【第一章】彼岸の國 【読み聞かせあり】【きっと大丈夫】【ライトノベル】【ASMR】
画像で分かる!彼岸の國!!🎬️


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音声提供:CoeFont
BGM・音声:おしゃべりAIメーカー(CoeFont)
第一話
洗面器に張った冷水から勢いよく顔を上げると、肺が浅ましく空気を貪った。
「……っ、はあ、はあ……!」
鏡に映る十六歳の少年——空(そら)は、前髪から雫を滴らせながら、ひどく無惨な顔で喘いでいた。 また、駄目だった。 幼い頃に川で溺れかけた時に見た、死の淵に広がる美しい花畑。あの圧倒的な平穏である「彼岸」へと渡りたかったのに、いざ息が続かなくなると、生きたいという本能が勝手に暴れ出してしまう。
一ヶ月前、凄惨な交通事故で両親がこの世を去った。一人残された空は、父親の実家である祖父母に引き取られたが、心はずっと死んだままだ。 果てしなく広がる青空のようにと名付けられた「空」という名前は、今の彼にとって、中身が何もない「空虚」の象徴でしかなかった。
濡れた顔をタオルで拭い、縁側へ向かう。 八月二十日。空を切り裂くような蝉時雨が、暴力的なまでの熱気と共に庭先を支配していた。
「空、麦茶淹れたわよ」
障子が開き、祖母がお盆を持って現れる。氷の浮いたガラスのコップを受け取ると、冷たさがじんわりと掌に伝わった。
「……ありがとう」 「暑い日が続くわね。おじいちゃんも、空が大人しいから心配してるのよ。無理しなくていいからね」
祖母の言葉には、深い愛情がこもっていた。それは痛いほど伝わってくるのに、空はうまく笑顔を作ることができなかった。ただ、俯いてコップの表面についた水滴を指でなぞるだけだった。
カラカラカラッ!
その時、勢いよく玄関の引き戸が開く音がした。
「ただいまー!」
明るく、よく通る少女の声。親戚が訪ねてくる予定はない。近所の子だろうか。 空が眉をひそめていると、廊下をパタパタと小走りで歩いてくる足音が近づき、一人の少女が居間に姿を現した。
白いノースリーブのワンピースに、日に焼けた健康的な肌。夏の太陽をそのまま具現化したような彼女は、縁側に座る空を見つけると、パッと表情を輝かせた。
「お兄ちゃん! ただいま!」 「……は?」
思わず間抜けな声が漏れた。 少女はズカズカと縁側まで歩み寄り、空の隣にどさりと腰を下ろした。
「あー、暑かった! セミがいっぱい鳴いてるね! お兄ちゃん、ずっとそこでぼーっとしてたの?」
距離が近い。石鹸のような、そして夏の草いきれのような匂いがふわりと漂ってきた。 空は混乱の極みに達していた。
「いや、君は……誰だ?」
空の言葉に、少女はきょとんと首を傾げた。
「何言ってるの? 千夏(ちなつ)だよ、千・夏! お兄ちゃんの可愛い妹でしょ?」 「妹……?」
両親は空しか産んでいない。 空は目で訴えかけながら祖母の方を振り返った。しかし、祖母はニコニコと笑いながら、千夏にも麦茶を差し出している。
「やだ、空ったら寝ぼけてるの? 千夏ちゃんは空の妹じゃないの。二人揃ってうちに来てくれて、おばあちゃんもおじいちゃんも本当に嬉しいのよ」
祖母の目には、狂気のかけらもなかった。ただ純粋な慈愛だけがあった。 それが余計に恐ろしかった。 まるで、最初から世界に『千夏』というピースが存在していたかのように、周囲の現実がぐにゃりと歪んでいく。
「お兄ちゃん、暑さで頭やられちゃった? しっかりしてよー」
千夏はニシシと悪戯っぽく笑い、空の肩をポンと叩く。 その手は温かく、確かに実体を持っていた。幽霊や幻覚の類ではない。
人生の全てを諦め、ただ静かに終わるのを待っていた空の前に、唐突に現れた異物。 それが、千夏だった。
