見出し画像

甘ったれな私(不登校先生の過去を振り返る編)

 すぐに仕事を休んでしまう自分を恥じる。鬱病がかなり私の邪魔をしているようには思うけれど、それなりに責任のある仕事をしていて、それなりに迷惑をかける相手がいて、これではいけないなあと思っている。

 大人になる前から私は甘ったれで、幼稚園は意気揚々と通っていたのに小学校一年生のときは母にしがみついたまま泣いて泣いて、学校に行きたがらなかった。アメリカから日本に帰国した直後の小学校五年生のときも行き渋りがあった気がするが、それは思春期の子供に国際レベルの環境変化があったからという理由で免責してもらえる、かな。

 中学三年生でまた学校に行けなくなったけれど、それは咳喘息と(今思えば)鬱病らしきものが絡み合って私を自宅ベッドに縛り付けていたからだ。友達は多くはなくても普通にはいたし、いじめられてもいなかったし、でも学校には行けなかった。

 高校二年生、三年生は、私の人生の中で語り継がれる時期だろう。別に非行少女だったわけではなく、最愛の祖母の死だとか、同性の友人に抱いた恋心とか、クラスに友人がいなかっただとか、そういう理由があって、私はまたしてもなかなか学校に現れない生徒になってしまった。高二の一学期に授業を休み過ぎて、通知簿のどの科目にも成績評価がついていなかったとき、凄くびっくりしたなあ。どうやら通知簿をつける時点での出席可能日数の四分の一を欠席していると、正式な成績がつけられなかったらしい。高三のときは受験のこともあるからか、仮成績をつけてもらっていた。全ての数字が括弧に入っていて、括弧つきの評価3と、括弧なしの評価2はどちらのほうがマシなのか、友達とぎゃーぎゃー話していた記憶がある。

 どうにかこうにか卒業して、無事に大学に入学したと思ったら、また一年生で行き渋りが始まった。思えばこれも鬱病の再発だったのかな、お風呂に入るのが凄く大変で、頭だけ洗う日、体だけ洗う日、そんな風になんとか分割しながら身だしなみを最低限整えて通っていた。離人感が酷くて、通学電車の中の自分の姿を見ていたこともあった。有難く第一志望校に受かっていたこともあって、何とか学部生活は四年間で終えた。まだGPAをつけられなかった頃だったのが幸いした気はする。

 こんなに学校に行けなかったのに、なぜか私は大学院修士、博士課程に進学し、今の大学教員という職に辿り着いた。学校に行けなかったはずの私は、結局友人の誰よりも長い学生生活を送って、そのまま学校現場に残った。残念ながら今でも鬱病と闘っていて、下手すると真面目な学生よりもよく休むから、自分のことを時々「私が誰よりも単位落としそう」だとか「不登校先生」だとか言っている。振り回される学生は苦笑いくらいはしてくれる。

 でもね、私は不登校先生でよかったこともあると思ってる。甘いだとかカモにされてるだとか言われそうではあるけれど、学生の欠席に寛大でいられる自分のやり方は嫌いじゃない。そりゃあ、中には体調不良って言うだけ言って本当は遊びに行っている学生もいるかもしれない。でも、無理しないと来れない学生がいたとして、「この授業だけは無理しないで休もう」と思えるんだったらそれも悪くないかな、と思う。ゆるく休める授業は、ゆるく来れる授業だ。来れそうなときに何とか来てみようって、そう思える場所を提供できるのは、私自身が苦しんだからだと思う。

 私は甘ったれで、自分に圧し掛かる責任から逃れようといつも藻掻いている気がする。でも、私が甘ったれな不登校先生であることで救われる人がいるなら、限度はあるけれど、全てが悪いことではない、よね。


いいなと思ったら応援しよう!

熊橋そら子 よろしければサポートをお願いします!眠気覚ましのカフェオレ購入のあてにさせて頂きます!