傷口と痛みについて
僕らは優しい生き物だ。
転んでヒザを擦りむいて泣いている子どもには、手を差し伸べたくなる。
大切な人を亡くして悲しみに暮れる人には、寄り添いたいと思う。
どうしてだろうか。
その傷口が自分の傷跡を思い出させるからだ。
だから相手の痛みも、“分かる”。
自分の中に同じような傷跡があるから、
その傷口に痛みを覚える。
ということは、もしかしたら、
僕らは
相手の傷口ではなく、自分の傷跡を見ているのではないだろうか。
共感したいから助けるのではなく、
自分も痛かったから放っておけない。
僕らは、他者に共感しているのではなく、
他者の中に見つけた自分に共感しているのかもしれない。
そうなると、
迷子になった経験の無い人は、あの寂しくて心細い気持ちを理解できないということになる。
血を流すような怪我を負ったことのない人は、その痛みも不安も理解できないことになる。
はたしてそうだろうか。
「転んでヒザを擦りむいて泣いている子ども」を見た時、僕らはその身体的な傷口の痛みだけを見るわけではない。
例えば、
「自分で出来ると思っていたことで失敗してしまった挫折感」や、
「辛くて泣いているのに、誰にも手を差し伸べてもらえない孤独感」をそこに見出す。
そうした悔しさや心細さを、想像力で少しずつ埋めながら、
僕らは他者の痛みに近づこうとする。
だから人は、
自分が経験していない痛みにも、
手を差し伸べることができる。
他者の傷に触れるたび、
僕らは自分の傷跡にも触れている。
仮に、僕らの優しさが、
自分の傷跡への愛撫に他ならないとしても、
それが人へと連なっていくのなら、
それはやっぱり優しさと呼んでも差し支えないと思う。