日が傾き始め、空が茜色に染まり始めた頃。 蝉の鳴き声はひぐらしのそれに変わり、カナカナカナという物悲しい音が庭を包んでいた。 祖母は夕食の支度をするために台所へ向かい、縁側には空と千夏の二人だけが残された。
「おい、お前……」
問い詰めようと口を開きかけた空は、言葉を失った。 千夏が縁側から立ち上がり、和室の中央で立ち尽くしていた。 そして、ぼーっと、一点を見上げていた。
彼女の視線の先にあるのは、古い木組みが剥き出しになった高い天井裏。 先程までの明るく騒がしい態度はなりを潜め、千夏の横顔には一切の感情が抜け落ちていた。 その瞳は、深淵を覗き込むように黒く沈んでおり、瞬き一つしない。まるで、あの分厚い板の向こう側で蠢く『何か』の気配を探り当てているかのように。 空の胸が、ざわついた。
「……何を見てるんだ?」
空が声をかけた瞬間、千夏はビクッと肩を震わせ、振り返った。 その顔には、すでにいつものひまわりのような笑顔が貼り付けられていた。
「ううん! なんでもないよ!」
千夏はパタパタと空の元へ駆け寄ってくる。
「ちょっと、梁の形が珍しいなーって思っただけ!」
誤魔化しているのは明らかだった。 だが、空はそれ以上追及する気になれなかった。
縁側に並んで立つ二人。 夕暮れの生ぬるい風が、二人の間を吹き抜けていく。
「なあ」
空は、足元の庭石を見つめながらぽつりと言った。
「君が誰なのか、どうして僕の妹になってるのか、全然分からない」
「…………」
「僕は……もう、どうでもいいんだ。自分の人生も、これから先も。空っぽなんだよ。だから、君が何を企んでいようと、巻き込まないでくれないか」
それは、空の心からの悲鳴だった。 波風を立てたくない。ただ、静かに消えてしまいたい。 千夏が怒るか、あるいは呆れて去っていくかだと、空は思っていた。
しかし。 千夏はゆっくりと空の正面に回り込み、彼の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。 その瞳は、夕日を反射してキラキラと輝いていた。先ほど天井裏を見つめていた時の暗さは微塵もない。
「大丈夫!」
千夏は、両手を腰に当て、胸を張って言った。
「私に任せて!」
それは、全く根拠のない、唐突な宣言だった。
「全部上手くいくから、ね?」
千夏は首を傾げ、満面の笑みでそう言い放った。 その声は、力強く、そしてどこか祈るような響きを帯びていた。 空は、ただ立ち尽くすしかなかった。
本当に大丈夫かよ。
心の中で、そう毒づく。 得体の知れない少女。異常な状況。不気味な天井裏への視線。 何一つ大丈夫な要素などない。
しかし、このときの空は知らなかった。 彼女のその言葉が、そしてこの唐突な出会いが。 厚い氷で覆われ、永遠に止まったままになるはずだった空の時間を、再び動かし始めることになるということを。
第二話
じりじりと焼け付くような日差しが、古民家の瓦屋根を容赦なく照らしつけていた。
八月二十一日。
庭の木々で鳴き狂う蝉の合唱は、昨日よりもさらに音量を増しているように錯覚する。開け放たれた縁側からは、熱気を孕んだ風が時折吹き込んでくるだけで、涼をとるには到底足りなかった。
空は、居間の入り口で足を止めた。
部屋の中央で、千夏が奇妙な行動をとっていたからだ。
彼女は畳の上に仁王立ちになり、天井板の一点を、親の仇でも見るかのような鋭い目つきで睨みつけていた。両手は固く握りこぶしを作っており、肩が微かに上下している。
昨日、空の前で「大丈夫」と笑ってみせた無邪気な少女の面影はない。その全身から立ち上るピリピリとした警戒心は、明らかに頭上の空間——薄暗い『天井裏』へと向けられていた。
「……ねえ、千夏」
空が声をかけた瞬間。
千夏は弾かれたように振り返り、瞬時にいつもの人懐っこい笑顔を顔面に貼り付けた。
「あ、お兄ちゃん! どうしたの?」
