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2026年9月4日 百合のドイツ旅行

此嶋家シリーズ

百合回

第一章 遅い夏休み

百合の今年の夏休みは、ずいぶん遅くなった。

世間ではもう夏休みという言葉を使うのも少し違和感がある時期だったが、外資系企業に勤めていると、部署の繁忙期や海外側のスケジュール次第で休暇の時期など簡単にずれる。

今年は特にそうだった。

春から夏にかけて仕事が集中し、同じチームの人間とも休暇が重ならないよう調整しているうちに、百合のまとまった休みは最後まで後ろへ押し出された。

けれど結果的には、それがちょうどよかった。

行き先はドイツ。

単なるバカンスではない。

いくつかの事情が、きれいに一つへ重なった。

百合が担当している欧州企業のクライアントから、フランクフルトで開催される展示会へ招待されていた。現地事務所への訪問と、前日の懇親会もセットになっている。

元々なら誰か別の担当者が行ってもよかった。

ただ、時期が悪かった。

「……誰も行けないじゃん」

自宅でPCに表示したチームの予定表を見ながら、百合は思わず呟いた。

国内側は繁忙期。

欧州案件を触っているメンバーも別案件と重なっている。

上司も、

『此嶋さん、ちょうど休暇まだ取ってなかったよね』

と、いかにも都合のいいことを言ってきた。

百合も最初は、

『それとこれとは別じゃないですか』

と返したのだが、よく考えると悪い話ではない。

フランクフルトまでの往復航空券は会社負担。

ホテルも業務分として二泊までは精算できる。

その後に有給休暇をつなげれば、少なくともドイツまでの交通費はほとんど考えなくていい。

ただでさえヨーロッパ便は高い。

「……これは行くしかないか」

そう結論が出るまで、大して時間はかからなかった。

どうせ今年の休暇は遅い。

それなら仕事を入口にして、そのまま旅行にしてしまえばいい。

百合らしいと言えば、百合らしい決め方だった。


英語についても、それほど不安はなかった。

百合は外資系企業で働いている。

日常的にすべて英語というわけではないが、海外支社やクライアントとのメール、オンライン会議、資料確認は珍しくない。

流暢なネイティブ並み、と自分で言うつもりはない。

それでも仕事で困らない程度には話せる。

それについては、亡くなった祖父・実藤の影響もかなり大きかった。

実藤は現役時代、グローバル部門を長く担当していた。

まだ孫たちが小さかった頃から、

「これからは英語くらい話せないと駄目だ」

と何度も言っていた。

百合だけではない。

菖蒲も。

芙蓉も。

藤乃も。

桜子も。

孫娘が集まれば、何かにつけて英語の話をする祖父だった。

当時は、

「また言ってる」

くらいにしか思っていなかった。

けれど社会人になり、海外企業と普通に仕事をするようになった今では、その意味が嫌というほど分かる。

「おじいちゃん、こうなるの分かってたのかな」

スーツケースへ書類ケースを入れながら、百合は少しだけ笑った。

今回。

仕事は最初の二日間だけだった。

到着翌日にフランクフルトのクライアント企業を訪問。

その夜に懇親会。

翌日は展示会。

そこまでが会社の仕事。

終わった瞬間から、有給休暇へ切り替わる。

そこから四日ほど。

ドイツを中心に滞在する予定だった。

観光もする。

まだ行ったことのない街にも足を伸ばしたい。

そして。

もう一つ。

祖父母の家を見ておく必要があった。


実藤と叶が晩年を過ごした家。

二人が亡くなってからも、此嶋家ではその家を処分していなかった。

定期的な管理は現地側へ頼んでいるし、必要な補修も入れている。

それでも。

家というものは、人が住まなくなれば傷む。

写真や報告書だけでは分からないこともある。

家族の誰かが直接見に行ったほうがいい。

以前からそういう話は出ていた。

けれど。

誰も行く暇がない。

菖蒲は仕事。

芙蓉は最近ますます忙しい。

藤乃にも予定がある。

桜子も簡単に長期で海外へ行ける時期ではない。

両親は大阪。

そうなると。

今回たまたま仕事でドイツへ行き、そのまま休暇に入る百合が一番都合がよかった。

「結局、私か」

少し面倒ではある。

でも。

嫌ではなかった。

祖父母の家へ行くのは久しぶりだ。

祖父と祖母がまだいた頃の記憶も残っている。

特に祖母の叶がいた家というだけで、姉の菖蒲にとっては特別な場所なのだろうが、百合にとってももちろん単なる不動産ではない。

だから。

見るべきところはちゃんと見ておこうと思った。


さらに今回。

もう一つ寄る場所がある。

真砂建築事務所の欧州オフィス。

そこには義兄・健太郎の父もいる。

ドイツ滞在の日程を家族へ話したところ、健太郎のほうから連絡が入り、

『せっかくなら顔出していけば?』

という話になった。

それだけではない。

仕事の二泊分を除いた、その後の滞在ホテルまで手配してくれた。

「そこまでしてもらわなくてもいいのに」

百合は一度断った。

だが。

どうせ現地で付き合いのあるホテルだから。

空きも確認できる。

自分で探すより楽だろう。

そう押し切られた。

結果。

航空券は会社。

最初の二泊も会社。

その後のホテルは義兄の計らい。

自分で負担するのは、実質的には現地での移動や食事、観光程度になった。

「何この旅行」

百合は自分で笑った。

「めちゃくちゃ安上がりじゃん」

バカンスとしては相当恵まれている。

だったら。

仕事はきっちり済ませる。

そのあとは。

遠慮なく楽しむ。

切り替えは大事だった。


出発は今日の夜。

かなり遅い便だった。

荷物は前日までにほとんど準備してある。

大きめのスーツケース。

仕事用のPCバッグ。

機内へ持ち込む小さめのバッグ。

最初の二日間は仕事なので、ジャケットやパンツ、ブラウスも必要だ。

展示会用の資料。

名刺。

充電器。

変換プラグ。

モバイルバッテリー。

化粧品。

旅行用の服。

一通り確認した。

パスポートだけは何度確認しても少し不安になる。

リビングのテーブルに置いたまま、

「持ったよね」

とまた確認する。

あった。

「……もう三回目」

自分で呆れる。

今日は夜まで、特に予定を入れていない。

午前中にメールだけ確認し、休暇中の引き継ぎを最後に一度見直した。

それが終われば。

完全に自由だった。

長時間のフライトになる。

無駄に外へ出て疲れる必要もない。

百合は此嶋邸のリビングでソファへ座り、コーヒーを飲みながらのんびりしていた。

少し離れたところにはスーツケースが置いてある。

出発準備が終わった大きな荷物を見ると、ようやく、

――本当に行くんだ。

という実感が出てきた。

ドイツ。

仕事で海外へ行くこと自体は、もうそれほど特別ではない。

でも今回は違う。

仕事が終われば。

祖父母の家へ行く。

真砂建築事務所の欧州オフィスへ行く。

そして。

一人で何日かドイツを回る。

「何食べようかな」

最初に考えるのがそこなのは、芙蓉の妹だからではない。

たぶん。


夕方になれば家族も戻ってくる。

そして夜。

みんなで羽田まで送ってくれることになっていた。

「別に一人で行けるんだけど」

百合はそう言った。

空港など何度も使っている。

海外出張だって初めてではない。

二十五歳の社会人を家族総出で送り届ける必要など、どこにもない。

それでも。

「どうせ夜でしょ」

「みんな行けるし」

「見送りくらいいいじゃん」

そう押し切られた。

百合も結局、

「まあ、好きにすれば」

と答えた。

本当は。

少し嬉しかった。

本人たちには言わないけれど。

