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中学生の私に刺さった法然の言葉

昨日から、倉田百三の『法然と親鸞の信仰』という本を取り寄せ、読んでいます。
この本は法然の絶筆である「一枚起請文」と親鸞の『歎異抄』について、倉田百三が信仰告白のような形でまとめた書です。

私が初めてこの本を読んだのは中学生の時でした。
父方の祖父母が相次いで亡くなったのです。
うちの家は浄土真宗なので、確か浄土真宗のお寺でお葬式があったと思います。

その頃から、父の枕元にこの『法然と親鸞の信仰』が置かれるようになりました。
何でも、葬式で読まれたお経の意味を知りたかったのだそうです。
私もそれにつられてこの本を読むようになり、その熱烈な信仰に心惹かれました。
それ以来、この本は私の座右の書となったのでした。

以前は上下二巻でしたが、今は一つにまとめられています。
前半が法然の「一枚起請文」について語られていきます。
今読み始めた所ですが、一枚起請文の一番大事なところはここです。

唯往生ごくらくのためには南無阿弥陀仏と申してうたがひなく往生するぞとおもひとりて申す外には別のしさい候はず。

倉田百三『法然と親鸞の信仰』(講談社学術文庫)26頁

非常に素朴で単純ですね。
中学生であった私でも意味が分かりました。
唯往生極楽のためには南無阿弥陀仏と称えるだけ、それ以外に法然の信念はないのだ、ということです。

こういう単純で素朴な言葉が、当時中学生であった私の心に刺さったのです。
お葬式が重なり、私なりに宗教心が高まっていたのかもしれません。
でもこれだけで浄土門の安心は尽きていると思います。
これ以上の難しい理論はいらないし、あとはこの法然の言葉通りにお念仏を称えるだけで十分なのです。

極楽って本当にあるの?南無阿弥陀仏って発音するだけで効果あるの?
等と、理屈をこねだすと弥陀の本願から遠ざかってしまいます。
理屈はいりません。
本当に愚かな自分に還って、ただ南無阿弥陀仏と称えるだけでいいのです。

後年、私は理屈に迷い、心が壊れることになるのですが、今振り返ると中学時代の直感は間違ってなかったと思います。
この法然の言葉だけで必要かつ十分だったのです。
むしろここまで釈尊一代の仏教を凝縮せしめた所に、法然の偉大さがあったと言えるでしょう。

無論、もっと詳しく法然や親鸞の教えを学んでもいいのですが、やり方というものがあります。
ただ勉強すればいいというわけではありません。
この法然の言葉をしっかり胸に収めたうえで、それを深め自分に確かめるために勉強するならば大いに意味はあるでしょう。

そうでないなら勉強しない方がむしろ理論に迷わなくていい。
余計な人間の分別は救済には不要です。

ともあれ、『法然と親鸞の信仰』を読んで倉田百三の熱烈な信仰に再び触れ、また法然や親鸞の言葉を味わえるのはとても楽しみです。

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