みいちゃんと山田さんに関して現在思ってることまとめ
マンガやアニメ、絵本といった媒体は、良くも悪くも誰にでも届く強い影響力を持つ。 しかし同時に、それらは受け取る側のリテラシーに大きく左右される
今の日本社会の福祉・障害に関するリテラシーや倫理の低さは、SNSを見ていれば誰でも分かる。 その状況でこのアニメが放送されれば、社会の反応がどうなるかは目に見えている。今までの傾向をみればなおさらと予測できる だからこそ、相手を変えられない立場であっても、私は「絶対にやめてほしい」という立場を取る
包丁を作ることも売ることも自由だ しかし、それを赤ちゃんや子どもに渡そうとしていたら止めるのは当然のことだ。それがなんの法律違反でなくても…
創作物の「表現の自由」は守られるべきだと私も思う。 ただし、差別感情や処罰欲求を満たし、それをSNSで発散・促進する構造を持つ作品を、 「障害や福祉の認知を広める教材」としてわざわざ扱う必要はない
そして「表現の自由」は何を言ってもいいけど、主張してもいいけど、何を使って表現してもいいけど、「責任」は伴う
SNSで「表現の自由」を盾にして言いたい放題。人が自死を選んだ事例って何件かあった。記憶にあるでしょう?
あれも誰も責任をとっていませんが、法的に誰も裁けません。しかし私は「他殺」だと考えている
こう言われて心当たりがある人もいるんじゃないでしょうか?誰もあなたを見つけませんし責められませんが、確かにあなたが「殺した人」もいる
それは自分にしか分からない。一生背負うものになっている
あらゆる表現は守られるべきですが、それは「周囲の人が道を丁寧に舗装してくれる保障ではありません」
表現で何かを押しのけ、侵害するのであればその道は「茨」になり、その「業」を受けるのは覚悟しないといけません
現場の人間から言わせれば、この漫画の内容は慎重になって伝えなければ誤解が生まれる、非常にデリケートなものだし、実際との乖離も多い
メディア露出や世間からの注目で「分かった気」にさせるものは、知識も技術も経験もない人間が「理想や現実を語る危険性」を大いにはらんでいると言っていい
不用意に相手の「大事にしていた部分」を踏みにじる行為に繋がる
世の中にはより正確で、心を動かす、学びになる福祉や障害に関する書籍はたくさんある
問題は作品そのものだけではない。 むしろ怖いのは、「その構造に中毒になった人々の言動ややり取り」もだ
これまで福祉や障害に無関心だった人たちが、 自分の興味が高まったタイミングだけで作品を消費し、
「世間が注目するからいいじゃん」
「これでみんなが知ってくれるから良いことじゃん」 と軽々しく言う姿には正直腹が立つ一方で、無知ゆえの加減のなさに恐怖すら覚える
これは以前にもあった「ヘルプマークに似たデザインを売る問題」でもあった感情だ
「嫌なら見なければいい」という主張もSNS時代、YouTubeショートや違法切り抜きが大量に出回る現代では、 「嫌なら見なければいい」という論理はもう通用しない。そしてこの主張をしている人間も「反対意見をみなければいい」という行動をとれない矛盾があり、論理が破綻している
深夜アニメだから大丈夫、という時代でもない。 静止画だけでなく、声や動画という「分かりやすさ」が加わった切り抜きが、 あらゆる層に届くことも想定される
福祉の現場にいる人間、関係者は、 社会の差別につながる行為や、安全圏からの悪意に非常に敏感だ
だからこそ、何を言われようが「事前に社会へ釘を刺す」 それは、
「なんかめんどくさい人たちが騒いでたな。 めんどくさいからやめとこ、慎重になろ」
と、誰かの頭に一瞬でもよぎれば、 不用意に誰かを傷つける行為の抑止になるからだ
この「めんどくささ」が社会を守ることを、福祉関係者はよく知っている 福祉関係者や当事者から見たとき、 日本社会の福祉への無理解は非常に根深い。「信頼が厚い」と言ってもいい
だからこそ、今回のような作品が社会に投げ込まれる時、 その影響を懸念し声を上げることには意味がある
キャンセルカルチャーを望んでいるわけではない。 ただ、私自身の経験から 「この作品には賛同せず反対である」 と立場を示すことが、 「表現の自由だ」と叫ぶよりも、子ども達に胸を張って背中を見せられる大人だと判断している
実際に子ども達に問われたときに「自分はこう思う」と説明できる
福祉や医療関係者も今回の件で意見が割れている
しかし、私は社会福祉士、精神保健福祉士という立場から以下の理由でも反対している
数年前に「ドラえもんのキャラクターを発達障害に見立てて事例検討しよう」という試みをSNSでしようとして注意された人たちがいた
「じゃあなんで注意されたのか?」というと そのプロセスから紡ぎだされる言葉や周囲から放たれる心ない言葉、そういったものが無責任に、無作為に飛び交う可能性があり全方位、誰かれ構わず矢が飛んで傷つける可能性があったからである
「発達障害」「神経発達症」とくくってはいるけどその内容は「グラデーション、スペクトラム」の中にあるものなので、障害がある、ないに関わらず不特定多数の人に当てはまるかもしれない、ヒットするかもしれない話を公の場でするのは「危険性」が伴う という話です
これは今回の話にも繋がっていて、本来の事例検討の目的自体は「様々な視点を自分の中にいれより質の高い支援を目指す」のはずです
しかし、SNSの開かれた公の場で、不特定多数の誰かに共通項のあるキャラクターを使って「事例検討めいたこと」を始めてしまうと、本来閉じた場で慎重に扱われるべき言葉が、文脈を失ったまま拡散されてしまう危険があります
支援の現場で行う事例検討は、本来
守秘性の確保
参加者の倫理観の共有
言葉の使い方への細心の注意
「その人の背景」を丁寧に扱う姿勢
その人や関係者からの信頼と許可
といった前提があって初めて成立します
ところがSNSでは、これらの前提がほぼすべて崩れます 誰が読むか分からず、どんな文脈で受け取られるかも分からず、そして「その言葉が誰に刺さるか」も制御できません
さらに、キャラクターを使った事例化は、支援者側の意図とは関係なく
「あのキャラ=この障害」
「この行動=この特性の人がやること」
「こういう人はこういう風に扱うべき」
といった「短絡的なラベリング」を誘発しやすいのです
これは支援の質を高めるどころか、むしろ偏見や誤解を増幅させる方向に働くと私は考えます
そして今回のアニメ化の議論にも同じ構造が見えています
創作物は本来自由であるべきですが、SNSという「誰でも見られる場所」に投げ込まれた瞬間、作品の持つ構造が
誰かの劣等感
誰かのトラウマ
誰かの自己否定
誰かの過去に言われた心ない言葉
を呼び起こし、意図せず傷つける可能性が生まれます つまり、問題は「作品そのもの」で終わるわけではなく、その作品がSNSという環境で
どう受け取られ、どう拡散されるか
というところまで考えなければならない
それを無視して
「議論になるんだったらいい」
「考えるきっかけになるんだったらいい」
と強引に話を進めるのであれば、ここから皆さんの先にあるのは想像するような「明るい展望」ではない
そして、厳しい言葉ではあるが、
「いままで変われなかった人間が漫画一つで変われる、啓蒙できると思っていること自体に疑問を抱かないのか?」
「あらゆる手段でバズって世論を動かせればいいなら、それは迷惑YouTuberのそれと何が違う?」
と私は現在のSNS世論に投げかけたい
