私たちは、どんな社会を次の世代に渡すのか
少し長いので、目次をつけました。
「最近の若者は……」
という言葉を聞くことがある。
態度が悪い。
礼儀がない。
人のことを考えない。
昔と比べて、なんだかおかしい。
たしかに、同年代から見ても、
「いや、この人はちょっと……」
と思うような人はいる。
でも、本当に「最近の若者は」そうなったのかは、私には分からない。
昔にも態度の悪い人はいただろうし、今の若者にも礼儀正しい人はたくさんいる。
ただ、なぜ「最近、そういう人が多くなったように感じる」のか。
もし本当に、社会の中で何かが変わっているのだとしたら、その理由のひとつとして、
「慣習」
の影響があるのではないか。
私は最近、そんなことを考えるようになった。
日本って、法律以上に「こうするもの」という慣習が強い場面があるように思う。
「挨拶をしましょう」
「困っている人がいたら助けましょう」
「ご近所同士で助け合いましょう」
こういうものだ。
もちろん、人によって考え方は違う。
挨拶が苦手な人もいるし、他人を助ける余裕がない人もいる。
ご近所付き合いだって、濃すぎればただの監視になってしまう。
だから、これを法律にして、
「挨拶しなかったら罰則」
なんて話をしたいわけではない。
でも、
社会の中で「こういうことは大切だよね」と、ある程度共有されていること自体には意味があるのではないか。
と思う。
たとえば挨拶なんて、ものすごく小さな行為だ。
「おはようございます」
「こんにちは」
それだけ。
でも、それによって、
「あなたの存在を認識しています」
という意思表示ができる。
知らない人同士でも、最低限の関係を作ることができる。
困っている人がいたら助ける。
ご近所同士で、できる範囲で助け合う。
こういうものも、必ずしも「義務」ではない。
でも、誰もが、
「自分には関係ないので知りません」
となってしまった社会より、
「自分にできることなら、少しくらい手を貸そう」
という感覚が残っている社会のほうが、暮らしやすい場面はあると思う。
だからといって、昔の慣習を全部残せばいいとも思わない。
昔には昔の問題があった。
嫁姑問題もそうだし、
「女はこうするもの」
「子どもは親に逆らうな」
「昔からこうしてきた」
というような、今では理不尽だと思える慣習もたくさんある。
そういうものまで、
「昔からあるから大切なんだ」
と言って残す必要はない。
でも、だからといって、
「古いもの=悪いもの」
として全部捨ててしまうのも違うと思う。
たとえば、
「挨拶をする」
「困っている人に手を差し伸べる」
「地域で助け合う」
という慣習まで、
「それって古い価値観じゃない?」
と捨てる必要があるのだろうか。
むしろ、こういうものは残したほうがいいのではないか。
もちろん、個人の事情や意思を無視してまで強制するものではない。
私はそう思う。
ここで大事なのは、「その慣習が何のために存在していたのか」を考えることなのだと思う。
なぜ、昔の人はそうしていたのか。
何を守るためだったのか。
今でも、その目的は必要なのか。
もし必要なら、今の社会に合う形に変えられないか。
逆に、もう役割を終えているなら、手放してもいい。
つまり、「昔からあるから残す」でも、
「今は令和だからなくす」でもない。
意味を考えて、残すものと変えるものを選ぶ。
私はそれが、「慣習のアップデート」なんじゃないかと思う。
そして、もうひとつ考えたいのが、インターネットの普及だ。
昔は、自分と考え方の違う人とも、ある程度は関わらなければならなかった。
同じ地域に住んで、
同じ学校に通って、
同じ職場で働いて。
「この人とは考え方が合わないな」と思っても、完全に関係を切ることは難しかった。
でも、インターネットが普及した今は、
自分と似た考え方の人を探して、つながることができる。
もちろん、それ自体が悪いことだとは思わない。
自分と似た価値観の人と出会えることで、救われることもある。
ただ、その一方で、
「自分と違う考え方の人と関わる機会」
まで減ってしまうことはあるのではないかと思う。
自分と同じ意見ばかりが流れてくる場所にいると、
「普通はこう考えるよね」
と思っていたものが、
実は「自分の周りではそうだった」だけかもしれない。
逆に、自分とは違う考え方を見たときに、
「そんな考え方もあるのか」
ではなく、
「なんでそんなことを考えるの?」
となってしまうこともある。
これは、慣習について考えるときにも関係してくると思う。
昔の慣習には、良いものも悪いものもある。
でも、それを考えるためには、
自分とは違う価値観を持つ人の話を聞いたり、
「なぜこの人はそう考えるんだろう」と考えたりする必要がある。
自分と同じ考えの人だけで固まってしまえば、
「自分たちの普通」
が、いつの間にか
「社会全体の普通」
に見えてしまう。
だからこそ、これは「多様性」について考えることにもつながる。
単に「いろんな人がいていい」と言うだけではなく、
「自分とは違う人がいることを前提に、どうやって一緒に暮らすのか」
を考えることでもあるのだと思う。