ソファへ深く座り。

スマートフォンを開く。

フランクフルトの天気。

現地の気温。

展示会場までのルート。

そのあと。

観光候補として保存してある店や美術館を眺める。

仕事モードと旅行モードが、一つの画面の中に混ざっていた。

時計を見る。

まだ時間はある。

「今日は、ほんとに何もしないでいいか」

百合はスマートフォンを胸元へ置いて、目を閉じた。

夜になれば。

羽田。

その先は。

ドイツだった。


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百合回

第二章 羽田からドイツへ

夕方。

百合は家族と少し早めの夕食を済ませた。

夜遅い国際線とはいえ、空港へ着いてからやることは多い。チェックイン、手荷物預け、保安検査、出国手続き。国内線のようにぎりぎりに着けばいいわけではない。

食事を終える頃には、玄関の横に置いてあったスーツケースもすっかり出発の顔になっていた。

「じゃ、そろそろ行こっか」

菖蒲が車のキーを手に取る。

今日は菖蒲の車で羽田まで送ってもらうことになっていた。

「ほんとに全員来るの?」

百合が呆れたように言う。

「行くよ」

桜子が即答した。

「久しぶりに空港行きたいし」

「私の見送りじゃなくて空港目当てじゃん」

「半分くらいは」

「素直ね」

藤乃も笑った。

芙蓉はすでに百合のキャリーケースを玄関先へ出している。

「まあ、国際線だしね。余裕持って行こ」

「芙蓉姉さんまで慣れた言い方する」

「仕事で何回行ってると思ってるの」

「それは知ってるけど」

菖蒲も同じだった。

現役時代から海外ロケやイベント、撮影で何度も出国している。

空港へ着いてからの段取りも、荷物の扱いも、搭乗までの時間配分も慣れたものだった。

逆に。

桜子と藤乃は、海外へ出るという意味では久しぶりだった。

二人が最後にドイツへ行ったのは。

祖母・叶の葬儀の時。

観光旅行ではなかった。

空港を楽しむ余裕など、ほとんどなかったはずだ。

だからか。

羽田へ向かう車の中でも、桜子は少しだけ楽しそうだった。

「ねえ、国際線って今どんな感じ?」

「どんな感じって何」

百合が聞く。

「お店とか」

「いっぱいあるよ」

「展望デッキとか行ける?」

「時間あればね」

「行きたい」

「私の見送りじゃなくて完全に観光じゃん」

車内に笑いが起きる。

桜子は気にせず続けた。

「来年、私も大学生だしさ。どっか行きたいな」

「海外?」

藤乃が聞く。

「うん。大学生になったら旅行したい」

「どこ?」

「まだ決めてないけど」

少し考え。

「ヨーロッパとか行きたい」

百合が後ろから言う。

「お金貯めなよ」

「分かってるよ」

「大学生になったらバイトするんでしょ」

「する」

「なら自分で行けるじゃん」

「百合姉みたいに会社に航空券出してもらえたら最高なんだけど」

「それは仕事だからね?」

「でも羨ましい」

「展示会も行くんだから」

「旅行だけじゃないって分かってるって」

桜子は笑っている。

百合もそれ以上は言わなかった。

少し前まで。

桜子が海外へ一人で行くことなど想像もしなかった。

でも。

来年には大学生になる。

そのうち。

友達と旅行へ行く。

一人で飛行機へ乗る。

そういうことも普通になるのだろう。


羽田空港へ着くと、桜子はやはり少しテンションが上がった。

「やっぱ空港いいね」

「何がそんなにいいの」

百合が聞く。

「なんか旅行始まる感じするじゃん」

「私はこれから仕事だけど」

「そのあと旅行でしょ」

「まあね」

菖蒲と芙蓉は、案内表示を見ながらさっさと進む。

「チェックイン先こっち」

菖蒲が言う。

「百合、パスポート出しときな」

「持ってるって」

「確認した?」

「今日何回目よ」

「海外行く時はそれくらいでちょうどいいの」

「分かってます」

チェックインカウンター。

スーツケースを預ける。

座席確認。

乗り継ぎ案内。

必要な手続きを一つずつ済ませる。

今日はミュンヘンまでの長距離便。

そこから国内線へ乗り継いで、フランクフルトへ向かう。

直行ではないぶん。

少し面倒だった。

「ミュンヘンで乗り継ぎ何時間?」

芙蓉が聞く。

「そんなに長くないよ」

「走るほど短くはない?」

「そこまでは」

「なら大丈夫か」

菖蒲が笑う。

「百合なら一人でどうにかするでしょ」

「子ども扱いしないでよ」

「してないわよ」

「全員で見送り来てる時点で怪しい」

「それは家族だから」

百合は少しだけ笑った。


保安検査へ向かう前。

一度足を止める。

ここから先は。

百合一人。

桜子が何気なく聞いた。

「飛行機飛ぶまで見て帰るよ」

「え?」

「展望デッキ行く」

「ほんとに?」

「うん」

藤乃も頷く。

「せっかくだし」

芙蓉も、

「時間あるしね」

と言う。

菖蒲まで、

「ちゃんと飛んだところまで見届けるわよ」

と笑った。

百合は少し呆れた顔をした。

「飛行機なんて普通に飛ぶでしょ」

「分かってる」

「じゃあ帰ればいいじゃん」

「だから見て帰るの」

「意味分かんない」

そう言いながら。

嫌ではなかった。

むしろ。

少し嬉しい。

ここまで送ってもらっただけでも十分なのに。

最後まで見送ると言ってくれる。

家族というのは。

たまに面倒で。

でも。

こういう時だけは、やっぱりありがたい。

百合は一度全員を見る。

「じゃあ」

軽く手を上げた。

「行ってくるね」

桜子がすぐ返す。

「いってらっしゃい!」

藤乃も。

「気をつけてね」

芙蓉は、

「仕事ちゃんとしてから遊びなよ」

と言う。

「分かってる」

最後に菖蒲。

「着いたら連絡して」

「うん」

百合はもう一度小さく手を振る。

そして。

ゲートの向こうへ進んだ。


出国手続きを終え。

搭乗口へ向かう。

家族の姿はもう見えない。

急に。

一人になった感じがした。

それでも。

これから先は。

慣れている。

搭乗口。

待ち時間。

機内。

長いフライト。

百合は席へ着くと。

バッグからタブレットを取り出した。

今回。

ちゃんと準備してきた。

アニメの最新話。

配信アプリで。

事前にダウンロード済み。

機内Wi-Fiが不安定でも問題ない。

「よし」

イヤホンもある。

充電も十分。

モバイルバッテリーもある。

窓の外では。

地上スタッフが動いている。

少しずつ。

搭乗が進む。

フランクフルトまでは。

まだ遠い。

まずは。

ミュンヘン。

そこから乗り継ぎ。

かなり長い一日になる。

百合は座席へ深く座り直し。

タブレットを開く。

画面には。

昨日まで続きを我慢していたアニメの最新話。

「これ見てたら、少しは時間潰せるかな」

離陸前のアナウンスが始まる。

機体が動き出す。

そして。

夜の羽田を離れ。

百合の遅い夏休みが。

ようやく本当に始まった。

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百合回

第三章 仕事を終えて

フランクフルトでの最初の二日間は、百合が想像していた以上に濃かった。

初日に訪れたクライアント企業の事務所には、百合一人で向かったわけではない。現地で合流した自社ドイツオフィスのトップ、営業部長、課長も同席した。

オフィスのトップはドイツ人。

営業部長はオランダ人。

課長だけが日本人だった。

普段はオンライン会議の画面越しにしか会わない人たちだったが、実際に顔を合わせてみれば思ったより気さくで、ホテルから事務所へ向かう車内の時点で随分と話しやすくなっていた。

