東海道五十七次 徒歩の旅⑮桑名宿~亀山宿
こんにちは。26歳女です。
2024年11月から12月に、18日間かけて東海道五十七次を歩きました。
この記事では、東海道五十七次を歩いた記録を書いていこうと思いますので、これから歩く人にとって参考になればと思います。
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今回の内容
今回は、出発して14日目に歩いた桑名宿~亀山宿について書きます。
(これまでの観光日2日間は含めず)

桑名宿出発
12月10日(火)、天気は晴れ。
前日に宿泊したホテルはこちら↓
さて、前日にホテル予約を間違えたおかげで伊勢神宮参りができたこの日は、7時過ぎにホテルを出発しました。
相変わらず、トイレを流すと、新幹線でも通っているのかと思うくらいの轟音で、ビビりながらチェックアウトします。

↑ホテル近くの三重県伊勢朝日駅の近くに、東海道の目印がありました。
この近くの東芝に出勤する方や、学生にまぎれて歩きます。
写真を撮っていると、不思議そうに見られました。
かつては、この周辺は桑名や富田とならんで焼き蛤(はまぐり)が有名だったそうです。現在はなんの変哲もない街並みですが、昔はかなりにぎやかだったそうです。

↑推定樹齢300年の榎。
この周辺の東海道に植えられていた松の木は、戦時中に松根油(しょうこんゆ)という液体状の油採取や、害虫によって伐採され、この榎だけが唯一残っている木です。

↑朝日町の東海道は、多くの民家にこうした竹の筒があって、花が飾られていました。なんか素敵だな~、きっと意味があるんだろうな~と思って調べてみたところ、朝日町が2021年から取り組んでいる演出でした。
東海道を歩かないと気が付かないことが沢山あります。

↑こういうのもありがたい。
朝日町は、明治時代に、4つの村が合併してできた町です。
古代史上最大の内乱として有名な、天智天皇の皇位継承者争いである壬申の乱(672年)の時に、この地から朝日を望んだという故事が由来をしています。
この近くを流れる朝明川は、古代日本の皇族である日本武尊(やまとたけるのみこと)が、ここで夜明けを迎え、川の水で口をすすいだことが由来しています。

↑冨田の一里塚跡。明治以降、交通機関の発達によって、取り除かれてしまいました。

↑1839年建立の常夜燈がありました。
静岡県は、火防せの神を信仰して、火災防止を願った秋葉常夜燈がたくさんありました。
この三重県のエリアでは、幕末のお伊勢参りが流行った時に設置されたものが多くあります。毎晩、この中に明かりが灯されて、夜道を照らしていました。

↑1902年建立の八幡常夜燈。
台座には、この常夜燈のお世話をした人の名前が、100人ほど刻まれています。
設置当時は民家が一軒もなく、夜は松並木の寂しい道が続いて、追いはぎが出没していたそうです。その後東海道がにぎわうと、この周辺まで四日市宿の飯盛り女や客引きが迎えに来ていたそうです。
飯盛り女とは、吉田宿・御油宿などでも紹介をした、表向きは食事を提供し、夜は寝床の相手をしていた女性陣のことです。


↑1505年創業のなが餅笹井屋。
名物のなが餅を購入。その名の通り、長く引き伸ばされたお餅で、中には餡子が入っています。


↑三瀧川を渡ります。この川は昔は三重川と呼ばれ、歌川広重の東海道五十三次にも描かれています。


↑四日市宿に到着。
ここは問屋場跡です。問屋場では、宿場を通行する大名や役人に人足や馬の提供、荷物の積替えの引継ぎなどが行われていました。
この建物は、四日市宿の資料館になっています。

↑1810年にできた道しるべ。「本当に200年以上前の?」と言いたくなるくらい、はっきりと文字が読めます。

↑商店街がありました。

↑ひょええええ、、、

↑日永の追分。鳥居は、1774年にできました。
奥には立派な常夜燈。また、「ひだりさんぐう道」「右京大阪道 左いせ参宮道 すぐ江戸道」と刻まれた道しるべもあります。
ここで同じく東海道を歩いている方にお会いをしました。
その方は私とは逆で、京都から東京を目指しているそうです。
一番良かった宿場は、この先にある関宿だと教えてくれました。
ここに湧水があることも教えてくれました。「奥さんとなんか歩きたかねーよ!」と笑いながらおっしゃっていましたが、仲がいいんだろうなと思わせる口ぶり。