「いや、さっきから天井を睨みつけてたけど。何かあるのか?」
空が視線を上へ向けようとすると、千夏は慌てて距離を詰め、空の腕をぐいっと引っ張った。
「な、なんにもないよ! それよりお腹すいちゃった! おばあちゃんに、おやつのスイカ切ってもらお!」
「おい、引っ張るなよ……」
「いいからいいから! ほら、早く!」
有無を言わさぬ力強さで、千夏は空を台所へと押しやる。
あからさまな話題そらしだった。彼女の引きつった口元と、不自然なほど早口な声が、それを雄弁に物語っている。
その後、千夏の強引なおねだりに負け、祖母が「二人で食べるスイカを丸ごと買ってくるわね」と千夏を連れて買い物に出かけた。祖父も裏の畑の様子を見に行っており、家の中には空だけが残された。
シンと静まり返った家の中。遠くで聞こえる蝉の声だけが、やけに鼓膜を叩く。
空は、居間から廊下へ出て、千夏が睨みつけていた場所の真下へと歩み寄った。
そこは、ちょうど押入れがある場所だった。
古い日本の家屋では、押入れの天井板である「天袋」の板を押し上げれば、そのまま屋根裏へと通じていることが多い。
空は、台所から踏み台代わりの丸椅子を持ってくると、押入れの前に置いた。
襖を開け、カビと防虫剤が混ざったような古い匂いを吸い込む。丸椅子に立ち、天袋のベニヤ板に両手を当てた。
ぐっ、と力を込めると、板は思いのほか簡単に上へと持ち上がった。
ズラして隙間を作ると、ムワッとした強烈な熱気と、長年積もった埃の匂いが顔面に降り注いできた。太陽に熱された屋根裏は、まるでサウナのような温度になっているはずだ。
空は縁に手をかけ、腕の力だけで上半身を引き上げた。
暗い。
瓦の隙間から差し込む細い光の筋が、舞い上がる埃をキラキラと照らしているだけで、奥の方は漆黒に染まっていた。
四つん這いになり、奥へと進もうとした、その時だった。
——空気が、変わった。
先程までの息苦しいほどの熱気が、嘘のように消え去っていた。
代わりに肌を刺したのは、冬の夜のような冷酷な空気。肺に吸い込んだ酸素が冷たい棘となって器官を刺し、首筋の産毛が総毛立つ。
そして、どこからか甘い、嗅ぎ覚えのある香りが漂ってきた。
母がよく使っていた、金木犀のハンドクリームの匂い。
父がいつも着ていた、スーツの柔軟剤の匂い。
喉の奥が干からびたように張り付き、空はヒュッと不格好な呼吸の音を漏らした。
暗闇の奥に、青白い光が瞬いている。
その光の中心に、二人の人影があった。
「……嘘、だろ」
声帯が引き攣り、かすれた音しか出ない。
間違いない。そこにいたのは、死んだはずのお父さんと、お母さんだった。
生前と全く変わらない姿。凄惨な事故の傷跡などどこにもない。
父は休日のようなくたびれたシャツを着て、母はエプロン姿のまま。二人は、屋根裏の暗闇の中に正座し、ただ静かに、優しく微笑みながら空の方を見つめていた。
『空』
『こっちへおいで、空』
声は聞こえない。だが、二人の口の動きと、頭の中に直接響くような温かい波長が、確かにそう告げていた。
思考が真っ白に染まる。
幽霊? 幻覚? そんな理屈はどうでもよかった。
ずっと、会いたかった。
あのひしゃげた鉄の塊の中で、もう二度と触れることができなくなってしまった、大好きな両親がそこにいる。
「お父、さん……っ、お母さん……!」
視界が急激に歪んだ。瞬きをした途端、ポロポロととめどなく涙が溢れ出す。
空っぽだった胸の奥底から、熱い感情がマグマのように噴き出してきた。
空は梁に手をかけ、這いずるようにして二人の方へ近づいていった。あと少し手を伸ばせば、その温かい体に抱きつける。
二人の輪郭が、さらに淡く発光し、空を迎え入れようと両腕を広げた。
その直後だった。
「駄目……ッ!」
背後から、腰を凄まじい力で引き倒された。
