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日露戦争と無線通信

マルコーニ、木村駿吉、外波内蔵吉そして秋山真之

海の上に見えない線が引かれた

日露戦争を語るとき、人はまず艦影を思い浮かべる。戦艦三笠、対馬海峡、バルチック艦隊、東郷平八郎、丁字戦法。そこには砲煙があり、波濤があり、鋼鉄の艦隊がある。しかし、1904年から1905年にかけての日本海軍を考えるとき、もう一つの線を見落としてはならない。海上に張られた、目に見えない通信の線である。

その線は、旗でも発光信号でもなかった。電波であった。無線電信であった。日露戦争、とくに日本海海戦において、無線通信は艦隊を動かす情報の通路となった。敵を見つけ、その位置を知らせ、主力艦隊を会敵へ導く。砲戦が始まる前に、すでに情報の戦いが始まっていた。

本稿では、日露戦争と無線通信を、4人の人物を軸にたどる。無線電信という入口を開いたマルコーニ。火花式無線を国産軍用品へ仕上げた木村駿吉。無線機を海軍の制度と通信網へ組み込んだ外波内蔵吉。そして、索敵と通信を作戦へ結びつけた秋山真之である。

日露戦争の海上には、砲煙より先に、電波の線が走っていた。

マルコーニという入口

無線通信の物語は、まずマルコーニから始まる。グリエルモ・マルコーニは、1890年代後半に無線電信を実用化へ近づけた人物である。ノーベル賞公式サイトによれば、彼はロンドン、ソールズベリー平原、ブリストル海峡で無線電信システムの実験を成功させ、1897年7月に Wireless Telegraph & Signal Company Limited を設立した。この会社は、1900年に Marconi’s Wireless Telegraph Company Limited と改称された。[1]

マルコーニの無線は、発明であると同時に事業であった。電波を飛ばす技術であり、特許であり、海上通信を支配する商業網でもあった。海軍にとって、それは魅力的であった。見えない距離にいる艦船と通信できるからである。しかし、それは高価でもあった。装置を買うことは、外国企業の特許と運用体系に入ることを意味した。

日本海軍は、マルコーニ式の導入を検討した。しかし、装置代に加えて高額な特許使用料が問題となったとされる。[2] ただし、今回確認したオンライン資料だけでは、特許使用料の具体額を公式資料から直接確定できなかった。そのため本稿では、具体額の断定を避ける。重要なのは、マルコーニ式の導入が装置購入にとどまらず、特許と運用依存の問題を伴っていた点である。

ここで日本海軍は、輸入完成品を買う道から離れ、国産化へ向かった。これは、節約だけの判断ではなかった。軍事通信を外国企業に依存しないための判断でもあった。無線機は機械である。しかし、戦時の無線は機密であり、指揮であり、国家の神経でもある。

外国雑誌から始まった国産化

日本側が得た情報は、完成した設計図ではなかった。電気通信大学60年史によれば、1897年、英国郵政庁技師長ウィリアム・プリースの講演内容が外国技術雑誌 The Electrician に掲載され、それが日本に伝わった。マルコーニ発明の詳細は秘密にされており、日本側にとって、この雑誌記事が重要な手がかりとなった。[3]

逓信省の松代松之助らは、この限られた情報をもとに、ヘルツ波を用いる無線電信の研究を始めた。1898年12月、逓信省は月島海岸と芝金杉沖の船舶との間で、約1海里、すなわち約1.85 km の無線電信通信に成功した。装置は、送信側にインダクションコイルと火花間隙、受信側にコヒーラ検波器とモールス印字機を備える火花式無線であった。[3]

この段階の無線は、後世のラジオ送信機とは性格が異なる。きれいな連続波を出す機械ではなく、火花放電によって減衰振動波を発生させる装置であった。波長という考え方はあったが、現代のように「何 kHz に同調する」といった運用感覚とは異なっていた。送信の規模も、今日の空中線出力や実効輻射電力と同じ意味で読んではならない。火花放電を起こす送信回路への投入電力、蓄電器の放電、空中線電流、電源容量が絡み合う世界であった。

