パワハラ監督との対話。
昨日テレビを見ている時ふと
「人からのまっすぐな誉め言葉や、好意、感謝を、頑なに受け入れないことも、ある種の傲慢」
というワードが浮かんだ。
長い間(特に会社員時代まで)、私は自分自身に対して、いつも厳しいパワハラ監督であったと思う。
「ここが足りていない」
「あれができてない」
「それくらいできて当然」
「他の人はもっと頑張っている」
「私は○○が苦手だから」
常にまだ足りていない部分の目標を提示して
「止まってる時間はないぞ。もっと頑張れ」
と止まらない車輪を漕がせ続けていたように思う。
いまでもたまに、結果が出たり、人に喜ばれたり、感謝されても
「きっとまぐれだ。上には上がいる。自分はまだまだ」
と、思っている自分に気づく。
真実かどうかより、それが自分にとって当たり前だったから。
しかし、一見謙虚ともとれるそれは
「人からのまっすぐな誉め言葉や、好意、感謝を、頑なに受け入れないことも、ある種の傲慢」
であるかもしれない。
きょうはパワハラ監督と、向き合ってみる。
パワハラ監督との対話
監督は言う。
「他の人だって頑張っている」
「まだできてないと思った方が成長できる」
「お前のためを思って」
私は答える。
「確かにそれもある。けれど、生きることすら辛くなったり、何のために生きてるかわからなくなるほど追い込むのは逆効果では?」
監督は答える。
「それはお前が弱いんだ。甘いんだよ。みんなもそうやって生きてるじゃないか。考えずに漕げ」
私
「本当にそうでしょうか?私はもういい大人です。一度立ち止まって考えてみたいんです。
これからは、あなたの指導の下ではなく、自分でどう生きるかを選びます」
監督
「はっ!お前にできるわけがない。これまで俺が厳しく指導してきてあげたから道を踏みはずさず、何とか生きてこれたんだ。
言うとおりに生きなければ、どうせ失敗するぞ。金に困るぞ。危ない目に遭うぞ。生きていけなくなるぞ。人が離れていくぞ。お前になんてできっこない。好きに生きるなんてのは、限られた一部の人にしかできないんだよ」
私
「そうかもしれません。でも、それってまだ決まってないですよね?
私はずっとあなたが正しいと思ってきた。世間では、社会では、ふつうは、こうした方が良い。そうじゃないと生きていけない。危ない目に遭う。車輪から降りたら落伍者だ。
私はそれを信じた。その車輪に乗るしかない。ネット上で自由に生きて見える人なんて見せかけでウソなんだと。憎らしいほど羨ましい気持ちをしまい込んで頑張った。
それは私の社会的安心を守ったかもしれません。
でも、同時に私を壊しもしました。
私はいつも怖いことが起こるのではないかと心配し続けた。
何もかも正解があると思い込み、いつも失敗しないように怒られないように、不安と恐怖におびえていた。いつも人に答えを求めたくなった。
正しいことを教えてくれそうな情報や人に、お金と時間を使った。
それでも足りなかった。苦しみは終わらなかった。
だんだんと自分がわからなくなった。何が楽しいか幸せかもわからなくなった。早く人生が終わることばかり望んだ。私は心身を病んだ。
あなたの指導は、私を社会というもののロボットにするには最適だった。自分がなく、うつろいゆく陽炎のような正解と言われるものに縋り付き、お金と時間、労力を支払う。
けれどそれは私を安心させたり、楽しくさせたり、幸福にはしなかった」
監督
「違う。お前がうまくできなかっただけだろう?
それで成功してる人、幸せそうな人もいるじゃないか。
この世界は競争だ。勝ち続けなきゃいけない。勉強し、成長し続けなきゃいけない。
見ろ、みんな必死に、一生懸命生きてるじゃないか?
みんな頑張ってるんだから、お前だけ一抜けたなんて、ズルいだろ?
人に迷惑かけてまでやることか?みんなが可哀そうだろう?
そんなにお前はえらいのか?すごいのか?何にもないふつうのお前に、何かできると思っているのか?」
私
「ほら、それですよ。それが呪いですよ。
自分ではやったこともない人が『みんなもこうしてる、みんなも耐えてる、頑張ってる。だからお前も頑張れ。できないなんて甘えだ。努力しろ。お前には無理だ』と人の人生に口を出す。
罪悪感と自己否定を植え付ける、心配を装った呪いです。
なぜ基本的人権がある世の中で、自分の人生を自分で決めようとすることが否定されるんですか?
どうして『おもしろそうじゃん!やってみろよ!なんとかなるだろ!応援するし協力するよ!』という人が少ないのか?
それは多くの人がすでに呪いにかかっているからかもしれません。
でもそもそも、みんなが耐えなきゃ成り立たない社会であることがおかしくないですか?
なぜもっとみんなが心身ともに健やかで、お金や未来に不安を持たず、我慢や自己犠牲をしなくても生きていけるのがふつう、という社会を作らないのですか?
みんなが苦しんで我慢して、ようやく成り立つ社会、って文明国としておかしくないですか?
みんな働きたくないわけじゃない。学びたくないわけじゃない。
でもやり方、やらせ方に問題があるかもしれない。
だったらベースを見直せばいい。制度を決め直したらいい。
でも面倒なんですよね。きっと。
そしてこのまんまの方が儲かる、便利な人たちも沢山いるからなんでしょうね。
その不均衡さ、土台のアンバランスさを、善良で我慢強く、つい自分を責めながら、ぎりぎりまで頑張ってしまう人たちに押し付ける方が問題じゃないですか?」
監督
「う、うるさい!でしゃばるな!うまくいかないように邪魔してやるぞ!」
私
「なぜですか?あなたのやり方にプライドと確信があるのなら、私なんて放っておけばいい。だって、どうせ勝手にうまくいかなくなるんでしょう?
それとも私のような車輪を降りる者が増えるのは、なにか都合が悪いですか?」
監督
「だまれ!お前は出来損ないだ。どうせうまくいきっこない!」
私
「そうかもしれません。でも、どう思われてもいいです。
私がやりたいことをやったことがない人に何を言われても気にしません。
人と違ってもいいんです。笑われてもいいんです。
その人と私は、価値観が違うというだけだから。
私は絶対的な正解はないと気づいたからこそ、自分なりの正解を見つける旅に出ようと思います。
これまでは、みんながそれが良いよという、新幹線や飛行機の旅のような、早くて、快適で、無駄のない人生を送らなきゃと思っていたけど
今はチャリンコで、時々押して歩いたりしながら、道端の花を愛でたり、通りすがりの人とお喋りしたり、座って夕日を眺めたり、そういう人生を送ってみたいと思ってるんです。
目的地にたどり着くまで必死に我慢するんじゃなくて、その道のりを一瞬一瞬楽しむ。味わう。
気づいたら目的地に到着するかもしれないし、ぜんぜん違うとこにたどり着くかもしれない。それでもいい。そういうプランに変更したいと思ってるんです」
監督
「そんなの金にならんぞ。きっと野垂れ死ぬぞ」
私
「はい。それならそれも運命だと受け入れます。
でもきっと私みたいに、それを面白がってくれる人にも出会えると思うんです。
これまでどうもありがとうございました。それではお元気で」
私は深く一礼して歩き出す。
監督はしばらくあーだこーだと叫んでいたが、いつの間にか風と共に消えました。