床板に顔を打ちつけそうになるのを堪えると、背中に小さな体がのしかかってくる。
「泣いちゃ、駄目……!! あっちに行かないで! 空くん!!」
千夏だった。
買い物に行っていたはずの彼女が、いつの間にか屋根裏に登り、空の腰に必死にしがみついていた。
その声は、いつものおどけた「妹」のそれではなく、喉から血が出るのではないかと思うほど切羽詰まった悲鳴だった。
空くん。
彼女は今、お兄ちゃんではなく、確かにそう呼んだ。
千夏の体温が背中から伝わってくる。その熱に触れた瞬間、空の脳裏に、幼い頃の記憶がフラッシュバックした。
川に溺れ、沈んでいった時の記憶。
冷たい水の底で見た、あの美しい花畑。圧倒的な平穏。すべてを委ねてしまいたくなる、甘く恐ろしい誘惑。
——あれは、彼岸だ。
目の前で微笑む両親は、生前の彼らそのものではない。生者の未練に付け込み、死の世界である彼岸へと引きずり込もうとする悪性の影だ。
あそこに抱きついてしまえば、自分は二度と元の世界には戻れない。
千夏は、それを知っていたのだ。だからいつも天井裏を警戒し、今、こうしてなりふり構わず止めてくれている。
都合のいいことなど、起こるはずがない。死んだ人間は生き返らないのだ。
子供の頃に一度死にかけた空には、本能でそれが分かっていた。
だから、千夏は正しい。彼女は自分を救おうとしてくれている。
頭では、痛いほど理解していた。
だが。
それでも。
「離せ……っ!」
空は、腰に回された千夏の細い腕を、無理やり引き剥がそうとした。
「駄目だよ! 行っちゃ駄目!!」
「離してくれ! 頼むから!!」
千夏の爪が腕に食い込み、皮膚が裂けるのも構わず、空は前へと身を乗り出した。
偽物でもいい。幻でもいい。命と引き換えになったとしても構わない。
あそこに行けば、空っぽの自分は満たされる。もう、寂しい思いをしなくて済むのだ。
そちら側に、行きたかった。
「お父さん!! お母さん!!」
空は喉が裂けるほどの声で叫び、両手を伸ばした。
千夏の制止を振り切り、あと数センチで母の指先に届く——。
その時だった。
空の頬を伝って落ちた一粒の涙が、空中で弧を描き、母の幻影の指先に触れた。
水滴が落ちるような音などしなかった。
ただ、涙が触れた箇所から、母の優しい笑顔が硝子のようにひび割れた。
「あっ……」
空が呆然と見開いた目の前で、服も、顔も、伸ばされた腕も。すべてが酸を浴びたようにドロドロと崩れ落ち、どす黒い靄へと変わっていく。
最後に残った父の口元が、怨嗟のようなくぐもった音を立てたが、言葉になる前にその姿は完全に霧散した。
皮膚を刺すような冷気が一瞬にして消え去り、元の息苦しい熱気が屋根裏に戻ってくる。
金木犀の匂いも消え、そこにはただ、埃が舞う古い木の床があるだけだった。
「……あ、あぁ……」
空は伸ばした手を力なく下ろし、その場に崩れ落ちた。
幻は消えた。
残されたのは、どうしようもない喪失感と、痛いほどの静寂だけ。
背後から、千夏が空の背中を強く抱きしめていた。
彼女は何も言わず、ただ小刻みに震えながら、空の背中に顔を押し当てている。
汗ばんだ彼女の体温と、力強い心音だけが、生者の世界に空を繋ぎ止める楔のように、背中から確かな熱を伝えていた。
第三話
八月二十一日、朝。
けたたましい蝉時雨が容赦なく鼓膜を叩く。網戸越しに吹き込んでくる風はすでに生ぬるく、今日も茹だるような暑さになることを予感させていた。
布団の上に起き上がった空は、ぼんやりと自分の両手を見つめた。
昨日の出来事が、まだタチの悪い悪夢のように頭の中を巡っている。
屋根裏の暗闇。不自然なほどの冷気。空の涙が触れた瞬間にジュワリと溶け、黒い靄となって消え去った両親の姿。もしあのまま彼らに抱きついていたら、今頃、自分は生きた人間の世界にはいなかったかもしれない。
——あっちに行かないで! 空くん!!
