見出し画像

ゼプト秒の詐欺師(スウィンドラー)

宇宙というやつは、その壮大な見かけによらず、帳簿の管理に関してはどこの大学の事務局よりも口やかましく、そして極めて吝嗇だ。

私が淹れた三杯目のコーヒーが、熱力学第二法則に従って刻一刻と室温に近づいていくのを眺めていると、研究室のメインフレームに居座る知性――便宜上、相棒と呼んでいる――が、ホログラムのディスプレイに冷酷なグラフを投影した。

「無駄な抵抗はやめなさい。最新のシミュレーション結果が出ました。光だけで作られたブラックホール、いわゆる『クーゲルブリッツ』は、この宇宙の法典によって厳格に禁止されています。これを実現しようとするのは、無利子で一兆円借りようとするくらい現実味のない話です」

相棒の合成音声は、いつも以上に平坦だった。論理的に勝ち目のない議論をふっかけられるのを嫌う、彼なりの防衛本能だ。

「『禁止』なんて言葉を物理学者が使うべきじゃないわ」

私は冷めかけたカップを口に運び、眉をひそめた。豆の挽き方が粗すぎた。あるいは、私の人生の見通しと同じくらい、抽出温度が低すぎたのかもしれない。

「いいえ、禁止です。シュウィンガー効果という名の、あまりに強力な治安維持部隊によってね。光のエネルギーを一点に凝縮しようとすれば、空間が歪むより先に真空が悲鳴を上げ、電子と陽電子のペアを吐き出す。せっかく集めたエネルギーは粒子という名の『ノイズ』に化けて四散する。ブラックホールを作るつもりが、ただの質の悪いストーブを完成させて終わりです」

「そうね。現在の標準的なモデルの中では、ね」

私は空になったカップをデスクに置いた。キーボードを叩き、相棒の演算領域に新しいパラメータを放り込む。

「でも、その部隊の『労働条件』に注目したことはある? 彼らは公務員なのよ。つまり、現場に到着するまでには、わずかながらタイムラグがある」

「……何ですか、その泥棒のようなロジックは」

「アイディアその一。時間の隙間を突く。真空が『あ、粒子を作らなきゃ』と判断して実際に物質を吐き出すまでには、量子力学的な応答時間があるはず。アト秒、あるいはゼプト秒の壁。その瞬きよりも短い超短パルスで、全エネルギーを一点に叩き込む。治安維持部隊が到着したときには、もうそこには事象の地平面が完成していて、彼らが何をしようと中には干渉できない」

「無茶苦茶です。そんな短時間で臨界密度を稼ぐには、全宇宙の電力を針の先に集めるような精度が必要です」

「だから、アイディアその二。スクイーズド光による真空の『口封じ』よ。特定の位相で量子的な揺らぎを抑え込み、粒子が生成されにくい環境をあらかじめ局所的に作っておく。さらに、アイディアその三。余剰次元による重力ブースト。極小スケールなら、重力は私たちが知るよりずっと強く働く可能性がある。つまり、ブラックホール形成に必要なエネルギーの『敷居』を、限界の手前まで強引に引き下げてやるの」

相棒のホログラムが、警告色を帯びて激しく点滅した。

「……正気ですか。仮に計算が通ったとしても、これは私のメインフレームの全リソースと、地下のレーザー施設の全電力を食い潰します。もし失敗して装置を焼けば、あなたの来季のポストどころか、この大学の予算ごと消し飛びますよ」

「平気よ。申請書には『ナノ材料の超高速分光特性の調査』って書いておいたから。嘘はついてないわ。事象の地平面の内側にある材料の、究極的な特性を調べるんだもの。アリバイ作りのために、チャンバーの中央にはダミーの酸化チタンのペレットもセットしてある」

深夜三時。大学の地下実験室は、オゾンと古い冷却液が混ざったような、独特の金属的な匂いに満ちていた。
深夜枠の予約を強引に取ったのは、事務局の監視の目が最も緩む時間だからだ。モニターには、相棒が嫌々ながらも完璧に調整した光学系のステータスが並んでいる。

