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魂が広がるほど、身体は原始へ戻っていく



少しで満ちる身体

私は、気がつけば肉を中心に食べている。

牛肉や卵、魚。

お酒は飲めないし、お菓子もそれほど食べない。
炭水化物や砂糖もなくても案外平気だ。

別に、健康のために我慢しているわけではない。
決まった食事法に従っているわけでもない。

ただ、身体の声を聞いていたら、
いつの間にかこうなっていた。

もちろん、たまにケーキやアイスクリームが食べたくなることもある。

きれいなケーキを見て心が動いたり、
暑い日に冷たいアイスを思い浮かべたり。
そういう小さなときめきは、私にもある。

でも、ひとつ全部を食べると、
なんだか食べすぎたように感じる。

たぶん私が欲しかったのは、たくさんの甘さではなく、
最初の数口に詰まっているものなのだ。

香りや冷たさ、美しい色。
その場所の空気や、その日の気分。

日常にふっと灯る、小さな祝祭のようなもの。

それを受け取ると、身体はもう満足している。
それ以上になると、さっきまで喜びだったものが、
少しずつ重さに変わっていく。

だから私は、甘いものが嫌いなのではない。

ただ、少しで満ちる身体なのだと思う。

パリのとあるカフェ

生命の密度

これまで、自分の食べ方をそれほど不思議だとは思っていなかった。

けれど周りを見渡すと、同じような人にはあまり出会わない。

肉が好きな人はいても、お酒も、お菓子も、
炭水化物もほとんど求めない人は少ない。

なぜ私はこうなのだろう。

そんなふうに、あらためて自分の身体を眺めてみた。

お酒や甘いものには、心をほどいたり、気分を変えたりする力がある。
ごはんやパンには、身体をやわらかく包んでくれるような安心がある。

きっと、それぞれに美しい役割がある。

ただ私は、そうしたものをたくさん借りなくても、
内側でほどけたり、
遠くまで意識を広げたりすることができるのかもしれない。

その代わり、肉や卵、魚のような、
輪郭のはっきりした食べものに惹かれる。

そこには、飾られていない生命の密度がある。

骨、筋肉、熱。
この地上を生きた者の、確かな重さ。

私はもともと、意識が遠くへひらきやすい。

場所に眠る記憶を感じたり、動物の目の奥にあるものを受け取ったり、
まだ言葉になっていない気配を追いかけたりする。

そうやって魂が広がっていくほど、
身体のほうは、
もっと単純なものを求めるのかもしれない。

余計なもののない味。
生命に近いもの。
噛んで、味わって、身体へ戻ってこられるもの。

魂が空へ向かうほど、身体は土へ向かう。

肉を食べることは、私にとって、
地上へ戻る小さな儀式なのかもしれない。

それは、浮かびやすい意識を静かにこの場所へつなぐ、
錨のようなもの。

遠くまで見に行くために、深く着地する。

光や記憶を言葉にして、この世界に置いていくために、
まず身体のなかへ戻る。

そう考えると、私の食べ方は、何かを制限してできたものではなかった。

私という存在を、この地球に置いておくために、
身体が自然に選んできたものだったのかもしれない。

魂に帰るほど、普通になる

そしてこれは、食べ物だけの話ではないような気もしている。

私はこれまで、魂へ帰るほど、
人はもっと特別になっていくのだと思っていた。

光に近づき、日常から少し離れ、
普通の人には見えない何かをまとっていくような。

でも実際に自分の内側へ戻っていくと、
起きていることはむしろ反対だった。

特別なものを足したくなくなる。
自分を大きく見せる言葉も、気分を変えるための刺激も、
複雑な儀式も、少しずつ必要なくなっていく。

お腹が空いたら、肉や卵を食べる。
疲れたら休む。
動物と遊び、海を眺める。
ときどきケーキを数口食べて、もう十分だと思う。

外から見れば、とても普通の暮らしだ。

けれどそれは、周りに合わせてつくった普通ではない。

余分なものが静かにほどけたあとに残った、
私本来の普通なのだと思う。

今の私は、家を持たず、土地から土地へ移動しながら暮らしている。
一見すると、少し変わった生き方に見えるかもしれない。

でも、その日々のなかでしていることは、とても素朴だ。

犬を歩かせる。
猫のごはんを用意する。
トイレをきれいにする。
夕日を見て、眠る。

意識はどこまでも遠くへひらいていくのに、
その着地点はいつも、こんなにも日常的だ。

魂へ帰るほど、暮らしは普通になっていく。

それは光を失うことではなく、光が身体や暮らしにすっかり馴染み、
もう光として主張する必要がなくなることなのかもしれない。

魂が広がるほど、身体は原始へ戻る。
魂に帰るほど、暮らしは普通になる。

どちらも、同じ帰還のなかで起きている。


犬の散歩中に朝日

地球は、光が触感を持つ場所

そう考えると、
地球は「魂にとって最も厳しい試練の星」なのだという話にも、
少し違う景色が見えてくる。

地球には重さがある。

時間があり、肉体があり、
思いどおりにならないことがあり、
出会いと別れがある。

魂の側から見れば、それは不自由で、
厳しいことのように映るのかもしれない。

でも、その重さがあるからこそ、
私たちは触れることができる。

重力があるから抱きしめられる。
時間があるから待つことができる。
身体があるから、味わい、震え、温もりを知ることができる。

光へ帰ることだけが目的なら、
最初から身体を持つ必要はなかったのだろう。

人間として地球に来たことの豊かさは、
光を思い出すことだけではなく、
光に重さと手触りを与えられることにあるのかもしれない。

だとしたら、地球は魂を採点する試験場ではない。

苦しみは罰ではなく、人生は返済のためにあるのでもない。