しかし、この荒々しい技術は急速に育った。試験距離は10海里、29海里、34海里へ伸び、1901年には艦船間40海里、陸上・艦船間70海里の通信へ進んだ。そこから三四式無線電信機が生まれ、さらに改良されて三六式無線電信機へ至った。電気通信大学60年史は、安中電機製作所の優秀なインダクションコイルや英国製継電器の採用により、通信距離が80海里から200海里、約370 km へ伸びたと記している。[3]

外国雑誌の記事は、出発点であった。だが、その先にあったのは、部品を作り、壊し、試し、海軍の要求へ合わせていく日本側の実験であった。

木村駿吉と三六式無線電信機

この国産化の中心に、木村駿吉がいた。木村は、逓信省技官から海軍へ出向した人物ではない。電気通信大学60年史は、仙台の第二高等学校教授であった木村駿吉が海軍に転任したと説明している。[3] 彼は、物理学と実験の世界から、海軍の技術開発へ移った人物であった。

木村駿吉の家系も興味深い。彼の父は、幕臣で軍艦奉行を務めた木村摂津守喜毅、号して木村芥舟である。外務省外交史料館の展示史料解説によれば、木村喜毅は、提督として咸臨丸に乗り込んだ軍艦奉行であった。[4] 幕末に咸臨丸で太平洋を渡った父の世代と、明治に無線で海上通信を実用化した子の世代とを並べると、幕府海軍から近代海軍へ続く技術史の線が浮かび上がる。

国立科学博物館の産業技術史資料データベースは、三六式無線電信機について、マルコーニの発明後、海軍で木村駿吉技士らが独自開発し、1903年、明治36年に長崎・台湾間で成功したものと説明している。[5] また、同館の重要科学技術史資料の説明では、三六式は火花放電によって生成した電波をアンテナを介して送受し、ガラス管に金属粉を封入したコヒーラ検波器で検出、印字する仕組みであり、マルコーニ社の技術に頼らず開発されたとされる。[6]

木村の仕事は、華やかな理論の提示より、動く軍用品を仕上げることに近かった。火花を安定して飛ばす。微弱な信号を拾う。艦上の振動や湿気に耐える。未熟な操作でも通信できる。外国企業の装置供給網から離れ、日本海軍が自前で扱える装備にする。三六式無線電信機の歴史的意味は、そこにある。

三六式は、今日の基準で見れば原始的な装置であった。だが、1903年の海軍にとっては、視界の外にいる艦や陸上施設と連絡できる新兵器であった。無線機は、船に載った機械であると同時に、艦隊を結ぶ神経になりつつあった。

外波内蔵吉と艦隊通信網

無線機ができても、それだけで艦隊は動かない。艦船ごとに無線機を積むだけでは、戦時の通信網にはならない。必要なのは、誰が誰を呼ぶか、どの情報をどこへ送るか、望楼と艦船をどう結ぶか、有線電信や海底ケーブルとどう接続するかという制度である。ここで重要になるのが、外波内蔵吉である。

電気通信大学60年史によれば、1899年、海軍は外波内蔵吉海軍少佐に無線電信の調査を命じた。その後、無線電信調査委員会が設けられ、外波内蔵吉海軍中佐が委員長となった。委員には海軍側の人物が入り、嘱託として逓信省の松代松之助が加わり、後に木村駿吉も加わった。[3]

この配置は重要である。木村駿吉が装置開発の中心であったとすれば、外波内蔵吉は無線を海軍の組織へ入れる側の人物であった。艦船、望楼、沿岸施設、有線電信、海底ケーブルを組み合わせ、情報が動く仕組みを作る。それは、無線機の発明史ではなく、軍事通信網の形成史である。

アジア歴史資料センターは、日露戦争期の通信について、海軍が軍用海底ケーブルを敷設し、九州北部、本州西端、朝鮮半島、中国大陸を結ぶ電信網を構築していったこと、また艦船上でも通信可能な無線電信に着目し、1901年に三四式無線通信機を制式化、1903年に三六式無線電信機を完成させ、艦隊と主要望楼などに設置したことを説明している。[7]

さらに、海軍軍令部編『明治三十七八年海戦史』を引用する通信史資料によれば、山本権兵衛海軍大臣は1900年2月9日、海軍中佐外波内蔵吉を無線電信調査委員長に命じ、田中耕太郎を委員、松代松之助を嘱託とした。その後、木村駿吉も海軍教授として委員に加えられた。同資料はまた、1901年10月18日に無線電信機が海軍兵器として採用され、同年11月13日に「無線電信通信取扱規則」が定められたとする。[18]

