キスの余韻~リナ
店を出て、駅へと向かう夜風が火照った頬を心地よく撫でていく。
並んで歩く彼女のすらりとした背中。揺れる豊かな胸。いつ見ても見惚れるほどに美しかった。中国から異国の地に一人で来て、自分の足で立ち、孤独やプレッシャーを胸の奥に隠しながら、真っ直ぐに前を向いて生きている。
健気さと素直さに触れるたび、僕はただ美味しいものを食べさせてやりたい、少しでも肩の荷を下ろさせてやりたいと思う。そこに打算のような濁ったものは一切ない、なんて言ったら自分で自分を笑いたくなる。綺麗で、スタイルが抜群によくて、一緒に酒を飲んで笑い合う若い女性を前にして、下心が微塵もなかったと言い張るほうが嘘臭い。
彼女だって、それに気づいていないわけがない。僕が向ける視線の温度や、時折ポケットの財布を開く理由の裏にあるものを、彼女は大人としての経験値のなかでちゃんと察している。
それでもあえてそれを野暮な言葉で暴いたりせず、心地よい距離感を保ったまま隣に並んでくれているのだ。お互いにそれを分かっているからこそ、この関係には妙な大人としての余裕と、言い知れない色気が漂っている。
別れ際の改札の近く、人通りの少ない街路樹の影で、彼女がふと足を止めた。
「今日は、本当にありがとうございました。すごく、楽しかったです」
日本語のイントネーションには、ほんのわずかに故郷中国の響きが残っている。その顔を見上げると、街灯の光を浴びた瞳が潤み、ふわりと柔らかな笑みがこぼれていた。そのあまりの可愛らしさに、胸の奥が締め付けられる。
「僕もだよ。いつも頑張ってるんだから、これくらい当然」
そう言って笑うと、彼女は照れくさそうに視線を落とし、それから、まるで自然なことのようにすっと一歩だけ僕に近づいてきた。
拒絶でも、計算された誘惑でもない。ただ、今日という一日の終わりを惜しむように、彼女はほんのわずかに顔を上げて目を閉じた。
僕は唇を重ねた。
あまりにも純粋で、どこか儚い、透明なキスだった。柔らかく重なった唇から、彼女の微かな体温がじんわりと伝わってくる。舌を絡ませることも、貪るように抱き寄せることもしない。ただ、異国の空の下で互いの孤独を認め合うように、そっと唇を寄せ合っているだけで十分だった。
彼女の細い指先が、僕のコートの袖口をほんの少しだけ掴んで離さない。その小さな力加減に、彼女が抱えている緊張や、この瞬間に求めていた温もりのすべてが流れ込んでくるようだった。
やがて、名残を惜しむようにゆっくりと唇が離れる。
彼女は少しだけ頬を赤らめ、潤んだ瞳で僕を見つめた。
「……また、お仕事頑張ります」
「うん。無理はしないでね」
「はい。おやすみなさい」
彼女は小さく手を振ると、改札の向こうの人波へと溶けていった。その後姿が見えなくなるまで見送りながら、僕は自分の唇に残る甘い残り香をそっと確かめる。
恋も、結婚も棚上げして、ただ前を向いて走る彼女の人生のほんの一コマに、こうして優しく触れられたこと。それだけで、今夜の夜風は十分すぎるほど温かかった。
