「それじゃあ、少しの間だけ、お別れだね」
夫のその声は、驚くほど平坦だった。
これから数十年の別離を迎える夫婦の会話にしては、あまりに湿り気がなく、まるで近所のコンビニへ出かけるのを見送るかのような軽やかさだった。
私は白く硬質な診察台の上で、身動き一つ取れないまま、夫の顔を見上げている。
視界の端では、生体モニターが私の心拍を淡々とした緑色の波形で描いていた。
担当医が、事務的な口調で説明を繰り返す。
「視床下部にある『Q神経』への刺激を開始します。本来、人間が進化の過程で封印した冬眠のスイッチです。体温は数時間で二十度まで低下。代謝は極限まで抑制され、あなたは老化することなく、未来へ保存されます」
私の病は、当時の医療では治療法のない進行性の心疾患だった。余命半年。
けれど、AIの予測によれば、あと三十年もすれば特効薬が認可されるという。
三十年。途方もない時間だ。
だが、このQ神経の発見が、その絶望的な長さを、単なる「待機時間」に変えた。
「心配いらないよ。僕はずっと待ってる。君が治る時代まで」
夫の手が、私の手を握った。
その温もりだけが、私を現世に繋ぎ止める最後の錨だった。
意識が急速にシャットダウンしていく中、私は夫の瞳を見た。
そこには、悲嘆も、不安もなかった。
あるのは、奇妙なほど澄み切った、安堵のような光だけだった。
私はそれを、私を安心させるための夫の精一杯の演技だと思い込み、深い闇へと落ちていった。
-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
「……こえますか? ……さん」
瞼の裏を刺すような白い光で、私は目を覚ました。
重たい瞼を持ち上げると、そこは清潔すぎて無機質な病室だった。
「覚醒、成功です。気分はいかがですか?」
声をかけてきたのは、私の知らない若い医師だった。
体を起こそうとして、私は自分の腕を見た。
細いけれど、瑞々しい肌。三十年前と変わらない。
Q神経による人工冬眠は、時間そのものを凍結させる。私の細胞は、あの日から一秒たりとも年をとっていない。
「夫は……?」
私の第一声は、掠れて聞き取りにくかった。
「ロビーでお待ちですよ。治療法はすでに確立されています。心臓の手術も、あなたが眠っている間に完了しました」
私は震える手で顔を覆った。
助かったのだ。
そして、夫は待っていてくれたのだ。
三十年もの間。私という、動かない荷物を背負い続けて。
病室の扉が開いた。
杖をつく音が、カツン、カツンと響く。
入ってきた人物を見て、私は息を呑んだ。
白髪の老人だった。
背は丸まり、顔には深い皺が刻まれ、かつての精悍な面影は、目元のあたりにわずかに残るのみだ。首筋の皮膚は弛み、手の甲には濃い茶色のシミが浮いている。
三十年という歳月が、彼の上だけを無慈悲に通り過ぎていた。
「……おかえり」
老人の声は、しわがれて震えていた。
「あなた……」
私はベッドから降りて、彼を抱きしめた。
骨と皮ばかりになった背中。衣服からは、防虫剤と、古びた紙のような独特の匂いがした。
この人は、人生の最も輝かしい時期を、眠り続ける私を待つためだけに費やしたのだ。
罪悪感が、焼けた鉄のように胸を焦がした。
「ごめんなさい。私だけ、若いままで」
「いいんだ。君が生きていてくれれば」
夫は優しく笑った。
けれど、その笑顔を見た瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
それは直感というよりは、生理的な拒絶反応に近かった。
彼の笑顔は、どこか「練習された」もののように見えたのだ。
退院後の生活は、郊外の高齢者向けスマートシティにある、小さなフラットで始まった。
壁も床も、汚れ一つない白。
夫は甲斐甲斐しく私の世話をした。
リハビリに付き添い、食事を用意し、昔話を聞かせてくれる。
献身的な愛。誰もがそう呼ぶだろう。
けれど、私の違和感は日に日に増していった。
家の中に、私の知らない「生活の痕跡」があるのだ。
ある日、夫が昼寝をしている間に、私はキッチンに立った。
夫は昔から料理などしなかったはずだ。それなのに、今の彼は手慣れた様子で台所に立つ。
調味料の棚を開けた時、奥の方に見慣れない瓶が押し込まれているのを見つけた。
『激辛スパイス』。
夫も私も、辛いものは苦手だったはずだ。
賞味期限は二年前。
誰が、これを使っていたの?