この規則は、無線を艦隊通信網として運用するための初期の制度であった。同資料に掲載された条文抜粋によれば、無線電信装置を持つ各艦船・望楼を呼び出すには、それぞれの「固有略符号」を用いるとされ、艦隊、駆逐隊、艇隊、総望楼、総艦船・望楼を一括して呼び出す略符号も定められていた。また、発信時には受信者の固有略符号をゆっくり明瞭に5回連送して応答を待つこと、呼ばれた側は「ここに在り」に相当する略符号の下に自己の固有略符号を加えて3回連送することも定められていた。[18]

これらは、コールサインと呼出手順の原型であった。艦船や望楼を識別し、集団を一括で呼び、応答を確認し、中継や日誌を管理する。そこには、無線機を並べただけでは得られない通信秩序があった。

ただし、本稿では、この「無線電信通信取扱規則」の条文全文を公式オンライン資料で直接確認できていない。そのため、固有略符号や呼出手順の具体例は、海軍軍令部編『明治三十七八年海戦史』を引用する二次的掲載資料に基づく参考情報として扱う。公式資料本文に直接当たれない箇所については、断定の度合いを下げて記述する。

それでも、外波の役割は小さくない。無線機を艦隊の制度へ入れること。艦船と望楼を結び、海底線や有線電信とつなぐこと。情報を司令部へ届ける通路を整えること。木村が無線機を作った人なら、外波は無線を海軍の通信システムへ組み込んだ人であった。

海に格子を引いた秋山真之

秋山真之は、無線機を作った技術者ではない。しかし、無線が作戦を変えることを早くから見抜いていた人物である。

防衛省防衛研究所『戦史研究年報』の史料紹介によれば、秋山真之大尉は1899年、明治32年2月8日から9月4日まで、研修のため米国北大西洋艦隊「ニューヨーク」号に乗り組んだ。その間、秋山は海軍省へ報告を送っていた。同資料が紹介する1899年7月27日付の手紙は、秋山が海軍省軍事課長心得の加藤友三郎中佐へ宛てたものである。[8]

その中で秋山は、無線電信機がほとんど完成の域に近づき、将来は一般の海陸通信機になるだろうと見ていた。そして、英・仏・独などの海陸軍がすでに採用試験を行っている以上、日本海軍も調査委員を置いて採用調査に着手すべきであり、それは早計ではないと述べていた。[8] これは、日露戦争の6年前のことである。

秋山の重要性は、丁字戦法の伝説だけに求めるべきではない。彼は、敵を発見する前の海を作戦空間として組み立てた。バルチック艦隊がどの海峡を通るかは、最後まで完全には分からなかった。対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡という複数の可能性があり、連合艦隊は限られた艦艇で広大な海面を警戒する必要があった。

ここで必要だったのは、勇敢な一艦の偶然に頼ることではなかった。敵艦隊発見の確率を高める仕組みであった。哨戒線を置き、探索区域を意識し、望楼と艦船を配置し、発見情報を無線と電信で送る。海は自然の広がりである。しかし、作戦家の目には、それは区画され、監視され、通報される空間となった。

「秋山真之は海に格子を引いた」という表現は、本稿では比喩として用いる。公式オンライン資料で直接確認できるのは、秋山が連合艦隊の作戦担当参謀であったこと、信濃丸が哨戒中にバルチック艦隊を発見したこと、その警報を受けて連合艦隊が出動したことまでである。[9][10] 探索区域の細部や、後世の作戦説明に見られる詳細な構想については、今回確認できた公式オンライン資料だけでは断定しない。

それでも、この比喩は有効である。秋山は、海を眺めたのではなく、海を作戦空間へ変えた。そこへ信濃丸の無線が触れたとき、連合艦隊は一斉に動き出した。

信濃丸の発見と索敵の成功

1905年5月27日未明、仮装巡洋艦信濃丸は、対馬海峡へ向かうバルチック艦隊を発見した。アジア歴史資料センターのニューズレターは、五島列島西方沖を警戒中の信濃丸が、対馬海峡へ向かうバルチック艦隊を発見したと説明している。[10] また、アジア歴史資料センターの日本海海戦展示では、信濃丸からの「敵艦隊、見ゆ」の報告が紹介されている。[11]

