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未来のために、今日の魚を買う。

イシモチ。
あの少し癖のある香りが、好きだ。
この町に来るまで、
その魚の名前を知らなかった。
「昔はな、竿を投げれば入れ食いだったんだ」
そう教えてくれたのは、私の父親だった。
私がこの町に来るより、ずっと前の話だ。

港町に来た頃は、道にイワシが転がっていた。
カレーには、ハマグリが入っていた。

魚屋へ行けば、「今日は刺身な」
勝手に魚を決められた。
近所のおばちゃんが、
ボールいっぱいのイワシを持ってくれば、料理教室が始まった。

「やってみる?」家族みんなで、頭をもぐ。
指を腹から尾へ滑らせる。
刺身。
酢漬け。
フライ。
さっきまでの魚が、少しずつ食卓へ近づいていく。
そして。「うわ、くっさー!」
みんなで手を嗅いで笑った。
レモンで手を洗いながら、
おばちゃんが、少しだけ誇らしげに笑った。

少しずつ、魚の名前が増えていった。「おめぇら」と呼ばれれば、
振り向くようになった。
海風の吹く路地も、
いつの間にか見慣れていた。

あの頃の子どもたちも、
いつの間にか大きくなった。
今では、ときどきアジフライの写真が送られてくる。
そんな日々が、ずっと続くと思っていた。

「そろそろマゴチ食べたいね」
妻と、いつもの路地を抜ける。

でも。魚屋のシャッターは、
下りていた。
一枚の貼り紙が、海風に揺れている。
妻が立ち止まった。「寂しくなるね」
私は何も言わず、しばらくそこにいた。

シャッターは下りている。
でも、店はあの頃のままだった。

イシモチの香り。
イワシの匂い。
おばちゃんの手。
父親から聞いた、
昔の港町。
妻と歩いた、いつもの路地。
海風が、静かに通り抜けていく。

今日も、魚を買う。
いつか誰かと食べながら、
「これ、なんて魚?」
と聞かれたら。

私は答える。

イシモチ。


【編集後記】

この町に来て、
たくさんの「名前」を教えてもらいました。

魚の名前。
人の名前。
暮らしの名前。

知らなかったものに、
名前がつくたび、
少しずつ、
この町が近くなりました。

魚屋さんのシャッターが下りた今。
あの頃にもらったものを、
なかったことにしない。

覚えていること。
書いておくこと。
誰かに渡していくこと。

たぶん、
私にできるのは、
そんな小さなことなのだと思います。

今日も、魚を買っています。

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