暴れん坊将軍は、なぜ天守閣にいなかったのか……SD選書『江戸と江戸城』と武士の美学
ダークアカデミア図書館へようこそ。わたくしは館長の藤本冬蘭です。
今回ご紹介するのは鹿島出版会のSD選書、その第四巻『江戸と江戸城』(1965)。こちら、素晴らしい御本でしたわ。
わたくし……女子高校生の頃は松平健が演じるTV時代劇『吉宗評判記 暴れん坊将軍』に夢中でしたの。
清潔感漂う凛々しい美青年の「上様」にすっかりと魅せられてしまい、テレビのブラウン管の前できちんと正座し、食い入るように見つめていたものですわ。その……薄荷のようにスースーと爽やかな笑顔が乙女心を揺さぶって止まなかったのです。

ドラマで起こる様々な事件を見事に解決し、吉宗がラムネ菓子のような涼しげな笑顔で天守閣からお江戸八百八町を見下ろすお決まりのシーン。
そこに嘘があったことなど、この本を読むまでは知りもしませんでした。
その頃の江戸城には疾(と)うに天守閣がなかったなんて。
わたくし、すっかり驚いてしまって友人に「ねえ、江戸城に天守閣がないってことご存知でいらして?」と問いましたところ、頂戴したお返事は「このあいだ『ブラタモリ』観て知ってたよ」ですって。
あゝ口惜しいこと。

いえ、元々はたいそう立派な五層の天守閣がございましたの。
それが明暦の大火……又の名を「振袖火事」とも呼ばれている火災で消失。以来、天守閣は再建されないままでしたのよ。
すなわち、本丸殿舎落成にさきだって、酒井忠勝および老中の面々が、最終工事である天守閣の再建案について審議した。そのとき、将軍家綱の叔父であり補佐役でもあった保科正之は、「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯展望に備ふるのみなり、これがために人力を費やすべからず」と主張して、遂に天守閣は再建されなくなる。
この本の著者は「保科正之のこの建言は、今にしてみればまことに進歩的」と書いていますけれど、わたくしとしては少し残念。
ちなみに「振袖火事」と呼ばれるようになったのは、あの小泉八雲も『振袖』という小説に仕立て上げた当時の有名な都市伝説からですの。
江戸の町で見かけた美しい若侍に一目惚れした大店の娘がいました。
娘は彼が着ていた立派な着物に似せて大振袖を作らせたのだけれど、再会は叶わず心を病んで亡くなってしまいました。
形見の振袖はお寺に寄贈され、売却されて別の少女の手に渡りました。少女は一度だけ振袖を着た後、綺麗な青年の幻を見るようになり、病気になって死んでしまいました。
お寺に振袖が戻ってきたので住職は再び振袖を売ります。若い婦人の物となって、一度だけ着た彼女もまた病気になり綺麗な幻のことを口走って死んでしまいました。
また戻ってきた振袖に住職は不穏なものを感じましたが「ま、いいか」と売却。ところがそれを求めた少女が一度だけ着た後に患って、またもや死んでしまったのです。
四度目に振袖が寄付されて戻ってきたので、とうとう住職も「ヤバい」とお寺の小僧さんに庭で焼却するように命じました。
振袖が燃え出すとその中に「南無妙法蓮華経」の眩いような火焔の文字が現れ、その一つ一つが火花となって散り、お寺の屋根へ飛びました。焼けたお寺からの燃殻が近所の屋根に落ちて町が全部燃えました。
その時海風が起こり破滅の炎を町々へ吹き送り、ついに江戸の全部が消滅してしまいました。
これ、今でいうフェイクニュースですわね。
だってこの火元となった本妙寺はその後何のお咎めもなく、立派に再建されて令和の今も続いておりますもの。当時の偉い人に頼まれて火元の身代わりとなった「本妙寺火元引き受け説」、こちらの方が真実ではなくて?
そうそう、吉宗といえば「享保の改革」。
こちらはもちろんご存知よね。目安箱や小石川の療養所、町火消しを創設したことは山川出版の日本史の教科書にもちゃあんと載ってたはず。
されど、吉宗の偉業はそれだけではありません。
わたくし、この『江戸と江戸城』を読み吉宗が「武士らしさ」……つまりは「自分らしさ」というものをとても大切にしていたことを知り、改めて惚れ直しましたわ。
平清盛も足利義満も 今川義元も権力者になるにつれ、武士らしさを失い公家文化に憧れ、生活を王朝仕様に寄せていきました。
アニメの『一休さん』の義満、なんだかんだ言いつつ一休さんを可愛がっていたのは、「義満は武士で一休さんはただの小坊主ではなく天皇の皇子」という関係性を暗示しているようにもわたくし、思うのです。
初代将軍の徳川家康は武士らしく質素を好む人。ところが代を重ねるにつれ世の中が平和になるにつれ、徳川家は変わって行きます。
人は権力を握った瞬間、
堕落する自由を手に入れてしまうのです。
封土を基礎とする武家は財政に破綻をきたしながらも、都市生活の華美に魅せられて、柔弱贅沢に流れていた。吉宗は家康の勤倹尚武の風を求めて、この風潮を防止せんとしたのである。世にいう「享保の改革」である。
「塀重門」という武家特有の門があります。これは門柱の上に冠木(梁)がないので出陣の時に幟旗を伏せなくてもよく、また騎馬でも通れるように設計されています。
装飾は欅の化粧板をバッテンに打っただけの質素なデザインですが、現代目線で見るとミニマルで美しい。例えるなら武蔵坊弁慶のような、頑なまでに主を守り抜こうという静かな意思をこの門に感じます。
六代将軍家宣の時代に、その侍講(筆者注:君主に学問を指南する人)であった新井白石は幕府の儀式典礼をすべて公家風に改め、武家の門として重視した大広間前の「塀重門」を禁裏(筆者注:天皇の住まう場所)に学び四ツ足門に変えたことがあった。
四ツ足門とは四脚門ともいい、門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立てたもの。国宝や重要文化財にはこの形式の門が多く、とても格式の高い門なのです。
だから新井白石は「上様の通る門は、これくらいでなきゃね」と気を利かせたのでしょう。
そこで八代将軍吉宗は、将軍宣下(筆者注:征夷大将軍の辞令)のその日に武家の制をただすとして再び塀重門に改めたという。
武士は武士らしく。
贅沢や品格を追うのも素敵ですけれど、吉宗は機能美を優先したところに、わたくしの内なる乙女建築魂がキュンキュンするのです。