アジア歴史資料センターの日露戦争特別展2は、1905年5月27日4時45分、バルチック艦隊を発見した信濃丸が第一報を打電したと記している。[12] さらに、同センターの別解説では、同日未明、特務艦隊の仮装巡洋艦信濃丸がバルチック艦隊の病院船を発見し、連合艦隊の全艦船に出撃命令が出されたこと、旗艦三笠が大本営へ「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直ニ出動之ヲ撃滅セントス 本日天気晴朗ナレ共波高シ」と発信して出撃したことが説明されている。[13]

この場面で重要なのは、信濃丸が敵を発見したことだけではない。その発見が通信網に乗ったことである。見つける艦があり、知らせる無線があり、受け取る司令部があり、出動する主力艦隊があった。索敵、無線、命令、艦隊行動が一つの連鎖となった。

日本海海戦の勝利は、砲戦の瞬間だけで説明できない。砲戦の前に、敵を発見し、通報し、連合艦隊を適切な海面へ導く過程があった。信濃丸の発見は、一艦の功績であると同時に、哨戒配置と通信網の成果であった。

三六式無線電信機は、この場面で機械から戦力へ変わった。火花は信号となり、信号は艦隊を動かしたのである。

世界史的事件としての日本海海戦

この海戦が世界史的事件となった理由は、勝敗の規模にあった。1905年5月27日から28日にかけて、対馬海峡とその北方海域で、日本海軍の連合艦隊は、ロシアの第二太平洋艦隊および第三太平洋艦隊、すなわち日本側の通称でいうバルチック艦隊を撃破した。[12]

その結果は、一方的であった。記念艦三笠の解説によれば、バルチック艦隊38隻のうち19隻が撃沈され、7隻が捕獲または抑留された。一方、日本側の損失は100トン未満の水雷艇3隻であった。[16] 同解説は、ロシアがこの敗戦で太平洋に配備していた艦隊を失ったことが講和へつながったとも説明している。[16]

この数字を見るかぎり、日本海海戦は辛勝ではなかった。連合艦隊にとって、それは海戦史上まれな完勝であった。しかも相手は、ヨーロッパの大国ロシア帝国の艦隊である。オックスフォード大学出版局の Tsushima: Great Battles Series は、日本海海戦を、アジアの海軍がヨーロッパ大国の海軍に勝利した最初の事例、帝政ロシア海軍史上もっとも壊滅的な敗北、そして近代において戦艦艦隊同士が戦った唯一の真に決定的な交戦と位置づけている。[17]

この評価は、海軍史の範囲を超える。同時代の国際社会は、人種と帝国の序列によって強く組み立てられていた。その世界で、アジアの近代国家である日本が、ヨーロッパ大国ロシアの艦隊を海上で圧倒したのである。同時代の語彙を用いれば、それは「有色人種」が「白色人種」の帝国に勝利した事件として受け止められた。今日の読者はその言葉を慎重に扱う必要があるが、当時の世界がこの勝利を人種秩序の動揺として見たことは、歴史的事実として見落とせない。

オックスフォード大学出版局の同書紹介は、この勝利が西洋世界と植民地世界の双方で恐れられ、また祝われたと説明している。[17] 日本海海戦は、日本がロシアに勝った戦闘であると同時に、欧米列強が軍事的優越を独占するという19世紀的な世界観に亀裂を入れた事件であった。植民地支配下の人びとにとって、それは白人帝国の不敗神話が破れる光景に見えた。支配する側にとっては、不穏な前例であった。

連合艦隊の勝利は、海戦史上まれな完勝であり、同時代の人種と帝国の序列を揺さぶった世界史的事件であった。

火花から情報戦へ

日露戦争の無線通信は、機械の話で終わらない。そこには、発明、国産化、制度化、索敵、作戦、世界史が重なっている。

マルコーニは、無線電信という入口を開いた。木村駿吉は、外国企業に依存せず、火花式無線を国産軍用品へ仕上げた。外波内蔵吉は、無線機を海軍の制度と通信網へ組み込んだ。秋山真之は、索敵と通信を作戦へ結びつけた。そして信濃丸は、その仕組みが実戦で作動する瞬間を示した。