必死に自分を止めた千夏の声が、耳の奥にこびりついて離れない。
彼女は、あの両親が偽物であり、彼岸からやってきた危険な存在であることを見抜いていた。だからこそ体を張ってまで止めようとした。助けられたという事実だけは、認めざるを得ない。
だが、彼女が何者で、なぜ生と死の境界である「彼岸」を知っているのか。
得体の知れない恐怖と、拭いきれない不信感が、どろどろとした塊になって胸の奥で渦巻いていた。
重い足取りで居間へ向かうと、すでにおいしそうな味噌汁と焼き鮭の匂いが漂っていた。
「あ、お兄ちゃん! おはよう!」
食卓には、すでに千夏が座っていた。
太陽のような明るい笑顔で、箸を片手にぶんぶんと手を振ってくる。昨日の屋根裏での出来事など最初から無かったかのような屈託のなさだった。
空は小さくため息をつき、彼女と目を合わせないようにして席に着いた。
「……おはよう」
「もう、遅いよー! お腹ペコペコなんだから!」
「あらあら、空も来たわね。それじゃあ、いただきましょうか」
割烹着姿の祖母が、熱いお茶を淹れながら微笑む。
空は黙々と箸を動かした。鮭の塩気も出汁の味も、今の彼には砂を噛むように味気ない。そんな空の陰鬱な様子を、祖母は心配そうに見つめていた。両親を失ってから塞ぎ込んでいる孫の心は、妹(と祖母は信じている)が来てもなかなか溶けそうにない。
ふと、祖母がポンと手を打った。
「そういえば、空。千夏ちゃん。今日から町内会で面白いことが始まるのよ」
「面白いこと?」
千夏が目を輝かせて身を乗り出す。
祖母はニコニコと笑いながら、エプロンのポケットから四つ折りにされたチラシを取り出し、食卓の上に広げた。
そこには、手書きのポップな文字でこう書かれていた。
『第一回! ご近所合同・夏の虫取り大会!!』
「虫取り、大会……?」
空が怪訝な顔でチラシを覗き込むと、祖母は楽しそうに頷いた。
「ええ。近所の子どもたちを集めてね、今日から一週間、一番珍しい虫や大きな虫を捕まえたチームが優勝なの。虫の種類や大きさによって『賞金』っていうポイントが加算されていくルールなんだって」
「へえー! 面白そう!」
「ふふ、でしょう? それでね、おばあちゃん、一番多く稼いだ優勝チームには、とっておきのプレゼントを用意したのよ」
そう言って祖母が指差したのは、居間の隅に置かれた見慣れない段ボール箱だった。
側面には、今若者たちの間で爆発的な人気を誇っている最新型ゲーム機のロゴがデカデカと印字されている。
「ほ、ほんとに!? あれ、おばあちゃんが買ったの!?」
「ええ。空が前に欲しがっていたから。でも、ただあげるんじゃつまらないでしょ? だから千夏ちゃんとチームを組んで、外で思いっきり遊んできなさい。見事優勝したら、あれは二人のものよ」
祖母の意図は明白だった。
家に引きこもり、生気を失っている空を外に連れ出したいのだ。最新のゲーム機を餌にしてでも同年代の子どもたちと関わらせることで、少しでも元の明るさを取り戻してほしいという、不器用だが深い愛情だった。
「やったー!! お兄ちゃん、聞いた!? 最新のゲーム機だって!」
千夏は椅子から立ち上がり、バンザイをして歓喜の声を上げた。
しかし、空の心は冷めたままだった。
暑い中、泥まみれになって虫を追いかける? そんなことに何の意味がある。自分は空っぽの器だ。ゲーム機を手に入れたところで、虚無感が埋まるわけではない。
「……僕はいいよ。暑いし。君一人で出てくれば?」
空が冷たく言い放つと、居間の空気がピタリと止まった。
祖母が悲しそうに眉を下げる。千夏はバンザイの姿勢のまま固まり、ゆっくりと腕を下ろした。
「……お兄ちゃん」
「なんだよ」
「一緒に行こう」
それは、いつものふざけた調子ではなかった。
空が顔を上げると、千夏はテーブル越しに、空の目を真っ直ぐに見つめていた。
昨日の屋根裏で見せたような切迫感はない。しかし、一切の妥協を許さないような、強い意志の光が宿っていた。
吸い込まれそうなほど純粋で、力強い瞳。