多様性そのものは、もちろん大切だと思う。
人によって考え方が違っていい。
生き方が違っていい。
価値観が違っていい。
ただ、
「人それぞれだから」
だけで社会を運営することもできない。
どんな考え方をしてもいい。
どんな生き方をしてもいい。
それでも、
「他人の権利を侵害しない」
「人に迷惑をかけたら、そのことについて考える」
「困っている人を見ても、助けるかどうかはともかく、完全に無関心であることを当然とはしない」
みたいな、最低限の共有部分は必要になる。
秩序のない多様性は、ただの無法地帯になってしまう。
だから、多様化するということは、
「今まであったルールを全部なくす」
「自分に都合の悪いルールを無視する」
「自分に都合のいいように解釈する」
ことではないと思う。
むしろ、
違っていていい部分を増やしながら、みんなで共有する部分をどうするのか考えること
なのではないだろうか。
そして、ここまで考えていると、「最近の若者は……」という言葉にも、少し違う見方ができる。
もし本当に、
「最近の若者は人への配慮が足りない」
ということがあるのなら、
その若者だけを責めて終わりにしていいのだろうか。
その人は、突然18歳になって空から降ってきたわけではない。
家庭で育ち、
学校に通い、
大人を見て、
社会の中で価値観を身につけてきた。
だったら、
その若者を育てた環境についても考える必要があるのではないか。
家庭が安定していなかったのかもしれない。
親自身が、誰かと関わる方法を教わっていなかったのかもしれない。
地域とのつながりが薄くなっていたのかもしれない。
家庭の中で「こういうことはやってはいけない」と教える機会が減っていたのかもしれない。
自分が経験した当たり前が、目の前の相手にとっては全くの未知のものなのかもしれない。
もちろん、原因を考えたからといって、本人の責任が全部なくなるわけではない。
原因と責任は別の話だ。
でも、原因を考えなければ、同じことを繰り返すだけではないだろうか。
それなのに、
「最近の若者は……」
で終わってしまう。
これは、ある意味で思考の放棄なのではないかと思う。
若者が悪い。
最近の親が悪い。
昔と違ってダメになった。
そう言ってしまえば簡単だけれど、
「なぜそうなったのか」
まで考えなければ、何も改善できない。
しかも、少し皮肉なことも起こる。
態度の悪い若者を取り上げて、
「最近の若者は礼儀がない」
と言い続けていると、
まともな若者ほど、あなたに近づきたがらなくなる。
ちゃんと挨拶をする人も、
人の話を聞く人も、
周りに配慮する人もいる。
でもそんな人は、
「若者はみんなダメだ」
という空気のところに、わざわざ近づきたがらない。
「どうせ自分も若者というだけで嫌われるんだろうな」
「一回のミスで、『最近の若者は……』って言われるんだろうな」
「この一瞬しか見てもらえないんだな」
そんなふうに思って距離を取る。
その結果、
「最近の若者は大人と関わろうとしない」
となる。
……いや、それ、
ちょっと自分で原因を作ってませんか。
もちろん、悪い行動は注意していい。
「その行動はよくない」
と言うことは必要だと思う。
でも、
「あなたのその行動がよくない」
と、
「最近の若者はよくない」
は違う。
前者なら、行動について話ができる。
後者では、何もしていない人まで一緒にされてしまう。
そして、まともな人ほど離れていく。
これは若者に限った話ではない。
人間は誰だって、
「自分の属性を理由に最初から悪く見られている場所」
には近づきたくない。
だから私は、
「昔のほうが良かった」
とは思わない。
昔には、なくなってよかったものがたくさんある。
でも、
「今は令和なんだから、昔のものは古い」
とも思わない。
昔の慣習の中には、長い時間をかけて、
「こうしたほうが社会はうまく回る」
と積み重ねられてきたものもある。
もちろん、その中には間違いもある。
だからこそ、
残すか、捨てるかの二択ではなく、一度分解して考えてみる。
「これは何を守っていたんだろう」
「今も必要だろうか」
「必要なら、どんな形なら今の社会に合うだろう」
そうやって考える。
挨拶は残してもいいかもしれない。
助け合いも残したほうがいいかもしれない。
でも、嫁が夫の家に従うという慣習は、もう必要ないかもしれない。
「人に迷惑をかけない」という考え方は残しながら、
「みんなと同じでなければならない」は手放してもいい。
そうやって、
残すものと変えるものを、自分たちで選んでいく。
社会は、昔から完成しているものではない。
法律だって、人が作って、人が変えていく。
慣習だって、誰かが始めて、誰かが受け継いで、誰かが変えていく。
だったら、
「昔からこうだから」でも、
「今はこういう時代だから」でもなく、
「これは、これからも必要なのか」
と考えていきたい。
「最近の若者は」と嘆くのもいい。
でも、その前に、
「じゃあ、私たちはどんな社会を次の世代に渡したいんだろう」
「その世界に近づけるために、自分に何ができるだろう?」
くらいは考えてみてもいいのかもしれない。