「此嶋さん、ドイツは久しぶり?」

日本人の課長に聞かれ、百合は頷いた。

「はい。ただ、今回は仕事で来るのは初めてです」

「じゃあ観光とは全然違うね」

「ですよね。昨日までは旅行気分だったんですけど、今朝スーツ着たら一気に仕事になりました」

それを英語で横の営業部長へ伝えると、営業部長が笑った。

「展示会が終わったらすぐ休暇なんだろ?」

「はい。その予定です」

「いい判断だ。ドイツまで来て仕事だけで帰るのはもったいない」

「そう思って、休暇をくっつけました」

「賢い」

百合も笑った。


クライアント企業側も、負けず劣らず多国籍だった。

ドイツ人を中心に、イギリス人、フランス人、インド人。そして日本人の担当者もいる。

会議自体は基本的に英語。

それでも日本人が一人いるだけで、どこか安心感があった。

専門用語が続いた時に微妙なニュアンスを確認できる。

逆に、相手側の日本担当者から、

「この表現、日本側ではどう受け取られますか?」

と聞かれる場面もあった。

百合は資料をめくりながら、

「直訳すると少し強く感じると思います。意味は変えずに、この辺りだけ柔らかくしたほうが通りやすいです」

と説明する。

「なるほど。それ助かります」

こういう時は。

英語が話せるだけでは足りない。

日本側の商習慣。

表現の感覚。

相手企業の文化。

両方を知っていることに価値がある。

百合は仕事を始めて数年経ち、ようやくそういう役割を自然に担えるようになっていた。

祖父・実藤が昔から口癖のように言っていた、

『英語は喋れたら終わりじゃない。その先で何を伝えるかだ』

という言葉まで思い出した。

当時は説教にしか聞こえなかったのに。

「……ほんと、後から効いてくるのよね」

小さく呟く。

隣の課長が聞き返した。

「何か言った?」

「いえ、祖父のこと思い出しただけです」


その夜の懇親会は、さらに賑やかだった。

昼間の会議では堅かった人間も、食事と酒が入れば少しずつ表情が変わる。

同じテーブルで英語が飛び交い、途中でドイツ語が混じり、フランス人同士が少しだけフランス語で話し、インド人の担当者が笑いながらまた英語へ戻す。

百合も自然とその輪に入った。

そして、やはり。

日本人がいるのはありがたかった。

「これ何?」

料理を見ながら百合が小声で聞く。

「ああ、それたぶん肉料理。結構重いですよ」

「初日から?」

「ドイツですから」

「怖いなあ」

二人で笑う。

英語で話している時よりも少しだけ肩の力が抜ける。

もっとも。

百合はこういう多国籍の場そのものが嫌いではなかった。

普段、日本にいると。

取引先が外国企業でも。

結局、画面の中で会うことが多い。

でも、同じテーブルを囲むと。

仕事の話だけではなくなる。

どこに住んでいるのか。

何を食べるのか。

休暇はどこへ行くのか。

日本へ行ったことがあるのか。

そんな話が自然と混ざる。

百合がこのあとドイツ国内を回る予定だと話すと、急に全員が観光アドバイザーになった。

「フランクフルトだけで終わるのはもったいない」

「ケルンは?」

「デュッセルドルフなら日本人街もある」

「ベルリンまで行かないの?」

「四日じゃ無理です」

百合は笑った。

「祖父母の家も見に行かないといけないので」

「ドイツに家があるの?」

そう聞かれて。

少し説明する。

祖父母が晩年をドイツで過ごしたこと。

今は家族で管理していること。

今回、その状態を見る予定であること。

「それなら旅行というより里帰りだな」

ドイツオフィスのトップに言われ、

「そう言われると、そうかもしれません」

と百合も笑った。


翌日。

展示会場へ入った瞬間。

百合は素直に驚いた。

「……大きい」

想像していたより、はるかに規模が大きい。

一つのホールだけではない。

いくつもの区画に分かれ、その中へ企業ブースが並んでいる。

巨大企業。

専門分野では有名な中堅企業。

新興企業。

大学や研究機関に近い展示。

デモ機。

大型モニター。

商談スペース。

あちこちでプレゼンテーションが行われている。

案内を受けながら歩くだけでも、かなりの距離だった。

まずクライアント企業のブース。

そこで今回の展示について説明を受ける。

担当者から商品の背景や今後の展開を聞き。

しばらくすると、予定されていたセミナー会場へ移動する。

英語で行われる講演を聞きながらタブレットへメモを取り、後で日本側へ共有すべきところには印を付けた。

それが終われば。

今度は挨拶回り。

しかも。

自分の担当だけではない。

日本を出る前に、

『せっかく行くならここにも顔出して』

と頼まれていた企業がいくつかあった。

「……私、営業じゃないんだけど」

地図を見ながら小声で愚痴る。

けれど。

頼まれた以上は行く。

名刺を出して。

日本側担当者の名前を伝え。

短く挨拶。

場合によっては話が長くなる。

次。

また次。

気づけば会場内をかなり歩いていた。

昼過ぎ。

一度休憩スペースへ座った瞬間。

「足痛い……」

思わず日本語が出た。

ヒールを履いてきたのは失敗だったかもしれない。

隣にいた日本人課長が笑う。

「展示会でヒールは二日目からやめる人多いよ」

「先に言ってくださいよ」

「初回の洗礼」

「性格悪いなあ」

「明日は休みだからいいじゃん」

「そうだった」

その言葉で。

少し元気になった。

今日を終えれば。

仕事は終わり。

明日からは完全に休暇だ。


夕方まで会場を回り。

最後の挨拶を終え。

ホテルへ戻るかと思ったところで、ドイツオフィスのトップが言った。

「今夜は予定ある?」

百合は首を横に振る。

「特には」

「じゃあ食事へ行こう。仕事終わりの祝い」

「昨日も懇親会でしたよ?」

「昨日はクライアントと。今日はこっちだけ」

「なるほど」

連れて行かれたのは、フランクフルトでも有名だというドイツ料理の店だった。

観光客向けというより。

地元でも昔から知られている店らしい。

木を多く使った重厚な内装。

長いテーブル。

大きなジョッキ。

そして。

料理も大きい。

「これ一人分?」

百合が皿を見て聞く。

「一人分」

「嘘でしょ」

ドイツオフィスの営業部長が笑う。

「食べられなければ残せばいい」

「日本人としては残すのちょっと罪悪感あるんですよ」

「じゃあ食べればいい」

「それもきつい」

結局。

かなり食べた。

肉。

じゃがいも。

ソーセージ。

ザワークラウト。

それにビール。

味は濃い。

でも。

一日中歩いた身体には。