その真っ直ぐな視線に射抜かれ、空は思わず言葉に詰まった。
「私は、お兄ちゃんと一緒に行きたいの」
それは、空を覆う分厚い殻を、力ずくで叩き割ろうとするかのような真剣な響きを持っていた。
彼女の瞳を見ていると、胸の奥で燻っていた面倒くささや暗い感情が、奇妙な熱を帯びて溶かされていくような錯覚に陥る。
やがて、空は小さく息を吐き出し、負けを認めるように肩を落とした。
「……分かったよ。しょうがないな」
その言葉を聞いた瞬間、千夏の顔にパッと花が咲いたような笑顔が戻った。
「ほんと!? やったー! さすが私のお兄ちゃん!」
「やめろ、くっつくな暑い」
抱きついてこようとする千夏を片手で制しながらも、空の胸の中に、ほんの数ミリだけだが、悪くない感情が芽生えていた。
誰かにこんなに強引に必要とされたのは、両親が死んでから初めてのことだったからだ。
朝食を済ませた二人は、さっそく準備に取り掛かった。
物置から麦わら帽子と虫取り網、プラスチックの虫かごを引っ張り出す。玄関の土間でスニーカーの紐を結んでいると、千夏はすでに外へ飛び出し、庭で「早く早く!」と飛び跳ねていた。
「今行くって……」
空が立ち上がり、玄関の引き戸に手をかけた、その時だった。
「空」
背後から、低く、しゃがれた声が響いた。
振り返ると、薄暗い廊下の奥に、祖父が立っていた。
普段は自ら話しかけてくることなど滅多にない彼が、まるで闇の中から浮かび上がったように、静かに空を見据えている。
「おじいちゃん……? どうしたの?」
空が尋ねると、祖父はゆっくりと一歩、前へ出た。
障子越しに差し込む光が、祖父の顔の半分を照らし出す。その眼光は、普段の温和な老人とは別人のように鋭く、冷たかった。
祖父は、押し殺したような低い声で、はっきりとこう告げた。
「彼岸の霊には気をつけろ」
「え……?」
「奴らは、お前を狙っている」
ヒュッ、と。
喉の奥で引き攣ったような音が鳴り、空の呼吸が止まった。
昨日、屋根裏で出会った両親の姿をした「あれ」。なぜ、おじいちゃんがそのことを? そもそも『奴ら』とはなんだ。
次々と湧き上がる疑問と、足元から這い上がるような恐怖で、視界の端がぐらりと揺れた。薄暗い廊下に立つ祖父の輪郭が、得体の知れない影のように歪んで見える。
その時だった。
「もうっ、お兄ちゃん遅い!」
ガラッ! と乱暴に玄関の引き戸が開き、強烈な太陽の光と共に千夏が飛び込んできた。
彼女は土間に立ち尽くす空の腕をガシッと掴む。
「早く行かないと、大きなカブトムシが他の子に取られちゃうよ! ほら、行くよ!」
「え、ちょ、待てって……!」
有無を言わさぬ力で引っ張られ、空の体は外の圧倒的な明るさの中へと引きずり出された。眩しさに目を細めながら振り返ると、廊下の奥にいた祖父は、いつもの温和な顔に戻って縁側へと歩き出していた。
「二人とも、熱中症には気をつけるんだぞ。麦茶、ちゃんと持ったか?」
まるで、先ほどの冷たい警告など幻だったかのような、ごく普通の祖父の声。
空は呆気に取られたまま、千夏に手を引かれて庭先を駆け抜けた。
肌を焼くような日差しと、やかましいほどの蝉時雨。顔に当たる生ぬるい風。そして、繋がれた千夏の手から伝わってくる、じんわりと汗ばんだ生者の体温。
あまりにも鮮烈な『夏』の気配が、先程までの薄暗い恐怖を強引に上塗りして吹き飛ばしていく。
「ほらお兄ちゃん、早く早く!」
麦わら帽子を押さえながら振り返り、千夏がひまわりのように笑う。
彼岸の霊。祖父の忠告。不安の種はいくつもあったが、今はただ、目の前の果てしなく青い空と巨大な入道雲だけが、やけに眩しく見えていた。
第四話
祖父の冷たい言葉が、耳の奥で何度も反響していた。
『彼岸の霊には気をつけろ。奴らは、お前を狙っている』
薄暗い廊下で告げられたその忠告は、焼け付くような真夏の熱気の中に飛び出してもなお、空の背筋にへばりついて離れなかった。
彼岸の霊。
屋根裏で見た、両親の姿をした「あれ」。なぜ、自分が狙われているのか。思考の渦に飲み込まれそうになる空の腕を、千夏が前を歩きながらグイッと引っ張った。
