で二人分の数字を
達成しなければならなかった。
ある日、
支店全体の数字が足りず、
また伊藤さんと二人で
ローラーをしていた。
その日は寒くて、
伊藤さんは自動販売機で
ホットコーヒーを二本買った。
一本は、何も言わずに、
僕に手渡してくれた。
僕たちは、缶コーヒーを両手で抱えながら、
少し歩いた。
そのとき、僕は聞いてみた。
「伊藤さんって、
転職とか考えたことないんですか?」
伊藤さんは笑って、
「まー僕ら、
そんな難しいことできやんし、
一生この会社に
しがみついていくわー」
と言った。
転職する覚悟もないのに、
他社のエントリーシートを出したり、
面接を受けたりしているだけの先輩たちより、
伊藤さんのほうが、
ずっとかっこよく見えた。
選択肢を、ある程度切り捨てた人間だけが
持つ、あの清々しさみたいなものが、
伊藤さんにはあった。
きっと、
何度か人生の荒い波に揺らされながら、
それでも船を降りずに
ここまで来た人なのだと思った。
「まあ、一生懸命やってたら、
悪いようにはならんよ」
そう言ってくれたこともある。
ほぼ毎回、
伊藤さんのノルマも僕が手伝っていたせいか、
伊藤さんは、
喫茶店でコーヒーを
よくごちそうしてくれた。
ほぼ毎日、
喫茶店でコーヒーを飲んだ。
僕が会社を辞める少し前に、
伊藤さんは定年退職をした。
会社を辞めたあとも、
何度か二人で会った。
ただ、その頃、
伊藤さんの奥さんが
難病を患われた。
伊藤さんは、
そのことを、
ほとんど口にしなかった。
伊藤さんによく連れて行ってもらった
あの喫茶店は、もうなくなった。
今は、
若い子に人気があるタルト専門の
カフェになっているらしい。
【後書き】
久しぶりに、
伊藤さんに電話してみようと思う。
喫茶店の跡地にできた、
そのタルト屋に誘ってみようかな、と思う。
44歳と70歳のおじさん二人が入ったら、
たぶん、完全に浮く店だ。
でも、伊藤さんとなら、
それも悪くない。
頭の中で、想像する。
「実は僕、
『note』っていうのをやってて、
伊藤さんのこと、
書かせてもらったんですよ」
すると、伊藤さんはきっと、
「ええ〜、もう勘弁してよ〜」
と言う。
そこに、オーダーを取りに来た店員さん。
伊藤さんは、
たぶん、こう言う。
「僕、こう見えても〜……」
そして、
店内はきっと、
大爆笑だ。