妙においしかった。

「このビール、美味しい」

百合が言う。

トップが笑う。

「ようやくドイツに来た感じがした?」

「昨日からいましたよ」

「仕事ばかりだっただろ」

「確かに」

グラスを上げる。

飲む。

冷たい。

思わず息が出る。

「はぁ……」

今日一日の疲れが、一気に抜けた気がした。

「仕事は終わったなあ……」

日本語で呟く。

隣の課長が聞いて、

「お疲れさまでした」

と笑った。

「ほんと疲れました」

「明日から休暇でしょ」

「はい」

「羨ましい」

「じゃあ休めばいいじゃないですか」

「無理」

「ですよね」

また笑う。


ホテルへ戻ったのは、それほど遅い時間ではなかった。

部屋へ入る。

ジャケットを脱ぐ。

バッグを置く。

靴を脱いだ瞬間。

百合はベッドへ腰を下ろした。

「……疲れた」

足が重い。

でも。

気分は悪くない。

むしろ。

仕事をきっちり終えた達成感があった。

明日は。

まずフランクフルトを少し観光する。

時間はそれほど長く取らない。

昼過ぎには移動。

目的地はデュッセルドルフ。

そこから。

祖父母の家へ行く。

現地の管理人にはすでに連絡済みだった。

家の鍵。

設備。

庭。

雨漏りや傷み。

必要なところを見せてもらう。

報告用に写真も撮るつもりだ。

それが終われば。

真砂建築事務所の欧州オフィスにも顔を出す。

そして。

その先は。

完全に自由。

「何しようかな……」

ベッドへ座ったままスマートフォンを開く。

保存してある観光候補。

店。

美術館。

カフェ。

少しずつ。

仕事の予定表が。

旅行の予定表へ変わっていく。


意外だったのは。

時差をあまり感じていないことだった。

もっと昼夜がぐちゃぐちゃになるかと思っていた。

でも。

羽田を出た便が遅い時間だった。

飛行機へ乗って。

機内食を少し食べて。

アニメを見て。

そのまま寝た。

それが良かったらしい。

ミュンヘンへ着いた時には、身体の感覚もそれほど狂っていなかった。

「夜便正解だったな」

百合は一人で納得する。

ホテルの冷蔵庫から。

残してあったビールを一本出した。

さっきも飲んだ。

でも。

今日はもういいだろう。

仕事は終わった。

明日は休み。

グラスへ注がず。

そのまま少し飲む。

そして。

最後まで飲み干した。

「……美味しい」

空になった瓶をテーブルへ置く。

それから。

シャワーへ向かった。

温かい湯を浴びる。

一日歩き回った身体が。

少しずつ軽くなる。

髪を濡らしながら。

百合は考える。

明日から。

ようやく。

本当のドイツ旅行だ。

そして。

久しぶりの。

祖父母の家。

そこへ行けば。

たぶん。

今まで考えていなかったことまで。

いろいろ思い出すのだろう。

百合はシャワーを止めた。

静かなホテルの部屋で。

仕事の二日間が。

きれいに終わった。


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第四章 祖父母の家

デュッセルドルフへ着いた時、百合が最初に感じたのは、不思議なくらいの安心感だった。

空港を出たところから、日本人らしい姿をちらほら見かける。

ビジネスバッグを持った会社員。

家族連れ。

日本語で話しながら歩く若い男女。

街へ入れば、日本食の店や日本の商品を扱う店も目についた。

「ほんとに多いんだ……」

デュッセルドルフには日本人街があり、ドイツの中でも特に日本人が多く暮らす街として知られている。

もちろん、百合もその程度の知識は持っていた。

ただ、知識として知っているのと、実際に歩いて感じるのとは違う。

ドイツ語の看板が並ぶ中に、日本語が混じる。

カフェの前ではドイツ人と日本人が普通に同じテーブルを囲み、少し歩けば日本からそのまま持ってきたような商品まで売られている。

海外へ来たはずなのに、妙なところで肩の力が抜けた。

「これなら、おじいちゃんたちも住みやすかったかもね」

誰に言うでもなく、百合は呟いた。

祖父母が晩年、この街へ住み着いた。

そのこと自体は昔から知っていた。

でも百合にとって、デュッセルドルフはこれまで、どうしても葬儀の記憶と結びついていた。

祖父・実藤。

そして祖母・叶。

二年続けて、家族でドイツへ来た。

慌ただしく空港から移動し、親族や関係者に会い、葬儀を終えて、また日本へ帰った。

その時は、街を見る余裕などほとんどなかった。

だから、こうして昼間のデュッセルドルフを歩くと新鮮だった。

路面電車。

川。

街路樹。

オフィス街。

住宅地。

祖父母はここで買い物をして、食事をして、散歩をして、人と会っていた。

日本へ帰るまでの仮住まいではなく、ちゃんとこの街で生活していたのだ。

「……そっか」

百合は少しだけ足を止めた。

祖父母が「ドイツに住んでいた」という言葉が、ようやく具体的な生活として想像できた気がした。


祖父母の家を管理しているのは、父が役員を務める旧財閥系不動産デベロッパーと関係の深い不動産管理会社だった。

此嶋家は、その旧財閥系グループの創業一家の一つでもある。

日本にいる時は、家族の中で暮らしているせいか、そうした背景をいちいち意識することは少ない。

けれど海外へ来て、こういう場面になると嫌でも実感する。

百合は事前に、

「私一人で大丈夫です」

と連絡していた。

ところが現地へ着くと、日本人の所長が直々に待っていた。

「此嶋様、本日はよろしくお願いいたします」

「あ、こちらこそよろしくお願いします」

思わず百合も丁寧に頭を下げる。

五十代くらいの男性だった。

きちんとしたスーツ。

言葉遣いも、態度も、明らかに単なる一物件の立ち会いという雰囲気ではない。

車へ案内されながら、百合は少しだけ居心地の悪さを感じた。

「所長さんまで来ていただかなくてもよかったんですけど」

「いえ。此嶋家の物件ですから」

さらっと返される。

「……そうですか」

「お父様からも直接ご連絡いただいております」

「ああ……」

そこでまた実感する。

此嶋家。

祖父は旧財閥系グループの中核メガバンクで頭取まで務めた。

父は同じ系譜に連なる旧財閥系不動産デベロッパーの役員。

そしてその関連先が、ドイツにある祖父母の家まで管理している。

自分が思っている以上に、家のつながりは広い。

「……ほんと、うちってこういう家なんだよね」

車窓を眺めながら小さく呟いた。

所長には聞こえなかったらしい。

百合はそれでよかったと思った。


祖父母の家は、百合が記憶していたより少し小さく見えた。