↑その方が教えてくれた湧水。一応そのまま飲める水質らしいです。
この周辺は、昔は追分まんじゅうが名物で、東海道中膝栗毛に出てくる弥次さん喜多さんも立ち寄ったところです。

↑川を渡って少し坂を上ると、うつべ町かど博物館という施設がありました。この日は施錠されていましたが、外にきれいなトイレがあってお借りできました。

↑柿とみかんが置いてありました。この日は柿だけ入っていました。
残念ながら私は柿が苦手なのでいただきませんでしたが、「旅のお客様」という言葉がすごく嬉しかったので、近くにあったメモ帳にお礼を書いておきました。

↑すぐ先に、「杖衝坂(つえつきざか)」があります。
現在はきれいに整備されていて、「急な坂だな」という感じですが、昔は難所の1つでした。
日本武尊がここを通った際に、疲れて杖をついて歩いたことが古事記に書かれていて、その名がつきました。
1688年、松尾芭蕉もこの坂を馬に乗って超えようとして、あまりの急登に落馬をしてしまったほどです。

↑杖衝坂には、弘法の井戸と、大日の井戸という2つの井戸があります。
弘法の井戸は、水に困っている村人に対して弘法大使が杖で示したところを掘らせてみると、水が湧き出たと伝えられる井戸です。
大日の井戸は、坂の中腹にあった大日堂にお供えする水をくみ上げた井戸ということから、その名がつきました。

↑血塚神社。日本武尊の足の出血を封じたと言われる血塚の祠があります。

↑采女一里塚跡。采女とは、天皇に使える女官のことを指します。
杖衝坂のふもとの方にあった采女村は、采女の出身者が多かったことから、その名がつきました。

↑ついに、最後の難所である鈴鹿峠がある鈴鹿市に入ります。
久しぶりの峠越えの不安からびくびくしています。

↑44番目の宿場の石薬師宿に来ました。この近くに石薬師寺があったことから、その名がつきました。写真は本陣跡。
本陣には、大名や幕府の関係者など偉い人たちが宿泊をしました。

石薬師寺のご本尊は、弘法大使が一夜のうちに爪で掘ったと言われている薬師如来です。お寺は、歌川広重の東海道五十三次にも描かれています。

源範頼は、平家討伐の時に戦勝祈願をしにこのお寺に訪れ、当時鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに突き差したところ、桜が芽吹いたとされています。

↑石薬師の一里塚跡。
伊勢湾台風で当時植わっていた木は倒れてしまいました。

↑庄野宿に到着です。東海道が1601年に整備されたのに対し、庄野宿は1624年頃にできました。
石薬師宿からは2.7kmほどしか離れていません。
東海道五十三次のこちらの絵、一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

これはまさに、この庄野宿を描いたものです。
客を濡らさないように走る駕籠、振り落とされないようにしがみつく客、たたきつける大雨、これらの迫力や動きが評価され、歌川広重の代表作とも言われるものになりました。

↑本陣跡。

↑高札場跡。

↑郷会所跡。

↑女人堤防碑。
ここは鈴鹿川と北安楽川が合流することで、毎年水害が起こっていました。
堤防を造ることを神戸藩に願い出ても許可が下りず、無理やり堤防を築こうにも、斬首刑となってしまうため、村人は動くことが出来ませんでした。
ところが、毎年起こる水害に耐え切れなくなった菊女という女性が、男が斬首刑となってしまうと村の存続に影響がでるため、私たちの命を懸けた仕事にしましょうと声を挙げ、200人ほどの女性が賛同をしました。人目につかない夜に作業を行い、6年かけて堤防が出来上がりました。
処刑される直前、罪を許すことを伝える早馬が来て、斬首刑を免れます。その後、堤防を築き上げた功績が認められ記念碑ができました。

↑中冨田一里塚跡。常夜燈がありました。

↑半分コンクリートで埋められてしまった道路標。野登寺への道を示しています。「右のゝぼり」と刻まれているそうです。

↑亀山宿に到着。
かつては亀山城があり、城下町としても栄えました。
亀山城は、蝶が舞うような優美な姿から、「粉蝶城(こちょうじょう)」と呼ばれました。

↑和田道標。1690年に建てられた道路標です。
「従是神戸白子若松道」「元禄三庚午年正月吉辰施主渡会益保」と刻まれています。

↑和田一里塚跡。

↑江戸門跡。
商店街を少し進んで、今夜のホテルに到着です。
本日の宿
この日は、17時前には亀山第一ホテルに到着しました。
4700円。
本日の記録

次回に続く
次回は、亀山宿~水口宿です。
最後の難所、鈴鹿峠越えでどきどき。
