遅れてきた涙
たぶん、私は回復してきている。
なぜ、そう思うのかと言えば、昨日から涙が止まらないからだ。
悲しさと怒り。溢れる涙。
堰き止めていた感情が、いまになって決壊したみたいに、止まらない。
体は少しずつ戻ってきているのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。
たぶん、私は怒っている。
壊れかけるまで、自分を休めることを知らずにきてしまった自分に。
そして、怖がっている。
人は壊れるのだ。無理を続ければ、あっさりと。
思えばこの数年間、手抜きなどしたことがあったろうか。
子供たちの誰かが、いつも大事な節目にいて。
全力で応援して、仕事もして、母への訪問もして。
ひとつひとつは些細な積み重ねなのに、気がつけば私は、呼吸の浅い人になっていた。
恵まれていることはわかっている。
困らないだけの生活があって、考える頭もある。
それでも、足りなかった。
私には「自分を労る術」が足りなかった。
子供を三人産んで育てて、働いて。
その負荷は、なかったことみたいに扱われたまま、今日も私は、同じ論理の中に立っている。
営業数字という言葉が、腰のあたりで小さく燃えている。
若い上司から見れば、私は役職もない平社員で、最前線の一人にすぎない。
それは制度の上では正しい。
でも、私の体は、その“正しさ”に合わせることはできなかった。
子供は大きくなったら自立する。
もちろんそれは本当だ。
けれど子育ての終盤には、社会への入り口にどう立つのかという、気の抜けない瞬間が待っている。
どんな言葉をかけるか。どんな眼差しで見守るか。
それは生産性には換算されない。
けれど確かに、誰かの背中を支える静かな労働だった。
巣立っていく子供たちを見送り、今度こそ自分らしく生きようと決めたのに。
いつものように仕事へ出かけようとした朝、私は壊れてしまった。
思えば、起きた瞬間、大きなため息が出た朝だった。
自由を求める余力すら残っていなかったことに、そのとき初めて気づいた。
そして、あれから二ヶ月。
回復の兆しが見えてきた今、私はもう、元の構造には戻れないと感じている。
子育てに悔いはない。
けれど、自分の労り方がわからないまま、ここまで来てしまった。
どうやって、最初の一歩を踏み出したらいいのだろう。
いまはまだ、泣けて仕方がないのだ。