もっとも、小さいといっても周囲の住宅と比べれば十分にしっかりした家だ。

ただ、日本の此嶋邸ほど大きいわけではない。

祖父母二人が晩年を過ごすには、ちょうどいいくらいの広さだった。

門を入り、玄関の前に立つ。

百合は一度、建物を見上げた。

「変わってない……」

完全に同じではない。

外壁は補修されている。

一部の窓も交換されている。

庭も以前より整えられている。

それでも、形は記憶の中にあるものと同じだった。

所長が鍵を開ける。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

中へ入る。

まず、匂いが懐かしかった。

家具。

木。

少し乾いた空気。

それらが混じった、昔の記憶を引き戻すような匂い。

「……あ」

思わず声が出た。

玄関から廊下、リビングまで、大きくは変わっていない。

家具はきれいに整理され、埃もほとんどない。

人が暮らしていない家なのに、荒れた感じがまったくしなかった。

「定期的に清掃を入れております」

所長が説明する。

「換気も行っています。湿気による傷みが出ないよう、空調設備も最低限動かしています」

「すごいですね」

「ご家族がいつ来ても確認できる状態にはしてあります」

百合は頷いた。

ありがたい。

本当に。


一階を見たあと、二階へ上がる。

祖父の部屋。

祖母の部屋。

そこは、ほとんどそのまま残されていた。

机。

椅子。

本棚。

棚の上の小物。

祖父が使っていた万年筆まで。

完全に保存展示のようにしているわけではない。

でも、持ち主が少し席を外しているだけのように丁寧に残されている。

百合は祖父の部屋へ入る。

「おじいちゃん……」

自然に声が出た。

返事などあるはずもない。

それでも、その名前を呼びたくなった。

壁際には写真が残っている。

祖父・実藤。

若い頃。

銀行員時代。

海外勤務時代らしいもの。

そして家族の写真。

その隣、祖母の部屋。

ここはまた少し雰囲気が違った。

叶が宝塚歌劇団にいた頃の写真。

舞台衣装。

女優時代。

映画。

舞台。

若い祖母は、写真の中でもやはり華やかだった。

「おばあちゃん、やっぱり綺麗……」

百合はしばらく見ていた。

菖蒲が祖母に憧れた理由も、改めて分かる。

幼い頃から、こんな写真が家にあったのだ。

それなら、女優という仕事に憧れるのも当然なのかもしれない。

さらに写真を見ていく。

幼い頃の父。

まだ少年だった頃。

少し成長し、学生になった頃。

そして、結婚したばかりの父と母。

百合は思わず笑った。

「お父さん若っ」

今の父とは、当然だが全然違う。

その次。

菖蒲。

芙蓉。

百合。

藤乃。

桜子。

孫たちの写真。

幼い頃。

学生時代。

家族旅行。

正月。

知らない間に撮られていたような写真まである。

「こんなの残してたんだ……」

百合は一枚ずつ見た。

祖父母が日本から離れて暮らしながら、孫たちの写真をこうして飾っていた。

少し胸が詰まる。

悲しいというより。

懐かしい。


百合はスマートフォンを取り出した。

写真を撮る。

祖父の部屋。

祖母の部屋。

リビング。

庭。

補修されている場所。

それから、芙蓉に頼まれていた動画も回した。

『せっかく行くなら動画も撮ってきて』

出発前にそう言われていた。

写真だけでは分かりにくいから、と。

百合はカメラを回しながら、ゆっくり歩く。

「はい、芙蓉姉さん。リビングです」

誰もいない部屋で、少しだけ照れながら実況する。

「思ったより綺麗。管理ちゃんとしてる。で、こっちが……」

廊下。

階段。

祖父の部屋。

「おじいちゃんの部屋、ほぼそのまま」

次に、叶の部屋。

「おばあちゃんの写真も残ってるよ」

カメラを少し近づける。

舞台時代の写真。

女優時代。

家族写真。

「菖蒲姉さん、これ見たら泣くかもね」

そう言ってから、少し笑った。

たぶん本当に泣く。


建物そのものはかなり良い状態だった。

ただ、全部が完璧というわけではない。

いくつか設備更新が必要な部分があった。

給湯関連。

古くなった電気設備の一部。

さらに地下側の配管に、今のうちに手を入れたほうがいい箇所があるという。

所長が資料を見せる。

「緊急というほどではありません。ただ、今後もこの家を維持されるのであれば、そろそろ更新をおすすめします」

百合は説明を聞く。

費用。

施工期間。

工事範囲。

全部確認する。

今回、父から言われていた。

必要なものは百合の判断で進めていい。

一つずつ日本へ確認を取らなくていい。

父自身も、この物件を管理している会社の系列や実務の流れをよく分かっている。

だからこそ、現地で見た百合の判断に任せていた。

百合は少し考えたあと、

「お願いします」

と言った。

「今やったほうがいいんですよね?」

「はい。今なら大きく傷む前に済みます」

「じゃあ、やってください」

「承知しました」

「書類は父のところへ?」

「はい。お父様宛てに正式書類をお送りし、同時にメールでも内容をご報告します。此嶋様にも写しをお送りします」

「お願いします」

仕事ではない。

でも何となく、仕事と同じだった。

説明を聞いて、判断して、承認する。

社会人になって、こういう時に自分で決められるようになったのは少し不思議な感じがする。

昔、この家へ来た時はただの孫だった。

今は、家を維持する側の一人になっている。


一通り確認を終え、玄関を出た。

百合は最後に、もう一度振り返った。

祖父母の家。

静かだった。

でも、寂しい家には見えなかった。

管理され。

残され。

家族が来ればまた扉が開く。

それでいいのかもしれない。

「また来るね」

誰に言うでもなく、小さく言った。


帰りも所長が車を出してくれた。

「ホテルまでお送りいたします」

「いや、大丈夫ですよ。電車で行けます」

「いえいえ。こちらまで来ていただいたのですから」

結局、また甘えることになった。

車の中で雑談をする。

その中で、真砂建築事務所の話になった。

「真砂先生のお父様には、こちらでも何度かお世話になっています」

「そうなんですか?」

「はい。建物関係で一部、仕事のつながりがあります」

百合は少し驚いた。

「世間狭いですね」

「この地域は日本企業も多いですし、不動産、建築、金融あたりはどうしてもつながりますから」

「なるほど……」

義兄・健太郎の家が、有名な建築事務所だということはもちろん知っている。