「ほらほらお兄ちゃん、早く行かないと一番大きいカブトムシ、取られちゃうよ!」
振り返った千夏の笑顔には、一切の陰りがなかった。麦わら帽子を被り、虫取り網を肩に担いだその姿は、夏を満喫する無邪気な少女そのものだ。
彼女の汗ばんだ手の感触に引き戻され、空は肺に溜まった濁った息を細く吐き出した。今は深く考えるのはやめよう。この「虫取り大会」をやり過ごすことだけを考えればいい。
二人が向かったのは、家から少し歩いた先にある鎮守の森だった。
鬱蒼と茂る木々が巨大な影を落とし、鳥居の奥からは耳をつんざくような油蝉の鳴き声がシャワーのように降り注いでいる。待ち合わせ場所である手水舎の前に着くと、そこにはすでに二人の先客がいた。
「おっ、来たな! 遅えぞ!」
日に焼けた肌にタンクトップという出で立ちの少年が、大きな虫取り網を振り回しながら声をかけてきた。首にはタオルを巻き、虫かごの中にはすでに何匹かのセミが入っている。
「ごめんごめん! 待った?」
「待ったぜ! 今日から一週間、バチバチの勝負だからな。絶対負けねえ、俺はムシキングだ!」
少年——六斗(ろくと)は、鼻息を荒くしてドンと自分の胸を叩いた。自信満々なその態度は、どこか憎めない愛嬌がある。
その隣で、ふわりとした白いワンピースに日傘をさした少女が、クスクスと上品に笑った。
「もう、六斗くんったら気が早いんだから。初めまして、日鞠(ひまり)です。空くんと、千夏ちゃんだよね?」
「う、うん。よろしく」
日鞠と名乗った少女は、おっとりとした声で空たちに微笑みかけた。
「おばあちゃんから聞いてるよ。お互い頑張ろうね。熱中症に気をつけてね」
「うん! 日鞠ちゃんも気をつけてね!」
千夏が元気よく応じ、日鞠も嬉しそうに頷く。
どうやらこの虫取り大会は、空と千夏のチーム、そして六斗と日鞠のチームの一騎打ちになるらしい。
目の前で楽しそうに言葉を交わす三人を見つめながら、空は不思議な感覚に包まれていた。父親の故郷とはいえ、空にとってこの町は見知らぬ土地だ。両親の葬儀の時も、親戚の大人たちがひそひそと話す声ばかりが耳につき、同年代の誰かとまともに言葉を交わす機会など皆無だった。
しかし今、目の前には自分と同じ目線で笑い合う少年少女がいる。
「よし、じゃあどっちがデカいミヤマクワガタを捕まえるか勝負だ! 行くぞ日鞠!」
「あ、待ってよ六斗くん。走ると転ぶよー」
二人が森の奥へと駆け出していくのを見送りながら、隣の千夏が「ふふっ」と笑い声を漏らした。
釣られるように、空の顔にもほんの少しだけ笑みがこぼれる。張り詰めていた心がじんわりと解れ、肩に乗っていた見えない重りが少しだけ軽くなった気がした。
「よし、私たちも負けてられないね! お兄ちゃん、あっちのクヌギの木を探してみよ!」
「ああ。……分かった」
空は短く答え、千夏の背中を追って草むらの中へと足を踏み入れた。
森の中は直射日光が遮られている分、少しだけ温度が低い。しかし、むせ返るような土と草の匂い、そして肌にまとわりつく湿気は外よりも濃密だった。
二人は足元のぬかるみに気をつけながら、樹液の匂いを探して歩き回る。
「あ、いた! お兄ちゃん、あそこ!」
千夏が指差した先、クヌギの木の根元に、黒光りするクワガタの姿があった。
空が慎重に網を伸ばし、見事にそれを捕獲する。
「やった! これでまずは一ポイントだね!」
「……意外と、簡単に見つかるもんだな」
「でしょ? まだまだいけるよ!」
虫かごの中でカサカサと動くクワガタを見つめながら、空はいつの間にか自分がこの遊びに熱中し始めていることに気づいた。
もっと奥に大きな個体がいるかもしれない。空は自然と足を進め、背の高い夏草が密集する茂みへと近づいていった。
——その時だった。
突然、首筋の産毛が総毛立った。
風もないのに、目の前の深く生い茂った草むらが、不自然に揺れたのだ。
同時に、むせ返るような夏の熱気が一瞬にして凍りつき、周囲の蝉の声が遠のいた。
感じ取ってしまった。
