短編小説『思い出を捨てられない男』
「これ、故障してる」「……わかってる」
「直さないの?」「直せないんだ」
「じゃあ捨てて、新しいの買ったら?」「それも……出来ないんだ」
男は苛立ちを抑えながら声を絞り出した。部屋の隅で膝を抱えるように座ったままの彼は瀬川悠人、三十四歳。少なくとも戸籍上はそうだった。
「出来ないって、どういうこと?」
「いろいろ思い入れがあって……」
女はため息をついた。彼女は今日、この部屋に初めて足を踏み入れた。マスク姿に軍手をしたまま、ドアを開けた瞬間、鼻を突くカビと埃と、得体の知れない腐敗臭。
人のいるスペースは、畳一畳分ほどしかなかった。天井近くまで積み上がった段ボール、壊れた家電、古新聞、服、ビニール袋。
すべてが「いつか使うかもしれない」という呪いのような言葉で縛られているようだった。
「それはわかるよ。でも、使えないなら不便でしょ?」
「うん、不便」
「だったら尚更……」
「そうは言うけどさ、思い出がたくさん詰まってるんだよ。それをゴミだと割り切って捨てるなんて、僕には……出来ない」
女は静かに部屋を見回した。山のようなゴミのひとつひとつに、悠人がどんな物語を重ねているのかは、想像もつかない。
「そんなこと言ってるから、こんな状況になるんじゃない。現実を見なよ」
悠人は唇を噛んだ。女の言葉は鋭かったが、嘘ではなかった。
「こんなゴミにも思い入れがあるっていうわけ?」
「だから……これもそれも使えるし、そんな日が来るかもしれないだろ?」
「いい? 断言する。そんな日は絶対に来ない」
「何で……そんなこと言い切れるんだよ?」
「来たとしても、その時考えればいい。頭はそうやって使うもの」
「うぐ……」悠人は小さくうめいた。
「何も考えてないからこんな状況になってるんでしょ? ほら、それも捨てよう」
「あ、だからこれは……」
「だからもへったくれもない! 何の役にも立たない思い出なんて捨ちまえ!」
悠人の目がじんわりと潤んだ。
「……そんなこと言うなよ、思い出が……」
女は少し声を柔らかくした。
「思い出は美しいものだけど、それはこの部屋にじゃなくて、あなたの頭の中に貯めておくの」
「……あ」
「さっきも言ったけど、頭はそうやって使うもの。ちゃんと考えなよ」
悠人は長い間、ひざを抱えたまま黙っていた。埃っぽい空気の中で、彼の鼻の呼吸音だけが聞こえる。
「考える……か。物を取っておくうちに、いつの間にかそうやって考えるのを止めていた気がする……」
女はゆっくりと悠斗に近づくと、しゃがみ込んで彼としっかり目を合わせた。「ねえ悠人くんさ、この機会逃したら一生このままだよ? 本当にそれでいいわけ?」
「一生……」
「そう。一人でゴミだけを抱えたまま、誰にも気づかれずにただ腐って死んでいくの。最後は特殊清掃の世話になって、大家さんや不動産屋さん、近所の住人、そして親族に多額の請求を丸投げすることになって、迷惑をかけたままあなた自身がゴミになって死んでいくだけの、一生。……それでいいの?」
悠人の顔が青ざめた。
「まわりに迷惑をかけたまま、僕が……ゴミに」
「そう。人として生きたいなら、今すぐ動きなさい。まだ間に合うから。私は今まで何人も、朽ちたまま亡くなった人を見てきた。あれはもう人じゃなかった。ただの臭い汚物でゴミ。あなたもそうなりたいわけ?」
悠人は震える手で顔を覆った。長い沈黙のあと、掠れた声で言った。
「……何も、そこまで言う事ないじゃないか……ただ、死にたくなるようなことはたくさんあったけど、そんな死に方は……嫌だ」
女の表情が初めて、わずかに緩んだ。
「でしょ? だからとりあえずその一歩。これを捨てるの。さあやろう? 私も手伝うから」
「手伝う? こんな僕のために……いいの?」
「生きようとする人に、こんなもそんなもありません。」
女はポケットからもう一組の軍手を取り出し、悠人に差し出した。
「ほら、そっちからやるよ」
悠人は目を瞬いた。信じられないという顔で、ゆっくりと軍手を受け取った。埃と汗でざらついた感触が、手のひらに伝わる。
「う……うん、わかった。……ありがとう」
「それは全部終わってから言って」
「……はい」
「じゃあお願いしまーす」
女が明るく声をかけると、廊下で待機していた同僚たちが「失礼します」と声を揃えて部屋に入ってきた。三人ともマスクと軍手姿で、ゴミ袋と軍手を手にしている。
「みんなでやると早く終わるからさ、一緒にやろう?」
悠人は驚いて目を丸くした。女の後ろから入ってきた同僚の一人が、にこりと笑って軽く頭を下げた。
「悠人さん、よろしくお願いしますね」
「え……あ、はい」
悠人は言葉を失いながらも、軍手をはめた手をぎゅっと握りしめた。見知らぬ人たちが、自分のこの惨めな部屋に平気で入ってきて、手伝おうとしてくれている。それだけで胸の奥が熱くなっていった。
「……うん。一緒に……」
四人はすぐに動き始めた。女は無言で手を動かし続けた。悠人が迷ったときも、ただ隣で一緒にゴミを袋に詰めていった。同僚たちも黙々と作業を進め、時折「それは捨てて大丈夫なやつですか?」「これ向こうに持っていきますね」と声をかけて確認しながら、部屋を少しずつ広げていく。
——その作業は夜が更ける前に終わった。
大きなゴミ袋は三十四袋にもなった。ゴミの壁で人が通るのがやっとだったリビングに、久しぶりにフローリングの床が顔を見せた。
「こんなに広かったんだ、この部屋……」
悠人は呆然と呟きながら、ゆっくりとその場に立ち尽くした。埃だらけの床だったが、自分の足の下に確かに広がっている。それはまるで初めて見る景色のように感じられた。
女は軽く微笑んで言った。
「悠人くん、まだ終わってないよ?これからが本番。ここから掃除したら新築みたいに綺麗になるからさ」
悠人はここに引っ越して来た当時を思い出していた。
「確かに……あの時は希望に満ちてたっけ……」
照れたように苦笑いしながら、みんなの清掃作業に混ざった。
女と同僚たちは、床を拭き、残った小さなゴミを丁寧に片付け、埃を払い続けた。悠人も一緒に雑巾を握り、床をこすった。
みんなが動いてくれてる……それに動かされるように悠人は、汗と埃で顔が真っ黒になっても、手を止めることはなかった。
作業に夢中になっているうちに、気づくと窓の外が白み始めていた。朝日が眩しい。
綺麗になったリビングはかなり広く、そして明るく感じられるようになっていた。悠人は埃だらけの手で顔を拭い、女と同僚たちを見た。
「本当に……ありがとうございます」
女は軽く微笑んだ。
「まだ道半ばだけど、よく頑張ったね。これから一緒に続けていこう」
悠人は深く頷いた。荒んでいた胸の奥に、久しぶりに温かいものが広がるのを感じていた。それは、ただの「思い出」ではなく、これから生きていくための、小さな「決意」だった。
窓から差し込む朝の光が、フローリングの床を優しく照らしていた。ゴミの山に塞がれていた悠人の視界は、昨日までよりずっと広く、明るくなっていた——