けれど、父が役員を務める不動産デベロッパーの関連先と、真砂建築事務所がドイツでも仕事上の接点を持っている。

そう言われると、また不思議だった。

「ほんと、どこ行っても誰か知ってるなあ……」

百合は少し笑った。


ホテルへ着く。

義兄・健太郎の父が手配してくれたホテルだった。

フロントで名前を告げると、すぐに話が通った。

チェックインを済ませ、部屋へ入る。

想像していたより、ずっといい部屋だった。

「……これ絶対普通の部屋じゃないじゃん」

百合は思わず言った。

窓が大きい。

ベッドも広い。

ソファまである。

「遠慮するなって、こういう意味?」

少し呆れながら荷物を置く。

そして、まずは連絡しなければならない。

スマートフォンを取り出す。

健太郎の父。

義兄の父へ電話を掛ける。

すぐに出た。

『はい』

「百合です。今、チェックインしました」

『おお、着いたか』

「はい。この度は本当にありがとうございます」

『なになに』

明るい声だった。

『菖蒲ちゃんの妹だ。遠慮することない』

百合は少し笑った。

「いや、でも、こんなにいい部屋だとは思ってなくて」

『せっかく休みなんだろ。ゆっくりしなさい』

「ありがとうございます」

『困ったことがあれば何でも言いなさい』

「大丈夫です。私、一人で動けますから」

『そういう話じゃない』

相手も笑う。

『何かあったら使いをやるから』

「使いって……」

本気なのか冗談なのか分からない。

「そこまでしてもらったら、逆に困ります」

『ハハハ。まあ、何もなければそれでいい』

気さくだった。

百合がこの人と会ったのは、まだ三回しかない。

結婚関係でつながったとはいえ、普段から親しくしているわけではない。

それなのに、自分を完全に身内のように扱ってくれる。

ありがたかった。

「明日、オフィスにもご挨拶に伺います」

『ああ。待ってるよ』

「よろしくお願いします」

『今日はもう仕事じゃないんだろ?』

「はい」

『なら遊んできなさい』

百合は笑った。

「そうします」

電話を切る。


ベッドへ座る。

静かな部屋。

窓の向こうにはデュッセルドルフの街。

今日一日、ずっと祖父母のことを考えていた。

その街に、今、自分がいる。

そして明日は、今度は義兄の家族とつながる場所へ行く。

百合はスマートフォンを見る。

撮ってきた動画。

祖父。

祖母。

家族写真。

一つずつ送る準備をする。

まず芙蓉へ。

『動画撮ったよ』

送信。

そのあと、此嶋家のグループLINEへ祖父母の家の写真を数枚。

少し考えて、一言つけた。

『ちゃんと綺麗だったよ』

送る。

すぐ既読がつき始めた。

百合はそれを眺めながら、少しだけ笑った。

仕事の二日間とは違う。

ここからは完全に、家族のための、そして自分のための時間だった。


此嶋家シリーズ

百合回

第五章 ドイツの終わりに

翌日。

百合は午前中から、真砂建築事務所の欧州オフィスへ向かった。

ホテルからそれほど遠くはない。

前日に健太郎の父から、

「分からなかったら迎えを出すぞ」

とまで言われていたが、さすがにそれは断った。

「駅もあるし、普通に行けますから」

そう答えると、

「そうか。じゃあ気をつけて来なさい」

と笑われた。

海外にいるからといって、そこまで世話を焼いてもらう必要はない。

もっとも、オフィスへ着いてみれば受付にはきちんと話が通っていて、百合が名前を告げる前から、

「此嶋様ですね」

と迎えられた。

「……やっぱり通ってるんだ」

少しだけ照れくさい。


真砂建築事務所の欧州オフィスは、日本の本社とはまた違った雰囲気だった。

大きな窓。

広いデスク。

壁には建築模型や完成予想図、実際に手掛けた建物の写真が並んでいる。

現地スタッフも多く、日本語だけではなく英語やドイツ語が自然に飛び交っていた。

健太郎の父は奥から出てくると、百合を見るなり笑った。

「おお、来たな」

「昨日はありがとうございました」

「ホテルどうだった?」

「良すぎます」

「そうか?」

「そうですよ。普通の部屋じゃなかったじゃないですか」

「あれくらいでいいだろ」

「よくないですよ」

百合が笑う。

この人と会うのは、まだ三度ほどしかない。

それでも菖蒲の妹というだけで、妙に距離が近かった。

「菖蒲ちゃんは元気か?」

「元気ですよ」

「そうかそうか。健太郎は?」

「この前、一度帰国していました」

「そうか」

父親は小さく頷いた。

「相変わらずあっちこっち飛んでるな」

「ほんとですね」

そんな短いやり取りのあと、話はすぐに別の話題へ移った。

オフィスを案内してもらい、進行中の案件の模型をいくつか見せてもらう。

百合は建築に詳しいわけではないが、説明を聞きながら完成予想図を見るのは面白かった。

「これ、全部こっちでやってるんですか?」

「欧州側でまとめているものもあれば、日本と一緒にやってるものもあるよ」

「へえ……」

「建物なんて完成するまで何年もかかるからな。気の長い仕事だ」

「私、絶対無理です」

「ハハハ。即答だな」

ひと通り見せてもらったあと、スタッフの一人がデュッセルドルフの街を案内してくれることになった。

「いや、ほんとにそこまでしてもらわなくても」

と言ったものの、

「せっかく来たんだから」

で押し切られた。


前日に祖父母の家へ向かう途中でも街は見ていた。

でも今日は違う。

完全に観光客として歩く。

川沿い。

古い街並み。

商店街。

カフェ。

日本人街。

案内されながら歩くと、同じ街でも見え方が変わる。

「こんなところあったんだ」

何度も口にした。

葬儀のために来た時には、ほとんど何も見ていなかったのだと改めて思う。

祖父母はこういう場所を歩いていたのだろう。

この辺りで買い物をして。

食事をして。

知人と会って。

日常を送っていた。

そう考えながら街を見るだけでも面白かった。

昼を過ぎる頃には、百合の中でデュッセルドルフという街が、少しずつ「祖父母の葬儀へ来た場所」ではなくなっていた。


そこから帰国までの三日間。

百合はドイツ国内の観光地をいくつか回った。

ただし、百合の性格上、朝から夜まで予定をぎちぎちに詰め込むようなことはしない。

「休みなのに、なんで予定に追われないといけないの」

これが基本だった。

デュッセルドルフを拠点にする。

朝起きる。

天気を見る。

ホテルで朝食を食べる。

それから鉄道に乗り、朝に出れば夜までに戻ってこられる場所へ足を運ぶ。

観光地を二つも三つも無理に詰め込まない。

一つの街へ行って。

見たいものを見る。