三六式無線電信機は、現代の目で見れば不完全な装置である。火花式の電波は広い帯域に広がり、混信を生みやすい。送信電力の意味も、今日の空中線出力とは一致しない。コヒーラ検波器も、後の真空管受信機とは比べられない。だが、その不完全な装置は、1905年の海で決定的な働きをした。

技術は、完成してから歴史を動かすとは限らない。粗く、脆く、扱いにくい段階であっても、制度と作戦の中へ入れば、歴史を動かすことがある。日露戦争の無線通信は、その典型であった。

日本海海戦の砲声の背後には、火花の音があった。小さな火花は信号となり、信号は艦隊を動かし、艦隊の勝利は世界の秩序を揺さぶった。

[1] NobelPrize.org, “Guglielmo Marconi – Biographical”
https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1909/marconi/biographical/

[2] KDDI総研「電気通信の歴史関連資料」
https://rp.kddi-research.jp/download/report/RA1995006

[3] 電気通信大学60年史「前編序章2節」
https://www.museum.uec.ac.jp/60th-anniversary/zenpen/ch00-2.html

[4] 外務省外交史料館「別航ノ軍艦ニ搭乗ノ吏員人名軍艦奉行ヨリ外国奉行ニ報道書」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/akebono/13.html

[5] 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「三六式無線電信機」
https://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?no=900890141106

[6] 国立科学博物館 重要科学技術史資料「世界最高性能を誇った無線電信機」
https://sts.kahaku.go.jp/material/2017pdf/no228.pdf

[7] アジア歴史資料センター「アジ歴ニューズレター 第47号 日露戦争と通信」
https://www.jacar.go.jp/wp/newsletter/newsletter_047j/newsletter_etc2_047j/

[8] 防衛省防衛研究所『戦史研究年報』史料紹介「秋山真之大尉から加藤軍事課長心得に宛てた手紙」。同資料は、秋山真之大尉が1899年2月8日から9月4日まで米国北大西洋艦隊「ニューヨーク」号に乗り組み、同年7月27日付で海軍省軍事課長心得加藤友三郎中佐へ無線電信採用調査の必要を述べた手紙を紹介している。
https://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200403/01.pdf

[9] アジア歴史資料センター「用語集 秋山真之」
https://www.jacar.go.jp/exhibition/nichiro2/yougoshu/index.html

[10] アジア歴史資料センター「アジ歴ニューズレター 第47号 日本海海戦の“前哨戦”」
https://www.jacar.go.jp/wp/newsletter/newsletter_047j/newsletter_etc1_047j/

[11] アジア歴史資料センター「信濃丸からの報告『敵艦隊、見ゆ』」
https://www.jacar.go.jp/exhibition/nichiro/japan_sea_03.htm

[12] アジア歴史資料センター「海上の戦い 日本海海戦(2)」
https://www.jacar.go.jp/exhibition/nichiro2/sensoushi/kaijou_09_detail.html

[13] アジア歴史資料センター「戦艦三笠の半生」
https://www.jacar.go.jp/exhibition/nichiro2/topic/topic01_03.html

[14] 防衛省防衛研究所「日露戦争120年―日露戦争に関する旧日本陸海軍の史料―」
https://www.nids.mod.go.jp/military_archives/digital_siryo/russojapanesewar120th/index.html

[15] アジア歴史資料センター「アジ歴ニューズレター 第47号 日露戦争と通信」
https://www.jacar.go.jp/wp/newsletter/newsletter_047j/newsletter_etc1_047j/

[16] 記念艦三笠「三笠が戦った日露戦争 日本海海戦」
https://kinenkan-mikasa.or.jp/kids/war/kaisen.html

[17] Oxford University Press, Tsushima: Great Battles Series
https://www.oupjapan.co.jp/en/node/63494?language=en

[18] 「History of Citizens Band Radio - コールサイン」。同ページは、海軍軍令部編『明治三十七八年海戦史』第四部巻四、第三章「無線電信」第一節を引用し、「無線電信通信取扱規則」の一部条文を掲載している。公式オンライン資料としての原典本文は今回確認できなかったため、本稿では参考資料として扱う。
https://sites.google.com/site/cb465mhz/callsign


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