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ミラノ・コルティナ五輪が終わって

冬の祭典が幕を閉じた。テレビの前で一喜一憂し、時には深夜まで中継に見入り、気がつけば感動したり、考え込んだり、がっかりしたり——そんな2週間余りが過ぎていった。いくつかの場面が、まだ頭の中に残っている。


開会式・閉会式——「五輪らしくない」という新鮮さ

まず目を引いたのは、開会式・閉会式のあり方そのものだった。ミラノとコルティナ・ダンペッツォ、複数の都市にまたがって展開された演出は、「一箇所に集まる」という従来の五輪の常識を軽やかに超えていた。新たに巨大施設を建てるのではなく、ミラノのドゥオーモ広場や歴史ある建造物を舞台に使う。それだけで、この大会が何かを変えようとしているのだと伝わってくる。

ウェアにも変化があった。かつてはNikeやAdidasといった巨大スポーツブランドが五輪を席巻していたが、今大会では各国の事情や文化を反映した多様なブランドが入場行進を彩った。EA7 Emporio Armaniのイタリア、UNIQLOのスウェーデン、lululemonのカナダ、Monclerのブラジル……この点については別途まとめた記事(ミラノ・コルティナ2026:冬季五輪ユニフォームにおけるブランド勢力図の構造的変容とファッションの政治学)もぜひ読んでいただけると嬉しいが、「均一化」から「多様化」へという流れは、スポーツビジネスの世界でも着実に進んでいるのだと感じた。


チームで戦う、という力

日本選手団を見ていて印象的だったのは、個人競技の集合体でありながら、チームとして機能していた場面の多さだった。

スキージャンプの日本チームは、高梨沙羅選手の存在なくして語れない。かつての栄光と挫折を経て、それでも山の頂に立ち続けようとする彼女の姿が、チームに何かを与えていた。フィギュアスケートも同様で、坂本花織選手が銀メダルを獲得したことはもちろん、チームの結束感——言葉にはならない部分で選手たちが互いを支え合っている雰囲気——が伝わってきた。

りくりゅうペア(三浦璃来・木原龍一)のペアスケーティング金メダルは、その象徴的な場面だったと思う。二人の間に流れる信頼と、お互いを高め合ってきた時間の積み重ねが、氷上で花開いた瞬間だった。この金メダルのシーンは私にとっても生涯忘れられないものになるだろう。


称え合う精神——勝敗の先に現れるもの

日本勢が活躍したスノーボード競技で、繰り返し目にした光景がある。ライバル選手の好プレーを、競い合う選手たちが無邪気に喜び、称え合う姿だ。夏のスケートボードでも感じたことだが、この競技文化の根っこにある「一緒に楽しもう」「チャレンジする姿勢をリスペクトしよう」という精神は、ほかの競技でも芽生え始めている。

今大会、その「称え合い」の光景はスノーボードに限らなかった。試合が終わった直後、勝者が敗者に手を差し伸べ、敗者が涙を流しながらも相手の健闘を讃える。そういう場面が、競技を問わず随所にあった。

なぜ、ああいう光景が生まれるのだろうと考えると——おそらく彼らは、国籍や文化は違っても、同じ物語を生きてきたからではないかと思う。怪我、スランプ、プレッシャー、孤独。そのすべてを知っているからこそ、相手を「敵」としてではなく「理解できる存在」として見ることができる。だから勝者は驕らず、敗者は卑下しない。本気でぶつかり合った者同士にしか生まれない、深いリスペクトがそこにある。

「競争することと、尊重することは対立しない」——かつての仲間がSNSに書いていた言葉だが、まさにそうだと思った。すべてを出し切った者は、結果に関わらず前を向ける。涙の中にも誇りがある。そしてその姿が、見ている者の心を打つ。

一方で、アルペンスキーの日本勢の低迷と、地上波での放映すらされない扱いは寂しかった。かつて滑降やスラロームで世界に挑んだ時代を知る身としては、いつかまたあの舞台に戻ってきてほしいと願わずにはいられない。


政治の影が、競技を覆うとき

今大会で最も考えさせられたのは、スポーツの外側にある「政治」の存在感だった。

ウクライナのスケルトン選手、ウラジスラフ・ヘラスケヴィチ選手が戦争で亡くなった選手を追悼するデザインのヘルメットを着用し、IOCからその着用中止を求められ、これを拒否して出場停止となった。戦地で命を落とした仲間を悼む気持ちを「政治的」と断じ、ルールの名のもとに排除する——その冷たさに、釈然としないものが残った。

そして閉会式。ウクライナの国旗を思わせる青と黄色のウェアをまとったダンサーたちが登場した場面を、私はヘラスケヴィチ選手のことと切り離して見ることができなかった。意図があったのか偶然だったのか、真相は知らない。でも、あの場面は何かを語りかけていた気がする——それは私だけだろうか。

アメリカチームに目を向ければ、フリースタイルスキーのハンター・ヘス選手が政治的圧力について語った言葉が印象に残っている。トランプ大統領がメダルを獲れなかった選手を「敗北者」と呼んだという報道も飛び込んできた。国を代表して戦う選手が、競技以外のプレッシャーの中で戦わなければならない——スポーツがピュアでいられない現実を、改めて突きつけられた大会でもあった。


個から、チームへ、そして国境を越えて

このミラノ・コルティナ五輪で見せてもらったのは、孤軍奮闘する個人の美しさだけではなかった。チームで団結し、互いを支え、そして国を超えて称え合うことの豊かさ——そういうものが、雪と氷の上で繰り広げられていた。

勝った選手が負けた選手を讃え、ライバルが仲間のように喜び合う場面は、世界がどれだけ分断されていようとも、人が本来持っている「繋がりたい」という気持ちは消えないのだと、静かに伝えてくれた。


次は2030年、フランスへ——あれから34年

次回の冬季五輪はフランスで開かれる。1992年アルベールビル大会。あのとき私は出張でフランスを訪れた。あの海外で見た五輪の記憶からもう34年が経つ。

4年後の世界は、どんな姿をしているのだろう。戦争は終わっているだろうか。スポーツに政治の影は薄まっているだろうか。それとも、また新しい問いが生まれているのだろうか。

答えは誰にも分からない。でも、雪山のゲレンデで、氷上のリンクで、人が全力を尽くして競い合う姿は、きっとまた私たちに何かを見せてくれる。それを楽しみに、次の4年を過ごしていこうと思う。

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