草むらの真っ暗な隙間から、はっきりとこちらを射抜く「目線」を。
姿は見えない。だが、そこには確実に『存在』があった。ねっとりとした悪意と未練の塊が、空の足首を泥沼へ引きずり込もうと這い寄ってくる感覚。
昨日、屋根裏で対峙した両親の姿をした「あれ」と全く同じ波長だ。
肺の中の空気が急速に冷え、息ができなくなる。水底に沈んでいくあの日の記憶がフラッシュバックし、空の足は地面に縫い付けられたように動かなくなった。
ガサ、ガサガサッ。
草むらの奥で何かが這いずる音が鳴り、視線が空の顔へと這い上がってきた、その瞬間。
「えいっ!!」
バァァァンッ!! という暴力的な破裂音が森に響き渡った。
空の真横から飛び出してきた千夏が、持っていた虫取り網の柄を、視線の主がいるであろう草むらのど真ん中へ力任せに叩きつけたのだ。
「うわっ!?」
「あーっ、逃げられた!」
千夏は網を引き抜くと、悔しそうに足を踏み鳴らした。
彼女の乱暴な一撃で草むらが大きく薙ぎ払われ、そこにあった異常な冷気も、気味の悪い視線も、粉々に散らされて完全に消え去っていた。
「ち、千夏……? 今、何を……」
「おっきなヘビがいたの! 捕まえようと思ったのに、すっごいスピードで逃げちゃった! もう、びっくりさせないでよねー!」
千夏はプクッと頬を膨らませて不満を口にしている。
だが、空には分かっていた。ヘビなどいなかった。彼女は、空に向けられた彼岸からの気配を察知し、あえて物理的な大きな音と行動を起こすことで、強引にそれを追い払ったのだ。
屋根裏の時とは違う、彼女なりの荒っぽい守り方。
千夏はポンポンと網についた土を払い落とすと、振り返って空を見た。
「奥の方は草が深くて危ないから、やめとこっか。ほら、転ばないように」
そう言って、彼女は空の右手をギュッと握った。
少し汗ばんだ、力強い生者の体温。脈打つ命の鼓動が掌から伝わってきて、空の胃の腑に溜まっていた冷たい恐怖が、急速に溶かされていくのが分かった。
「お、なんだなんだー?」
突然、背後からからかうような声が降ってきた。
振り返ると、茂みをかき分けて六斗が現れた。後ろからは日鞠もひょっこりと顔を出している。
「お前ら、虫取りの最中に手なんか繋いじゃって。2人とも、兄妹なのにもう付き合ってるのかー?」
「えっ……!?」
六斗のニヤニヤとした笑い顔を見て、空は弾かれたように千夏の手を離した。
バッと横を見ると、千夏の顔は茹でダコのように真っ赤に染まっていた。
「ち、ちちち違うよ! これは、その、足元にヘビがいたから引っ張ってあげてただけで……っ!」
「ふーん? まあいいけどよ、イチャイチャしてたら虫逃がすぜー?」
「六斗くん、言い方……。ごめんね、二人とも」
ケラケラと笑いながら再び駆け出していく六斗と、苦笑いしながら後を追う日鞠。
残された空と千夏は、気まずい沈黙に包まれた。空の顔にも、一気に血が上っていくのが分かる。
「あー、ご、ごめん。その……」
「ううん! 私の方こそ、急に手なんか握っちゃって……ごめんね、お兄ちゃん」
麦わら帽子のツバを下げ、俯き加減でモジモジとする千夏。
得体の知れない存在から、一人の年相応の少女へと、彼女の輪郭がはっきりと色づいた瞬間だった。そのいつもと違う表情を見られたことが、空は自らも恥ずかしがりながら、心の底から嬉しかった。
先程までの彼岸の冷気は、もうどこにもない。
あるのは、肌を焦がすような夏の熱気と、やかましい蝉の声、そして土と草の生命力に溢れた匂いだけだ。
ずっと自分は空っぽの器だと思っていた。だが、今は違う。
「……行こうか。六斗たちに負けちゃうよ」
空が自然な笑みを浮かべてそう言うと、千夏の顔にパッとひまわりのような花が咲いた。
「うんっ! 絶対に私たちが一番になるんだから!」
千夏は元気よく頷き、光の差し込む森の出口の方へと駆け出した。
空はその後ろ姿を追いかける。
祖父の不気味な警告も、この森に潜む影の恐怖も。今はただ、この眩しすぎる夏の光の中に溶けて消えてしまえばいいと、空は心から願っていた。
