漆黒の背表紙に潜む違和……SD選書『都市とデザイン』(1965)の覚書
ダークアカデミア図書館へようこそ。
わたくしは館長の藤本冬蘭でございます。
本日、紐解きますのはSD選書第三巻
『都市とデザイン』(一九六五年)。
評論家・栗田勇による一冊でございます。

この書が著された一九六〇年代……
「評論家」という存在は、今よりもはるかに選ばれしものでした。
言葉を世に放つことは、限られた者の特権。
世間への不満や異議申し立ては、誰もが口にできるものではなく、
それを許されていたのは、いわば“言葉の貴族”たる彼らのみでございました。
それゆえに彼らは、流行というものに対して、とりわけ苛烈であったのです。
ビートルズには「こじき芸人」と吐き捨て、
テレビには「一億総白痴化」と断じる。
そのような激烈な言辞に対し、炎上どころか、
人々はむしろ喝采をもって迎え入れておりました。
……『サザエさん』の波平が、着流しのまま新聞を広げ、
「けしからん」と呟く、その光景を思い浮かべていただければ、
この時代の空気も、幾分かお分かりいただけるのではなくて?
さらに当時は、難解であることそのものが価値とされておりました。
吉本隆明の『共同幻想論』を読みこなすことが、知の証であり、
それが「粋」と見なされていたのです。
現代の評論家が「難解を平明にほどく者」であるならば、
当時の評論家とは……
「平明なるものをあえて晦渋へと沈める技を持つ者」でございました。

さて……
東京オリンピックを契機に、都市は急激な変貌を遂げます。
人々は繁栄に酔いながらも、その速度にどこか怯えておりました。
その只中で著者は、「ピクトグラム」に対し、強い違和を表明いたします。
いままで挿絵や図案が、今度は無学文盲の図解き解説に変わるだけだ。事実、私はしばしば、ひとこと文字で示せば足りるのに、わざわざ図示しているデザインを目にする(交通標識も私は疑問をもっている。あんなにむずかしい学科試験をしておいて、「禁止」とか「危険」と書く代わりに、バッテンや衝突の絵でもあるまい。仮に百歩ゆずって外国人のためというなら、オリンピックのときのトイレの標示に困ったことを思い出してもいい。アジアやアフリカで、シルクハットでもあるまい)。

……確かに、弱者への配慮という観念が、
まだ十分に育っていなかった時代ではございました。
けれども興味深いのは、ここで批判の矛先が向けられている先ですの。
このピクトグラム普及の中心人物こそ、
SD選書第一巻『現代デザイン入門』の著者・勝見勝氏。
彼はその著作権すら手放し、概念そのものを社会へ解き放った人物でございます。
すなわち本書は、
“切込隊長として送り出された同志”への異議申し立てでもあったのです。
さらに著者の視線は、日本的空間論にも及びます。
日本的空間といわれるものは、普通禅的であるとか、静的であるとか、非常にはかなくてさっぱりしたものであるようにいわれているが、私はそうではないと思う。
これまでの考え方を適用するなら、割合にテンポラリーな西洋的空間構成が非常にパーマネントであるのに対して、テンポラリーであるが、やはり常に入れ替えることができる。蔵があって、夏なら夏、冬なら冬の設備を入れ替える。また、いろいろな年中行事がある。この年中行事が行われる非常に濃密な劇的な空間が演出された。そのように見ると、日本の空間意識も非常にダイナミックで、かつ濃厚なものではないか。
しながら、その論の運びには、
どこか首肯しかねる翳りがつきまといます。
わたくし自身は、日本建築においても西洋建築においても、
なお「静謐」という質をこそ尊びたいと願っております。
真に優れた建築とは、必ずや……
音なき深みを内包しているものではなくて?
さて、著者の批評はさらに、
当時アメリカより渡来した「スーパーマーケット」へと向かいます。
自動車と、冷蔵庫の発達が、スーパーをうんだ。日本も自動車生活になれれば、ショッピングの主役になるんだというたとえ話を、本気になって都市計画へ持ち込むとしたら、精神年齢を疑ってみる必要がある。
もし、スーパーの発達が専門店や都市内のショッピングなど、機能をことごとく吸収し、単純化するというなら、本当はスーパー自体の消滅こそ都市進歩といわねばなるまい。往々にして、都市進化主義者の根底には、このような人間化に対する無知がひそんでいる。
それを遊戯衝動とでもいうなら、ショッピングとは、価格と品質というルールによる遊戯といってもさしつかえない。遊戯をスーパー・マーケットでするだろうか。

この断定の潔さは、もはや一種の美しさすら帯びておりますが……
同時に、ある見落としも感じざるを得ません。
それは「変化する商業」というものへの想像力でございます。
令和の現在、
人の生は「イオンに始まり、イオンに終わる」とすら囁かれる時代。
この未来を、果たして彼は思い描き得たでしょうか。
そして極めつけは、「都市」の定義にございます。
都市の目的は、この際はっきりさせておくが、生産力の増強にあるのではない。例えば、オリンピックの下水道の完備が、生産力の増強に役立つといったら、それはコジツケとなるだろう。では都市には目的がないのだろうか。
ないといってもいい。
都市に目的はない……
この一文は、ある種の詩のようでもあり、
同時に、思考の放棄のようにも響きます。
……さて、この書は、いわゆる「黒本」として知られるSD選書の中でも、
いささか異質な位置を占める一冊かもしれません。
読者によっては、
「時間を返してほしい」と感じられることもあるでしょう。
けれども、それだけでは終わらないのが、この本の不思議なところ。
本書には、横尾忠則による挿画が、
代表作を含め十九点も収められております。
しかも、その一部はカラーでございますの。

……これはあくまでわたくしの想像ではございますが、
原稿を読んだ編集者が、ある種の“危機”を察知し、
機転を利かせたのではないかとすら思えてしまうのです。
著者はあとがきの末尾に、
ごく簡潔に謝意を記しておりますが、
その筆致からは、どこか時代の温度差が滲み出ているようにも感じられます。
ともあれ……
この書は、横尾忠則のイラストレーションによって、
その内容とは逆方向へと、鮮やかに引き裂かれ、
そして救済されているのです。

黒き装丁、そしてある種の“逸脱”。
それゆえにこそ、この一冊は
ダークアカデミア図書館に、ふさわしいのかもしれません。
次にご案内いたしますのは
SD選書第四巻『江戸と江戸城』。
それでは、ごきげんよう。
