【余白の記録】それは第六感ではなく、働きすぎるセンサーかもしれない
よく登山をしていた時期があった。山を歩いているとき、ふと「ここは長くいたくない」と感じる場所が時々あって、不思議だった。
誰かに何かを言われたわけでもないし、目に見えて危険があるわけでもない。でも体が先に反応する。胸の奥が少しざわつくような、落ち着かない感じ。
一緒に歩いている人たちは普通にしている。だから余計に「気のせいかな」と思う。
けれど、こういう感覚は山だけではなかった。
ニュースで津波の映像を見たときもそうだった。
画面の向こうの出来事なのに、まるでその場にいるかのように苦しくなった。
心だけでなく、体までしんどくなった。同じように感じた人も多かったのかもしれない。
ああいうとき、「何かを受け取ってしまったのでは」と思うことがある。
テレパシーのように、見えないところから感情が流れ込んできたのではないか、と。
でも調べていくうちに、少し違う見方があると知った。
人の脳は、思っている以上に多くの情報を無意識のうちに処理しているらしい。
声のわずかな違い、空間の静けさ、視界の広さや狭さ、人の気配、映像の中の緊張や恐怖の表情。
それらを一瞬でまとめて、「何か変だ」「危険かもしれない」という信号に変えている。
これが、いわゆる“第六感”の正体に近いのかもしれない。
不思議な力というより、見えないレベルで働いている情報処理。
津波の映像で苦しくなったのも、誰かの恐怖や絶望を“受信した”というより、自分の脳がその状況をリアルに再現してしまったのだろう。
想像力と共感が強い人ほど、それは疑似体験に近くなる。
だから、つらくなる。
テレパシーのように感じることがあっても、それは「つながりすぎる心」ではなく、「働きすぎるセンサー」なのかもしれない。
そう思うと、少し安心する。
私はおかしいわけではなく、ただ感じ取る神経のアンテナが前に出やすいだけなのだと、少しずつ分かってきた。
感じやすい、という言葉は「特別」か「弱い」かのどちらかに受け取られがちだけれど、実際はそのどちらでもないのだと思う。
ひとことで敏感といっても、その方向はいくつかある。
人の気持ちや場の空気を強く受け取る人。
音や光、においなど五感からの刺激が入りやすい人。
考えが深く続く人。
言葉にならない雰囲気や自然の気配に心が動く人。
映像や音楽に強く共鳴して、心身にまで響く人。
多くは、これらが混ざり合っている。
そして不思議なことに、このアンテナの感度はいつも同じではない。
疲れているときは小さな刺激も大きく感じ、安心しているときは同じ刺激でもやわらかく受け取れる。
ストレスがあると身を守るための情報が重くなり、自然の中では逆に心がほどけることもある。
だから「昔はしんどかったのに今は平気」も起きるし、「今日はやけにきつい」も起きる。
これは性格が不安定なのではなく、神経の処理する余力が揺れているだけなのだと思う。
一方で、刺激の中でも安定していられる人もいる。
騒がしい場所でも疲れにくく、情報が多くても処理でき、感情に巻き込まれにくい人たち。
これは鈍いのではなく、神経のノイズを拾いにくいタイプ。
得意な環境が違うだけで、優劣の話ではない。
感じやすさは、消すものではなく、扱い方を知るものなのかもしれない。
情報を選ぶこと。
静かな時間を持つこと。
自然に触れること。
自分の状態に気づくこと。
それは「弱いから守る」のではなく、神経の特性に合った場所に自分を置いてあげているだけ。
今は、ぼーっと空を見ていられる時間が多くある。
それだけで、前とは少し違うと感じる。
何かが劇的に変わったわけではない。
ただ神経が少し休めているのだと思う。
不調が和らいできている今、この時間を静かな贅沢だと感じながら、日々を過ごしている。
ただ、それだけでいいのだと思う。
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