違和感はそれだけではなかった。
クローゼットの奥から見つかった、私が選ぶはずのない派手な色のスカーフ。
洗面台の鏡の裏に落ちていた、小さなヘアピン。どう見ても子供用のものだ。
夫は私を愛している。それは間違いない。
私を見る目は、愛おしさに溢れている。
けれど、その視線は、どこか私の肌のハリや、髪の艶に向けられているような気がしてならない。
まるで、久しぶりに倉庫から取り出した愛車を検分するかのような、ねっとりとした眼差し。
決定的な瞬間は、掃除の最中に訪れた。
リビングの床下収納。
その整理をしようと蓋を開けた時、古びたタブレット端末が出てきた。
埃をかぶっていたが、充電ケーブルを繋ぐと、画面が点灯した。
パスワードはかかっていなかった。
写真フォルダを開く。
指先が冷たくなるのが分かった。
そこに映っていたのは、夫だった。
今より少し若い、五十代くらいの夫。
隣には、ふっくらとした優しそうな女性が寄り添っている。
二人の間には、男の子と女の子。
写真の日付は、私が眠りについてから三年後から始まっていた。
入学式、運動会、家族旅行。
夫は笑っていた。私が知っているよりも、ずっと屈託のない笑顔で。
私は震える指で、画面をスクロールした。
子供たちが成長し、巣立っていく。
やがて、隣にいた女性が痩せ細り、病室で伏せるようになる。
そして、葬儀の祭壇の写真。
日付は、わずか半年前。
私は、自分の退院書類の日付と見比べた。
私が覚醒処置を受けたのは、その葬儀の二ヶ月後だ。
言葉はいらなかった。
数字だけが、残酷な真実を告げていた。
治療法が見つかったから起こされたのではない。
「席が空いた」から、補充されたのだ。
「……何を見ているんだい?」
背後から声がして、私はタブレットを取り落としそうになった。
振り返ると、夫が立っていた。
昼寝から覚めたばかりの彼は、寝癖のついた白髪頭で、ぼんやりと私を見ていた。
「これ……」
私は画面を夫に向けた。声が震えて、うまく出ない。
「あなた、再婚していたの? 子供もいたの? そして……奥さんが亡くなったから、私を起こしたの?」
夫は悪びれる様子もなく、ただ困ったように眉を下げた。
「見つかってしまったか。驚かせてすまない」
彼はよろよろと椅子に座り込み、両手で顔を覆った。
「仕方がなかったんだよ」
指の隙間から、嗚咽が漏れた。
「あの時、僕はすでに彼女と出会っていた。子供もできていたんだ。君を起こすための手術費用は高額だった。君を起こせば、今の家族の生活が破綻する。僕は……選べなかったんだ」
夫は泣いていた。
肩を震わせ、子供のように泣きじゃくっていた。
「苦しかったんだよ。君を見捨てたわけじゃない。ただ、先延ばしにしただけだ。君はQ神経のおかげで、何も感じずに待っていられる。でも、人間というのは不便なものだね。必ず老いる」
夫は顔を上げた。涙で濡れた目は、赤く充血していた。
「妻は癌で亡くなった。子供たちも独立して、海外へ行ってしまった。僕は一人になった。寂しくて、寂しくて、どうにかなりそうだった」
彼は手を伸ばし、私の手首を掴んだ。
その手は枯れ木のように乾いていたが、体温だけが生々しく、不快なほど温かかった。
「そこで神様に祈ったんだ。そうしたら、思い出した。僕にはまだ、君がいるって」
私は息を呑んだ。
Q神経。冬眠。
それは「時間を超える技術」だと、誰もが賞賛した。
けれど、この男にとってそれは何だったのか。
それは、人間を「保存食」に変える技術だったのだ。
必要な時まで鮮度を保ち、不要な時は棚の奥にしまっておく。
若さも、健康も、感情さえも真空パックして。
「これは運命なんだよ」
夫は私の手を、自身のざらついた頬に押し当てた。うっとりとした表情で。
「君は時間を超えて、僕を助けに来てくれた。神様がくれた、二度目のチャンスなんだ。僕が君の時間を止めておいたおかげで、君は老いという苦しみを味わわずに済んだ。そして僕は、こんなに美しい君に看取ってもらえる」
夫は、本気でそう信じている。
彼の中に、悪意はない。
あるのは、自分にとって都合の良い物語だけ。
私が眠っていた三十年という空白を、私の意思が奪われていた事実を、「運命」という甘い言葉でラッピングしている。
在庫調整を「愛」と呼ぶその神経こそが、何よりも恐ろしかった。
「さあ、夕食にしよう。今日は君の好きなシチューを作ったんだ」
夫は涙を拭い、立ち上がった。
鍋から漂う匂いは、私の知らないスパイスの香りを含んでいた。
それはきっと、前の奥さんの味付けなのだろう。
夫が皿を並べる。
その背中は小さく、脆く、私が小突けば簡単に折れてしまいそうだ。
けれど、私は動けなかった。
この世界で、私には身寄りはいない。
資産も、友人も、三十年という時間と共に消え失せた。
私にあるのは、この老人の介護をするという「役割」だけ。
「美味しいかい?」
夫がスプーンを差し出す。
私はそれを受け取り、シチューを口に運んだ。
温かい。とても温かいはずなのに。
それは単なる有機物の塊として、食道を落ちていった。
「……ええ」
咀嚼し、飲み込む。
私の体内で、シチューが消化され、エネルギーへと変わっていく。
それは私が人間として生きるためではない。
この老人を延命させるための動力を、ただ補給しているに過ぎない。
人間の「スイッチの押し方」を忘れていたのではない。
私たちは、自分以外の誰かのスイッチを、あまりにも簡単に押せるようになってしまったのだ。
「よかった。これからもずっと一緒だよ」
夫は満足げにシチューを啜る。
安堵しきったその顔は、壊れかけた家電を買い替えずに済んだ、貧しい老人のようだった。
そして私は、高性能で、新品同様の、便利な「妻」という名の製品だ。
私は口角を持ち上げた。
怒っても無駄だ。泣いても無駄だ。
冷蔵庫の奥から取り出されたばかりの食材が、料理人に文句を言わないのと同じように。
「ええ、とても」
私の心臓は、皮肉なことに、彼への殺意も悲しみも感じないほど、完璧に、冷徹に、健康に脈打っていた。
私はその鼓動を聞きながら、心の奥にあるブレーカーに手をかけた。
パチン。
私のQ神経は、もう眠ることはない。
けれど、人間としての私は、今この瞬間、静かに機能を停止した。
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