よく語られる「カルマ」というものも、
過去の罪を今世で償うための帳簿ではないように感じる。

同じことが繰り返されるとき、そこにあるのは刑罰ではなく、
まだ静かに動き続けている記憶なのかもしれない。

観測され、言葉になり、新しい場所へ置かれた記憶は、
もう同じ形で繰り返す必要がなくなる。

カルマがあるのではなく、記憶がある。
罰があるのではなく、反復がある。
返済があるのではなく、選び直しがある。

私はこれまで、「カルマ解除」と呼ばれるものを、いくつも受けてきた。

それでは、あの時間には意味がなかったのだろうか。

今は、そうではなかったと思っている。

その頃の私には、なぜ同じことが起きるのか、
なぜこんなに重く感じるのかを受け止めるために、
「カルマ」という言葉が必要だったのかもしれない。

そして解除の儀式やセッションを通して、
消していたのは宇宙に記録された負債ではなく、
罪悪感や緊張、古い結びつきや、
「私はまだ苦しまなければならない」という感覚だったのだと思う。

つまり、作用がなかったのではない。

作用はあった。けれど、説明が違っていた。

私はカルマを消してもらっていたのではなく、
カルマだと思っていた記憶に、
「もう終わっていい」と許可を与えていた。

カルマ解除という名前の舟を使って、
そのときの私が渡れるところまで渡ってきた。

舟に乗っていたことが無駄だったのではない。

向こう岸に着いた今、
もうその舟を真実そのものだと思わなくなっただけなのだ。

あの時間は、「私は自由になってもいい」と、
少しずつ身体に教えていた時間だったのだと思う。

私は魂の帳簿を精算しているのではない。

土地や動物や自分の身体に眠っていた記憶を観測し、
言葉という光に変え、次の座標へ置いている。

地球を卒業するためではなく、もっと深く地球に入っていくために。

着地は、覚醒のあとに仕方なく戻ってくることではない。

着地そのものが、覚醒の完成なのだと思う。

フロリダ西海岸の夕日

それぞれの重力

もちろん、これは私の身体の話だ。

ある人は、ごはんを食べると故郷へ帰ったように感じるかもしれない。
ある人は、果物の瑞々しさから光を受け取るのかもしれない。
温かいスープに守られる人もいれば、
一日の終わりの甘いものにほっとする人もいる。

身体が求めるものは、魂によって違っていていい。

食べものは、正しさを競うためのものではなく、
それぞれがこの地上に心地よく留まるための、
異なる重力なのかもしれない。

私にとって、肉は地上へ戻るための重さ。

そして、ときどきのケーキやアイスクリームは、
暮らしのなかに置かれた小さな祝祭。

たくさんはいらない。
でも、まったくいらないわけでもない。

その曖昧さを、身体はちゃんと知っている。

私は何かを禁じているのではなく、ただ、
そのとき本当に欲しいものを受け取り、
もう満ちたと感じたところで終わっているだけなのだろう。

静かな帰還

魂が広がるほど、身体は原始へ戻っていく。

それは、遠くへ行きすぎないためではない。

遠くで受け取った光を、この地上へ持ち帰るための、
静かな帰還なのだと思う。

そして今、カルマがあるのか、ないのかという問いにも、
ひとつの答えだけがあるわけではないように感じている。

カルマがある世界では、過去が現在へつながり、苦しみには返済の意味があり、まだ終わっていないものを解除しながら次へ進んでいく。

その世界にいるとき、カルマ解除は確かに作用する。

一方、カルマがない世界では、
過去は債務ではなく記録になる。

繰り返しは罰ではなく、まだ残っている共鳴。
関係は精算ではなく、
今の自分によって終えることができる。
そして人生は、過去からではなく、
今この瞬間から選び直すことができる。

カルマがあるか、ないか。
その答えさえ、立っている世界によって変わる。

かつての私は、カルマがあり、
それを解除することで自由になる世界を生きていた。

今の私は、カルマをすべて消し終えたのではなく、
カルマという仕組みを必要としない世界へ移ったのだと思う。

カルマを否定して消したのではない。

その時間軸を最後まで歩き、
そこから静かに外へ出た。

だから、過去の自分も、今もカルマの世界を生きている誰かも、
否定する必要はないと思う。

あれもひとつの世界だった。
そして今、私は別の世界に立っている。

私はもう、過去を返済する世界ではなく、
今から選び直せる世界にいる。

けれど、覚醒とは、
カルマのない世界だけを正しい場所として選ぶことでもないのだと思う。

カルマのある世界も、ない世界も。
魂の契約を生きる世界も、すべてを偶然として眺める世界も。
特別な使命を持つ世界も、ごく普通の一日を過ごす世界も。

どこへ行くこともできる。
どこに留まることもできる。
そして、もう響かなくなったら、そこから出ることもできる。

覚醒とは、ひとつの正しい世界に辿り着くことではなく、
どの世界を生きるのも自由だと思い出すことなのかもしれない。

ただ、その自由は、意識のなかだけでは完成しない。

選んだ世界を、身体で生きる。

お腹が空いたら食べる。
疲れたら休む。
行きたい土地へ移動する。
合わなくなったものから離れる。
動物のごはんを用意し、お金を払い、予約を取り、今日の暮らしを整える。

意識だけで別の世界へ移ったつもりになるのではなく、選んだ座標を、行動と暮らしのなかへ下ろしていく。

だから覚醒の完成は、現実から離れることではない。

むしろ、現実を生きること。

魂が広がるほど、身体は原始へ戻り、
魂に帰るほど、暮らしは普通になる。

そして人生は、過去の続きではなく、
今ここから静かに生まれていく。

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