瓶ビールと漬物と、ばたやん
昔、場末のスナックで飲んでいたことがある。
平成の中頃の話だ。
あの頃、私はまだ20代だった。
店の名前は、もう覚えていない。どんな店だったのかも、細かいところはずいぶん記憶から抜け落ちている。
ただ、飲んだものは覚えている。
瓶ビールを二本。
つまみは漬物。
それで3,000円だった。
今考えると、ずいぶん高級な漬物である。
まあ、スナックというところは、ビールと漬物だけに金を払う場所ではない。
ママとの会話や、店で過ごす時間も込みで3,000円だったのだろう。
そんな店で飲んでいると、古い歌が流れてきた。
ばたやんの「かえり船」だった。
「あれ、これ『かえり船』?」
何気なくそう言った。
するとママが驚いた。
「何で知ってんの?!」
そりゃそうだと思う。
目の前にいるのは20代の男である。
場末のスナックで瓶ビールを飲み、漬物をつまみながら、「かえり船」に反応する。
我ながら、だいぶ渋い。
「おやじが好きだったんよ」
そう答えた。
たしかに親父も昔の歌が好きだった。
だから嘘ではない。
ただ、本当のところを言えば少し違う。
俺が好きだった。
20代の頃から、ばたやんの「かえり船」が好きだった。
でも当時は、それを正直に言うのがなんとなく照れくさかったのだと思う。
同年代が聴いているような歌ではない。
古い歌が好きだと言うより、
「親父が好きだったから知っている」
と言った方が、少し格好がつくような気がしたのかもしれない。
だから親父のせいにした。
今なら何とも思わない。
古い歌が好きだ。
昭和歌謡が好きだ。
ばたやんも好きだ。
好きなものは好きでいい。
でも20代の自分には、そこまで開き直るだけの年季がまだなかったらしい。
それにしても、あの夜の「かえり船」は沁みた。
高級な店ではなかった。
洒落たカクテルを飲んでいたわけでもない。
瓶ビール二本と漬物。
3,000円。
そこへ、ばたやん。
それだけだった。
なのに何十年経っても覚えている。
歌というものは不思議だ。
曲だけが記憶に残るのではない。
そのとき飲んでいた酒や、つまみや、店の空気まで一緒についてくる。
「かえり船」を聴くと、今でも思い出す。
瓶ビール。
小皿の漬物。
薄暗いスナック。
そして、
「何で知ってんの?!」
と驚いたママの声。
若い頃には、もっと派手な夜もあったと思う。
もっと旨いものを食べた夜もあっただろう。
でも、そういう夜は案外覚えていない。
それなのに、瓶ビール二本と漬物で3,000円だった夜は、今も残っている。
そして、あのとき親父のせいにしたことまで覚えている。
「おやじが好きだったんよ」
いや。
親父も好きだった。
でも、俺も好きだった。
あの頃から、ずっと。
今夜、久しぶりに「かえり船」を聴いた。
やっぱりいい。
そして、やっぱり沁みる。
瓶ビールと漬物。
3,000円。
平成の中頃の、ずいぶん昔の夜である。
