「訪問1分前の上司からの激励電話が営業を潰していく」
あと1分で、私は、インターホンを押す予定だった。
車内で、最後の深呼吸をして売りたい気持ちを心の奥底に整えていた時、
携帯が鳴った。上司だった。
「今日いけるだろ?」
「この案件、絶対落とすなよ」
「気合い入れろ」
私は、スマホを耳に当てながら、フロントガラスの向こうを見ていた。
夕方だった。今日はこの家しかこの後、行く所が無い。
空は重く、細かい雨が降っていた。お客様宅の玄関灯だけが、
ぼんやり光っていた。
上司は、励ましているつもりだった。それは分かっていた。
でも、その頃の私はもう、“気合い”で立て直せる状態じゃなかった。
地獄の半月だった。契約が取れない。やっと決まったと思えば、キャンセルになる。朝、目が覚めた瞬間から、胃が重い。
営業車へ向かう足も重い。
「今日もまた駄目かもしれない」
その感覚が、頭から離れなくなっていた。
営業をやった事がない人は、断られる事が辛いと思っている。
もちろん、断られるのも苦しい。でも、本当に人を壊すのは、
そこじゃない。一番苦しいのは、
“自分を信じられなくなる事”だ。
インターホンを押す前から、もう負けている。
笑顔を作っても、声を出しても、心の奥では、
「もし今日も駄目だったら…」という感覚が消えない。
あれは、経験した人にしか分からない。上司の電話は続いていた。
「今月キツいぞ」
「この案件は絶対決めろよ」
「お前ならいける」
「何年やって来てるんだお前」
その言葉が、その日は全部、刃物みたいに聞こえた。
私は、電話を切ったあと、すぐ車を降りる事ができなかった。
ドアを開けて吐いた。何年経とうが私は訪問時は緊張してしまう性格だ。
ほんとに人見知りで臆病な奴だ。訪問を5分遅らせた。
エンジンも切らず、私はハンドルに額をつけた。冷たかった。
目を閉じる。呼吸を整える。「大丈夫だ」「行け」「崩れるな」
頭の中で、何度も繰り返していた。でも、心がついてこない。
もう、前向きとか、根性とか、そういう言葉で立て直せる段階じゃなかった。私は40年以上、訪問販売の現場に立ってきた。
雨の日も。
雪の日も。
真夏の暑い日も。
何度も断られた。
何度も頭を下げた。
契約ゼロの日もある。
車の中で、動けなくなった夜もある。でも、今振り返ると、本当に苦しかったのは、“数字”じゃなかった。人は、契約が取れないから壊れるんじゃない。“心を回復する時間がない”から壊れていく。
訪問販売という仕事は、表面だけ見ると、商品を売る仕事に見える。
でも実際は違う。あれは、“自分を保ち続ける仕事”だ。
どれだけ断られても、どれだけ数字が落ちても、どれだけ心が削られても、また次の家のインターホンを押さなければいけない。これが本当にキツい。
しかも、現場にいない人ほど、簡単に言う。
「気持ちの問題だ」
「気合いが足りない」
「もっと元気出せ」
違う。
本当に限界の時、人間は、“気合い”では動けない。心が止まる。
私は、あの頃、アパートへ帰っても、電気をつける気力がなかった。
真っ暗な部屋。スーツのまま座り込む。天井を見つめる。その時だった。
もう1人の自分が、お前、飛行機で東北まで来て「お前、何しとんねん」と罵る。罵声を吐く。幻覚が襲う。
でも、あの頃の私は、それくらい追い込まれていた。
営業という仕事は、時々、人を壊す。でも私は今、あの時間が
無駄だったとは思っていない。なぜなら、あの地獄を知ったからこそ、
“弱っている人間の空気”が分かるようになったからだ。
人は、元気な時だけじゃない。壊れそうな夜がある。
笑えない朝がある。車を降りられない日もある。
だから私は、今、苦しんでいる営業の人に言いたい。
あなたが弱いんじゃない。ずっと戦い続けてきたから、心が疲れて
いるだけだ。今でも営業車を見ると思い出す。
あの夜。
雨。
助手席で光る携帯。
訪問先の玄関灯。
そして、ハンドルに額をつけながら、私は、“契約”ではなく、
“自分の心”を立て直していた。あの時の私は、「営業を辞める」
というより、“人生から降りたくなっていた”のかもしれない。
それくらい、心が静かに壊れていた。不思議なもので、本当に追い込まれると、人は泣けなくなる。怒りも消える。悔しさも薄れる。
ただ、感情だけが、静かに止まっていく。営業車の中で、コンビニのおにぎりを食べながら、「自分は何をしているんだろう」そう思った夜は、一度や二度じゃない。周りは数字の話をする。契約。件数。達成率。ランキング。
もちろん、営業だから結果は大事だ。でも現場では、その数字の裏側で、
何人もの営業マンが、誰にも言えないまま、静かに心を削っている。
私は40年以上、訪問販売の現場に立ってきた。
だから分かる。本当に危ない営業マンほど、逆に笑う。
「大丈夫です」「いけます」「問題ないです」
そう言いながら、1人で壊れていく。
あれは、現場を経験した人間なら分かる空気だ。
だから私は今、昔の自分に言いたい。
「もっと休め」「全部1人で背負うな」「弱音を吐いてもいい」
あの頃の私は、それができなかった。
営業マンは、弱さを見せた瞬間に負ける気がしていた。
でも違う。
本当に危険なのは、“無理して平気なフリを続ける事”だ。
心は、機械じゃない。削られ続ければ、必ず壊れる。
そして一度壊れると、元に戻すのは簡単じゃない。
だから今、もし車を降りられなくなっている人がいるなら。
もし、インターホンを押す前に、呼吸が苦しくなっている人がいるなら。
あなたは、サボっているんじゃない。怠けているんじゃない。
ずっと戦ってきたんだ。誰にも分からない場所で。
誰にも見えないプレッシャーの中で。
私は、あの地獄みたいな半月を、今でも忘れられない。
でも、あの時間があったから、今の私は、“結果だけで人を見なくなった”。
営業は、契約を取る仕事でもある。でも本当は、“人間を壊さずに続ける事”
の方が、何倍も難しい。だから私は、今日も現場へ向かう営業マンを、心から尊敬している。雨の日も。数字が苦しい日も。誰にも理解されない日も。
それでも車を走らせ、次の家へ向かう。それだけで、本当は凄い事なんだと私は、思う。
written by mooko