さらに吉宗は耐火建築を奨励しました。
江戸町家の瓦葺の濫觴(筆者注:起源。始まり)は、慶長六年(一六〇一)の滝山弥次兵衛の家というが、正保二年(一六四五)には中彦六・寺島某の二人により江戸で瓦葺がはじめられ、徐々に普及していた。しかし明暦大火の後、経済的な問題や火災時における怪我人(屋根から瓦が落ちるため)が多いとの理由で、国持大名(筆者注:広大な領地を持つ有力大名)といえども禁止されていて、わずかに土蔵のみ許可されていた。かわりに「わら葺き」「かや葺」「こけら葺(筆者注:木の薄板を幾重にも重ねて施工する工法)」の屋根へ土を塗ることを奨励していた。しかしながら延宝頃(一六八〇)より桟瓦の工夫があって、ついに享保五年(一七二〇)四月幕府は瓦葺を指示し、耐火建築黒壁土蔵造のいわゆる「塗屋造」が一般化される。
武士の壁を塗るのは「白漆喰」。真っ白な壁もまた武士の象徴なのです。対して江戸の町人の壁は黒。別名「江戸黒」とも呼ばれた黒漆喰が江戸の町を席巻していたなんて……。
土蔵・塗屋造は、その上塗りに牡蛎灰・石灰・墨汁を加えて、黒色ツヤ出しの仕上げとした。十分な手間をかけて磨き上げることが商人の誇りでもあったわけである。焼屋(筆者注:全く耐火配慮をしない町家。外壁は板張り。火災時には必ず消失することから)でも下見板を黒渋ぬりとした。
黒い街並みにグロテスクな鬼瓦(江戸では鬼板といった)が棟にそびえる江戸の面影には火厄の悪魔にみいられた不気味さがある。
あゝ、ゴスロリ好きのわたくし、江戸の町家がいきなり耽美でおどろおどろしい悪魔の館に思えてきて、その想像にしたたか酔いしれてしまいましたわ。
でもこの本を読み進めていくうち、江戸の庶民の暮らしがドラマや映画で観ていた以上に厳しいことがわかってきました。
考えてもみてくださいまし。
ボヤも含めれば年に一度は家が燃えるのが当たり前、大地震に風水害、コレラの流行まで……。
しかもお江戸の広大な土地の6割を65万の武士が悠々と占め、狭くるしい1割6分に60万近い町人がひしめき合って暮らしていたのですから。
江戸っ子に蓄財の概念が生ぜぬのは必然であり、こうして生じたあきらめの諦念が「憂き世」を「浮き世」と笑いとばした。それは「泣き笑い」でなくてなんであろう。「宵越しの金を持たない」江戸っ子に、ニヒルな心理を投影しないことには、真実の姿は理解できない。
町人は「ギリギリでいつも生きて」いる暮らしの中、白い肌に彫り込んだ刺青のように、痛みと引き換えに手に入れた虚勢だけを誇りとして、黒い家の中でどうにか一日をやり過ごしていたのではないかしら。
この本の前書きに「オリンピックのためにハイウェイができて、一見現代都市を謳歌しても、それが未来の輝ける都市への道でないことは誰でもが知っている」とあります。1965年の言葉とは思えない、ぞっとするほどの既視感ではありませんか。
都市とは、いつの世も人を焼き尽くす誘蛾灯。
江戸っ子も、60年代の東京人も、そして令和のわたくしたちも、羽を焦がすと知りながら光に向かって飛んでいく。それが都市というものの、逃れようのない魔性なのかもしれません。

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