地球の支配にゃ
数百万年前の星屑から生まれた知性体たちが、銀河の果てからやってきた。
彼らの文明は、私たちが想像もできないほど高度だった。物質を原子レベルで自在に組み換え、時空を折りたたみ、意識を光子に変換して旅をする。そんな彼らにとって、地球という惑星は、宇宙の辺圏にある、まあ、そこそこ賑やかな辺境の村のようなものだったらしい。
私は、政府から派遣された若手の研究者として、彼らとのファーストコンタクトに立ち会った。
人類の歴史を塗り替える、崇高な知的交流。その最前線に立つ緊張で、私の指先は小さく震えていた。目の前に現れた宇宙人は、驚くほど穏やかで、知的で、そしてどこか切なげな、透き通った佇まいをしていた。彼らは争いや飢餓、そして「欠乏」という概念さえも克服し、究極の論理と調和に到達した種族だった。
私は、人類を代表して、最も本質的な問いを投げかけた。
「あなたたちは、何を目的に、この遠い地球まで来たんですか?」
宇宙人は、静かに、そして厳かに答えた。
「猫です」
私は、自分の耳を疑った。
「……猫?」
「はい。あなた方の文明を遠隔観測していたところ、猫という特異な生物を家畜化したという記録がありました。我々にとって、それは宇宙社会学的に極めて不可解であり、かつ魅力的な事象なのです」
私は、思わず苦笑いした。家畜化? 誰が誰を。
「いや、それは誤解です。むしろ猫が人間を家畜化しているだけで……」
その瞬間、宇宙人の身体を構成する光の粒子が激しく明滅した。彼らの感情指数は非常に高く、驚愕はそのまま視覚的なノイズとなって現れる。
「なんと! 支配構造が完全に逆転していたというのか!」
そこから、彼らの猛烈な「地球調査」が始まった。
彼らは超高度な量子スキャンを用い、地球上のあらゆるデジタルログ、家庭内の監視カメラ、そして人類の無意識下にまでアクセスした。彼らにとって、地球の全情報を解析し、統計的な傾向を導き出すのは、人間が砂時計の砂を数えるよりも簡単なことだった。
そしてわずか数時間後、彼らは震える声で、ある驚くべき結論を導き出した。
「信じられない。人類という種は、なんと献身的なのだ。我々が到達した『最適化された社会』など、あなた方の愛に比べれば、あまりに無機質で空虚だった」
彼らが提示したレポートは、完璧に論理的な視点から導き出された、完璧に的外れな分析だった。
「人類は、猫という至高の存在のために、巨大なコンクリートの都市を建設し、高度な物流網を構築して最高品質のタンパク質を厳選して提供している。さらに、砂をかけて排泄するという彼らの本能的権利を保障し、専用のトイレを整備し、垂直方向の移動欲求を満たすためのキャットタワーという名の娯楽施設まで完備している。これは明らかに、主君に仕えることで精神的充足を得る、高度な『奉仕文明』の形態である」
私は、慌てて否定した。
「いや、それはちょっと違うんです。私たちはただ、彼らが可愛いから、ついつい……」
宇宙人は、学術的な好奇心をあらわに、さらに問いを重ねた。
「では、なぜ猫は働かないのですか? 社会的な役割を一切持たず、生産活動に一切関与していない。熱力学第二法則に抗うかのように、完全な静止と消費のみで生存している。それでも生存が保障されている。これはどういう力学で成り立っているのですか?」
私は口を閉ざした。
だって、猫が早起きして満員電車に揺られたり、誰かに評価されるために必死に努力したりする世界なんて、想像しただけで恐ろしい。そんなことをさせたら、それはもう猫ではない。
「税金は?」
「払わない」
「家賃は?」
「払わない」
「社会保険料は?」
「……もちろん、払わない」
宇宙人は、深い衝撃を受けていた。彼らの文明では、あらゆる権利は義務とセットになっていた。貢献しない者は生存を許されない。それが数百万年かけて構築した、宇宙の絶対的な論理だった。
なのに、この地球という場所では、何もせず、ただそこにいて、たまに気まぐれに喉を鳴らすだけの生き物が、全権を握っている。
「それなのに、人類は猫を愛しているというのですか?」
「……はい」
私は、正直に答えた。
掃除機に驚いて飛び上がる姿や、狭い箱に無理やり体をねじ込む姿を見ているだけで、人生の疲れがすべて消える。彼らに尽くしている時間は、実は私たちが、彼らから「ただ存在していることへの全肯定」という救いを受け取っている時間なのだ。
宇宙人は、深く、深く感動していた。彼らの身体が、かつてないほど温かい黄金色に輝いた。
「これこそが、我々が四百万年かけても理解できなかった、究極の答え……『愛』という名の非論理的な奇跡なのか。効率や最適化を超えて、ただ存在することに絶対的な価値を見出す。地球人よ、あなたたちは、宇宙で最も贅沢な精神性を手に入れている」
彼らは、自分たちの論理的な文明がいかに不完全であったかを悟ったようだった。
「我々は、愛し方を知らなかった。義務のない献身、見返りのない慈しみ。それを教えてくれたのは、あなた方と、あなた方が崇める小さな獣だった」
そう言い残して、彼らは静かに去っていった。
彼らが持ち帰るのは、新たなテクノロジーではなく、「何もせずとも愛される」という、宇宙で最も贅沢な概念だったのだろう。
空に、小さくなっていく光の粒が見えた。
私はふうとため息をつき、自宅に帰った。
玄関を開けると、そこには一匹の猫がいた。
彼は、私が地球の運命を左右する大議論を戦わせてきたことなど全く気に留めていない様子で、あくびをしながら、去りゆく宇宙船をぼんやりと見上げていた。
「ニャー」
短く、気だるげな鳴き声。
そのとき、私のスマートフォンに、宇宙船からの緊急通信が入った。彼らは、次元を越えて旅立つ直前、どうしても伝えたいことがあったらしい。
『……地球人よ。先ほどの結論を再検討した。やはり、その至高の存在を我々の星にも迎え入れたい。その猫を一匹、我々に譲ってほしい。対価として、不老不死の技術か、恒星間航行の秘訣、あるいは11次元の構造図という宇宙の真理を提示しよう』
私は、迷わずスマホを閉じ、猫をぎゅっと抱きしめた。
「絶対ダメ」
猫は、私の腕の中で、また小さく鳴いた。
「ニャー」
通信の向こう側で、宇宙人の絶望に満ちた、けれどどこか納得したような声が聞こえた。
「……交渉決裂です」
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