ソースあるんですか?〜その先にあるもの〜

 ひろゆき、Wikipediaで見る「ソースあるんですか?」「要出典」についてだ。

 いかにも正しさを追い求める姿勢のように見えるけれど、本当にそれで“わかった気”になっていいのだろうか?これは、ひろゆきやWikipediaを否定する話ではなくてね。「信じられる情報とは何か」「言葉をどう使うべきか」をもう一歩深く考えてみたいという話だ。

「ソースがある」=「正しい」なのか?

 Wikipediaには大量の出典が付けられている。が、実際にその出典が正しいか、確認したことがある人っているのかな?

 たとえばある国鉄型車両の配置でも技術情報でもいい、これの記述について「鉄道ファン1985年5月号125ページ」なんて出典があっても、その現物を持ってる人は限られているよね?

 しかも出典と書かれたそのページに、実はそんなこと書いてなかった──なんてことも起こりうる。
 つまり、「出典があるように見せかけること」は誰でもできるし、「ソースがある=内容が真実」とは限らないんじゃないかな?

〈 手段の目的化が始まると…〉

 この“出典”という概念が、やがて形だけのものになってしまうとする。

「とりあえず何かリンクを貼っておけば信憑性が出る」

それは本来の目的、つまり“正しさの検証”ではなく、“正しさのポーズ”にすり替わっている。

 前から思ってたんだけどディベートにも似た空しさがあるんだ。

 これって本来は相反する意見をぶつけ合って、どちらに合理性があるかを探る行為のはずだ。
 だけど立場をシャッフルして「次は逆の主張をしてください」と言われた瞬間、論点よりも技術が目的になってしまう。これが冷めるんだけどこの気持ち分かってもらえるかな?

 弁護士がどう考えても人として正しくない行いをした被告人を仕事として弁護するみたいなもどかしさ。

 「主張」はどこかに置き去りにされ、「勝つための話し方」が主役になっていく。うーん。
 これって「手段の目的化」てやつだ。

 ひろゆきですら「実生活でディベートは役に立たない」と言う。

 ひろゆきは論破の代名詞のような存在だけど自身が「ディベートは実生活ではほとんど役に立たない」と語ってる。理由は簡単だよね?反感買うだけだから。

子供のような言葉遊びなんだよね。
「それってあなたの感想ですよね?」とか「ソースあるんですか?」なんて「何時何分何秒?地球が何回回ったとき?」みたいな子供じみた会話だと思うよ。いい大人がそんなんで情けないというのが本来でしょ。

論理の殻をかぶった逃げ口上。いかにうまく論点ズラししようかってのがミエミエだよ。

 論破ブームの弊害が起きている。小学生の子どもが、母親に説教されてこう返した。

「それってあなたの感想ですよね?」

これを言われるとまともに会話が出来なくて困るという話をネットで見た。ネットってどこですか?ソースあるんですか?とか言うなよ!

 でもこんなの自分の子供じゃん?調子こいてたらビシッと言ってやるだけだと思うね。

「そうよ。あなたが高学年になってもまだこんなに幼いのは何でって心からそう思ってる。情けないっていうのは、母親としての個人的な私の感想よ!」

と言えばいいだけの話よね?みんなちょっと感づいてきた?このエピソード自体ソースがない作り話って可能性が高いってことを!あはは!

 ソースは「ある」ことが大事なのではなく、「何のためにあるか」が大事。
「要出典」も「ソースあるんですか?」も、知識を検証する入り口としては大切。これはいい。

 でもそれが“目的”になってしまえば、言葉は人と人を遠ざけるだけの道具になってしまう。

本当に信じられる情報とは“どこに書いてあるか”ではなく“なぜその言葉を発したのか”を問うことから始まるのかもしれない。

 以上、最近開くたびに金をせびってくるWikipediaの必死さに思うところがあって書いた投稿でした。

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