疲れたらカフェへ入る。

気になる店を見つければ予定を変える。

夕方か夜にはホテルへ帰る。

それくらいが百合にはちょうどよかった。

ドイツの鉄道にも何度も乗った。

日本とは案内表示も駅の雰囲気も違うし、最初は少し戸惑ったが、一度慣れてしまえばそれほど難しくない。

スマートフォンがあれば経路も調べられる。

何より、一人で動くこと自体が百合は嫌いではなかった。

誰かと一緒の旅行も楽しい。

でも一人なら、自分が見たいものだけ見ればいい。

疲れたら休める。

急に予定を変えても誰にも気を遣わなくていい。

「一人旅、結構いいな」

カフェの窓際でコーヒーを飲みながら、百合はそんなことを思った。


もちろん、お土産も買った。

父。

母。

菖蒲。

芙蓉。

藤乃。

桜子。

相手の顔を思い浮かべながら菓子や雑貨を選んでいると、思った以上に増えていく。

「これ全部入るかな……」

旅行最終日前日。

ホテルの床に広げた荷物を見て、百合は少し不安になった。

行きより明らかに多い。

しかも。

さらに増えた。

アニメグッズだった。

偶然見つけたショップへ入った時、百合は思わず足を止めた。

「……普通にあるじゃん」

日本のアニメ。

漫画。

フィギュア。

キャラクターグッズ。

ポスター。

見慣れた作品が普通に棚へ並んでいる。

そして、それを見ている客の大半は現地の人だった。

若いドイツ人同士が作品名を口にしながら商品を選び、フィギュアを見比べている。

海外で日本のアニメが人気だということ自体は、百合も当然知っている。

仕事で外国人と話していて、アニメの話題になったことも何度もあった。

でも。

実際にドイツの街中で店を見つけ、そこに客が集まっているのを見ると、知識として聞くのとはまるで違った。

「これ、日本でも売ってるやつじゃん」

そう言いながら手に取る。

結局。

買った。

ドイツまで来て、日本のアニメグッズを買い、それを日本へ持ち帰る。

自分でも何をしているのかよく分からない。

「まあ、記念だから」

一人で言い訳する。

その直後、ドイツ向けらしい限定品まで見つけた。

「……これは仕方ない」

もう完全に買う側の理屈だった。

ホテルへ戻り、ベッドの上へ並べてみる。

「私、何しにドイツ来たんだろ」

呆れながらも。

楽しかった。


そして、帰国の日。

便は午後一番。

朝は少しゆっくり起き、荷物をまとめてホテルをチェックアウトした。

空港へ向かい、荷物を預けようとしたところで見覚えのある人を見つけた。

自社ドイツオフィスの日本人課長だった。

「え、わざわざ来てくれたんですか?」

「近くに用事あったから」

「ほんとですか?」

「半分ほんと」

「半分なんだ」

二人で笑う。

出発までまだ時間がある。

少しだけコーヒーを飲むことになった。

そこで。

課長が何気ない調子で言った。

「そうそう」

「はい?」

「ちょっと嫌な話していい?」

百合は眉を寄せた。

「嫌な話なら聞きたくないです」

「まあまあ」

「何ですか?」

課長はコーヒーを一口飲んでから笑った。

「此嶋さん、欧州担当でしょ」

「はい」

「一度くらい海外で働くのもいいかもね」

百合は一瞬。

意味を理解するのが遅れた。

「……私がですか?」

「うん」

「えー」

すぐに笑う。

「私は日本で十分です」

「そう言うと思った」

「なんですか、それ」

「部長も今回、此嶋さんと直接仕事してみて、優秀な人だって感心してたよ」

「それはありがたいですけど」

「将来的にそういう話が出てもおかしくないってこと」

「やめてくださいよ」

「今すぐって話じゃないよ」

「今すぐでも何年後でも、日本でいいです」

「そんな即答する?」

「します」

課長が笑った。

百合も笑う。

考えてもみなかった話だった。

ただ。

別に不思議ではない。

百合が勤めているのは外資系企業の日本法人。

基本的な勤務先は日本だ。

けれど企業そのものは世界中に拠点を持っている。

日本法人から海外オフィスへ移る社員も毎年いるし、その逆もある。

特に評価の高い社員は、日本法人だけの人材ではなく、グループ全体で使えるグローバル人材として見られることがある。

つまり。

百合もそれに相応しいのではないか。

そう評価されたということだった。

「でも私、日本好きなんですよね」

「知ってるよ」

「イベントもあるし」

「それ、会社には言わないほうがいいと思う」

「重要ですよ」

「仕事より?」

「そこはノーコメントで」

また笑う。

もちろん。

今、この場で何か正式な話が出たわけではない。

ただの雑談。

可能性の話。

それでも、完全な冗談として流すには少しだけ現実味があった。

今回の出張でも。

多国籍のクライアントと仕事をした。

英語で話した。

現地オフィスの人間とも一緒に動いた。

その中で、特に問題なく仕事を終えた。

百合自身にとっては普通のことだったが、それを現地側から評価された。

「……考えたことなかったな」

百合が小さく言う。

「考えるだけならタダだから」

「じゃあ考えるだけにしときます」

「それくらいでいいよ」


課長と別れ、搭乗手続きを済ませる。

出発までにはまだ少し時間があった。

ドイツでの最後の昼食。

何を食べようかと少し迷った末。

結局選んだのは。

ソーセージ料理だった。

「最後なのに、ありきたりすぎるかな」

皿を見る。

ソーセージ。

じゃがいも。

マスタード。

あまりにも分かりやすい。

でも、ドイツ最後の食事なのだから、それくらいでいい。

一口食べる。

「うん」

普通に美味しい。

ビールも欲しくなる。

一杯くらいならいいか。

少し考え。

やめた。

「機内で飲めばいいか」

窓の向こうには空港の景色が広がっている。

数日前。

この国へ来た時には、まだ仕事が待っていた。

フランクフルト。

クライアント企業。

懇親会。

展示会。

そこから。

祖父母の家。

真砂建築事務所。

デュッセルドルフ。

鉄道で巡った街。

お土産。

ドイツで買った日本のアニメグッズ。

思っていた以上に。

いろいろあった。

そして最後に。

全く予定になかった話まで聞いた。

海外勤務。

「ないない」

百合は一人で笑った。

今のところは。

本当にそのつもりだった。

昼食を終え。

搭乗口へ向かう。

午後一番。

日本行きの便。

大きな窓の向こうに停まっている機体を見ながら。

百合は思った。

仕事を利用して少し安くドイツへ来て。

遅めの夏休みを過ごす。

最初は。