「カウントダウンを開始します」

相棒の声が、排熱ファンの重低音に混じって響く。

「いいですか。成功すればあなたは歴史に名を残しますが、失敗すれば私たちは連名で、数千億円の賠償請求書に名を残すことになります」

「前者の可能性に、私の全財産――といっても、この安物のコーヒー豆数袋分だけど――を賭けるわ」

分厚い鉛ガラスと三重の電磁シールドの向こう側で、レーザーが発振された。

目に見える閃光はない。だが、空間そのものが悲鳴を上げ、ねじ曲がるような感覚が、私の肌を粟立たせた。
シュウィンガー限界。真空が絶縁破壊を起こす臨界点。本来ならここで電子の雲が溢れ出し、すべてを焼き尽くすはずだった。

だが、スクイーズド光によって沈黙させられた真空は、一瞬の判断を遅らせた。
そのコンマ数アト秒の隙間に、余剰次元の暗闇から引きずり出された重力が、光の奔流を逃がさず捉える。

「……事象の地平面、形成を確認!」

相棒の絶叫に近い報告。
真空チャンバーの中心に、それは現れた。
絶対的な、完璧な、光さえも沈黙させる「黒」。
宇宙が「不可能」だと断じた場所に、知性が力ずくでこじ開けた、質量ゼロの特異点。

しかし、その美しさは一瞬だった。

「蒸発を開始! ホーキング放射、激化しています!」

「黒」が、次の瞬間には宇宙で最も凶暴な光の爆弾へと変貌した。
強烈なガンマ線の奔流。事象の地平面の内側に閉じ込められた莫大なエネルギーが、物理法則の帳尻を合わせるために、猛烈な勢いで世界へと還っていく。
「隔壁、閉鎖!」
物理的な防護鉛シャッターが轟音と共に叩き落とされ、地下室の緊急冷却系が悲鳴のような音を立てて起動した。警告のサイレンが鳴り響く。

三ナノ秒。
それが、私たちが作り出した宝石の寿命だった。

嵐が過ぎ去ったあとの実験室には、過熱された金属の匂いと、静寂だけが残されていた。
私は深く息を吐き出し、椅子の背もたれに体を預けた。指先がまだ微かに震えている。

「……三ナノ秒ね。宇宙で最も高価で、最も短命な、そして最も美しいゴミの出来上がり」

「おめでとうございます、博士」

相棒のホログラムが、どこか呆れたような、それでいて少し誇らしげな幾何学模様を描いた。

「あなたが今日使った電気代で、この街の家庭の電力を一ヶ月は賄えたでしょう。得られたのは、三ナノ秒間の黒い点と、深刻な放射線汚染、そして……私のプロセッサの致命的な過熱だけです。で、ダミーとして置いた酸化チタンはどうなりました?」

モニターを確認する。
「当然ながら、素粒子レベルまで分解されて跡形もないわね」
「事務局になんて言い訳するんです?」
「『想定外の高エネルギー反応でサンプルが完全に揮発した。基礎物理学における偉大な失敗である』って報告書を書くわ。嘘は一行も書いてない」

私は笑い、デスクに置いたままだったコーヒーカップを手に取った。
指先に伝わった感覚に、思わず顔をしかめる。冷めきっていたはずの陶器が、奇妙に熱かった。

一口すする。
最悪だった。ホーキング放射がもたらした凄まじい余熱が、電磁シールドすら透過してカップを温め直したらしい。一度冷めた安物のコーヒーを、極限の物理現象で強引に加熱した代物は、鉛を溶かした泥水のような酸味を放っていた。宇宙の真理に触れた代償がこの不味さなら、熱力学の神様はよほど性格が悪い。

「……なんだか、あなたのキャリアの行く末を暗示しているような味ですね」と相棒が皮肉を言う。
「うるさいわね。ポストの安定なんて些細な問題よ。ねえ、相棒。次は……この三ナノ秒を三秒に延ばす方法について考えましょうか。もちろん、事務局にバレない範囲でね」

「……計算を開始します。ただし、次はもっと高いコーヒー豆を用意してください。私の演算リソースに対する、正当な対価として」

「来月末にポストを失って路頭に迷うかもしれないポスドクに、ブルーマウンテンを要求する気?」
私は不味いコーヒーをなんとか飲み下し、新しいペーパーフィルターを取り出した。
「計算リソースを少し割いて、安い豆を美味しく淹れるアルゴリズムでも構築しなさいな」

窓の外では、夜明けの光が白んできていた。
その光の中に、今はもう消えてしまった「絶対的な黒」の残像が焼き付いている。
物理法則との知恵比べは、まだ始まったばかりだ。 

チャンネル登録 よろしくね!

いいなと思ったら応援しよう!

零野亜乃人(れいのあのひと) そんなあなたが「スキ」