南方熊楠さん、世界を駆ける。 (2)
ただいま編集中の本は「熊楠さん」に関する本です。
熊楠さんのこと、ちょっとおさらいしてみましょう。
青年になった南方熊楠(みなかた・くまぐす)さんは16歳のとき(1883年、明治16年)和歌山をはなれ、東京は神田の共立学校(現在の開成高校)に入学。大学予備門(現在の東京大学教養学部)に進学するための寄宿制進学予備校です。1年後には大学予備門を受験し、見事に入学します。同級生には、夏目漱石、正岡子規、秋山真之、山田美妙など、後の日本で活躍する人たちがいました。
ところが熊楠さん。入学すると、授業に興味を示さず、上野図書館に通い詰めになります。和歌山では本は人から借りるしかなかったのが、ここではどんな本でも手に入ります。図書館に入り浸っては、日本・中国・西洋のあらゆる本を読み、自分のノートに書き写してばかりいました。熊楠さんは、学校の課外に書いたという意味で「課余随筆」(かよずいひつ)とそのノートを名づけ、東京時代以降もつづくことになります。
ほかにも、上野の博物館、動物園、小石川植物園などにおもむいたり、モースの発見した大森貝塚に獣骨や土器を拾いに行ったり、江ノ島や鎌倉や日光にまで足をのばして貝類や植物等の採集や購入もしています。
熊楠さんはすでに本格的に、考古学的なものや、魚介類・動植物などの生物学、鉱物などの地質学的なものなどさまざまなものに興味をいだいて、博物学的情熱を燃やしていたのです。
それで、大学予備門は? 18歳の熊楠さんははじめての挫折を味わいます。入学して翌年末の中間試験で代数の試験が29.4点。点数が足りず、落第が決まりました。他の科目は70〜80点とっていたのですが、大学予備門には1科目でも40点以下なら落第というキビシイ制度があったそうです。翌(1886)年2月には帰郷することになりました。
ちなみに、後に俳句に革新をもたらした正岡子規さんは英語が苦手で、やはり落第して退学されています。夏目漱石さんも落第を経験しています。どちらさまも、まっすぐの道を歩んでいるわけではないのですね。
大学予備門をやめて和歌山に帰った熊楠さん。予備門に退学届を送ります。しかし全然、下なぞ向いていませんでした。なんと、西洋の科学を学ぶために渡米したいと考えていたのです。送別会をしてもらい、その年の12月には横浜を出発。アメリカへ向けて出航したのです。
(つづく)