それくらいのつもりだった。

でも。

終わってみれば。

祖父母が暮らした街を知り。

家を見て。

家族のつながりを改めて感じ。

自分の仕事についてまで。

少しだけ考えさせられた。

ずいぶん中身の濃い休暇になった。

百合は搭乗券を手に。

ゲートの先へ進んだ。


此嶋家シリーズ

百合回

エピローグ 帰ってきた朝

羽田に着いたのは、朝一番の到着便だった。

長いフライトを終え、機内から降りた瞬間、百合はようやく肩の力が抜けた気がした。

入国手続きを済ませ、預けていたスーツケースを受け取る。

行きより明らかに重い。

「……やっぱ買いすぎたな」

お土産。

雑貨。

そして、なぜかドイツで買ってしまった日本のアニメグッズ。

スーツケースを引きながら、改めて思う。

数日しか離れていなかった。

それでも。

日本語の案内が当たり前に聞こえ、自動販売機もコンビニも見慣れたものばかりというだけで、妙に安心した。

百合は到着ロビーへ出る前にスマートフォンを開いた。

まず。

家族のグループLINE。

『無事着いたよ』

送信。

朝早い時間なのに、間もなく既読がついた。

それから。

悠真にもLINEする。

『着いたー』

短い一言。

旅行中も、悠真とは一日に一度くらいは連絡していた。

それ以上になると。

たぶん止まらない。

一度話し始めれば、どうでもいい話からその日の出来事まで、延々と続いてしまう。

悠真の学校ももう始まっていたし、百合も旅行中だった。

だから今回は。

意識して少しだけ。

それでも毎日。

何かしら一言は送る。

写真を一枚。

『これ食べた』

とか。

『今日ここ行った』

とか。

それくらい。

すぐに返信が来た。

『おかえり』

百合は少し笑った。

『ただいま』

送る。

それからスマートフォンをバッグへしまった。


到着ロビーへ出る。

朝とはいえ、人はそれなりに多い。

迎えの人。

出張帰りらしい会社員。

スーツケースを何個も押している旅行客。

その中で。

百合はすぐに見つけた。

菖蒲。

少し離れた場所で、こちらを見ている。

目が合うと。

菖蒲が笑った。

「おかえりなさい」

百合も自然に笑う。

「ただいま」

スーツケースを引いて近づく。

「わざわざありがとう」

「いいのよ。朝だったし」

「朝だから普通は来ないんじゃない?」

「そう?」

「そうでしょ」

菖蒲は笑った。

「でも、迎えに来たかったから」

「はいはい」

百合はそう言いながらも。

やっぱり嬉しかった。

出発の日も家族みんなで送ってくれた。

帰ってきたら、今度は菖蒲が迎えにいる。

一人で海外へ行けるし。

一人で帰っても困らない。

それでも。

誰かが待っているのは。

悪くない。


駐車場へ向かう。

菖蒲が百合のスーツケースを見る。

「重そうね」

「重いよ」

「何買ったの?」

「お土産」

「そんなに?」

「あと、アニメグッズ」

菖蒲が百合を見る。

「ドイツで?」

「そう」

「日本の?」

「そう」

少し間があった。

「なんで?」

「私もそう思う」

二人で笑った。

「でも、結構普通に売ってたよ」

「へえ」

「現地の人もめっちゃ買ってた。知ってる作品ばっかりだし。日本のアニメってほんと人気なんだね」

「百合には最高だったんじゃない?」

「それはそう」

車へ荷物を積む。

助手席へ乗り込んだ瞬間。

百合は小さく息を吐いた。

「はぁ……」

「疲れた?」

「飛行機が長い」

「それはねぇ」

菖蒲がエンジンをかける。

車がゆっくり駐車場を出た。

外はもう朝だった。

東京の景色。

見慣れた道路。

標識。

信号。

車。

ほんの数日しか離れていない。

それなのに。

妙に懐かしい。

「久しぶりの日本って感じする」

百合が言う。

菖蒲が笑った。

「数日でしょ?」

「そうなんだけど」

「ドイツ、そんな長く感じた?」

「仕事から始まったからかな。フランクフルト行って、展示会行って、デュッセルドルフ行って、おじいちゃんたちの家見て、観光して……」

「結構やってるわね」

「でしょ?」

「写真見たよ」

「家、綺麗だった」

「うん」

「おばあちゃんの部屋もそのままだったよ」

菖蒲は少しだけ表情を柔らかくした。

「そう」

「写真も残ってた」

「私のも?」

「いっぱい」

「やだ」

「何が?」

「昔の写真でしょ?」

「女優の写真。めちゃくちゃある」

「おばあちゃんが飾ってたからね」

百合は窓の外を見ながら。

「動画も撮ったから、あとでちゃんと見せるよ」

「ありがとう」

「芙蓉姉さんにも送ったけど」

「どうせ芙蓉、全部見てるわよ」

「たぶんね」

また少しだけ笑う。


しばらく走ったところで。

菖蒲が聞いた。

「朝ごはん、どうする?」

百合は考える。

機内でも少し食べた。

でも。

日本へ着いたと思った途端。

何かちゃんと食べたくなった。

「どっかで食べよっか」

「うん」

「何食べたい?」

「まだ朝だよね」

「朝」

百合がスマートフォンで時刻を見る。

確かに。

まだ普通なら朝食の時間だった。

そこで。

菖蒲が思い出したように言った。

「なら築地行かない?」

「築地?」

「うん」

「朝から?」

「朝だから」

「何かあるの?」

「行ってみたいところがあるの」

菖蒲は少し楽しそうだった。

百合が横を見る。

「何?」

「牛丼」

「牛丼?」

「有名なお店」

「帰国して最初が牛丼?」

「いいじゃない」

百合は一瞬考えて。

すぐ笑った。

「いいね」

ドイツ最後の食事は。

ソーセージだった。

そして。

日本へ帰って最初の食事は。

牛丼。

分かりやすすぎる。

それでいい。

「じゃ、築地ね」

菖蒲が進路を変える。

「うん」

朝の東京を。

車が走っていく。

少し前まで百合は。

ドイツの空港で。

海外勤務なんてないない、と笑っていた。

今は。

菖蒲の車の助手席。

見慣れた東京。

日本語のラジオ。

いつもの景色。

やっぱり。

ここが落ち着く。

「お腹空いてきた」

百合が言う。

「さっきまで機内にいたのに?」

「牛丼って聞いたら」

「じゃあちょうどいいわね」

「大盛りにしようかな」

「朝から?」

「ドイツ帰りだから」

「関係ある?」

「ある」

菖蒲が笑う。

百合も笑った。

そして二人は。

帰国早々。

築地の名物牛丼を目指して。

朝の東京を走っていった。


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