矛盾という透かし
▼本記事は以下の続きです
何も変わっていない。
前の記事でそう予言した、と書こうとして少し迷った。予言という言葉が正確ではない気がしたからだ。あの記事を書いたとき、自分は「こうなるだろう」と思っていたわけではなくて——というか、思っていたのかもしれないけれど——正確には「こうだ」という現状を確認しながら、それが続くだろうと、続かないはずがないと、薄々わかった上で、それでも変わるかもしれないという可能性に文字を打ちながら 僅かにしがみついていたような気がする。つまり予言ではなく、むしろ現実から目を背けるための先送りだったかもしれない。いや、それも少し違う。先送りというより——。
結局のところいつ分かったのかなんてどうでもいい。何も変わっていない、という事実だけがある。
彼女と会いそうな場所を依然として避ける。避けるためには、どの時間にどのルートを通れば鉢合わせずに済むかを半ば無意識に計算しながら歩くことになる。これが気持ち悪いのかどうか、自分ではよくわからない。気持ち悪い、と判断すればすっきりするような気がするが、すっきりしたいがために「気持ち悪い」と判定を下しているのだとすれば、その判定自体が誠実ではない気がして、だから「よくわからない」に落ち着く。よくわからないまま、また明日も同じルートを歩く。
何かを言えるはずだ、とは最近あまり思わなくなった。代わりに、何かを言えるはずだという気持ちが薄くなったことへの、言いようのない安堵と失望が同時にある。安堵の理由はわかる——もう期待しないから傷つかなくて済む、という類のもの。失望の方はよくわからない。安堵すればいいはずなのに、なぜ失望もするのかということを少し考える。「そういうものなのだろう」という答えが浮かびかけたところで、考えることをやめる。やめるのが早くなった。最近は何についても、考えることをやめるのが早い——それとも最初からあまり考えていないのに、考えているふりをしているだけなのか。後者のような気もする。
こういう状態が続いている。続いている、と書いて、続かせているのは自分だ、という反論が即座に入ってきて、それはそうだと思う。では何をすれば変わるのかということを考え始めると、それ自体が際限のない作業になって、途中でやめる。
何もしていない。何も変わっていない。
そういうとき、自分がよくするのは、自分の書いたものを読み返すことだ。理由はおそらく単純で、書いたものが積み上がっていくのを確認すると、何かをしている気分になれるからだと思う。現実では何も動いていない。動かしていない。でも記事だけは確かに増えていて、それを眺めながら、少なくとも先週よりは何かを考えた、とかろうじて思える。これが正しい慰め方かどうかは知らないけれど、今のところほかに慰め方がない。
ただ、その読み返しにも問題がある。
彼女について書いた記事を読み返すのがしんどい。「客観視が私を苦しめる」と書いた最初の記事も、「行動したくなかった」と書いた二番目の記事も、読んでいると自分が自分をじっと観察しているような——距離があるようでいて、逃げられないような——感覚があって、あまり気分が良くない。だから、もう少しましなものを探したくなる。彼女とは関係のない文章が、自分の書いたものの中にはあるはずで、そのどれかを開けば、少しはただの批評として読み返せるのではないかと思った。
たとえば音楽評論。あれは彼女とは関係ない。
汚れていない部屋
以前、私の書いたキタニタツヤの評論を最初に開いた。
あれは彼女とは関係ない——そう確信していた根拠を、少し整理しておく。評論の対象は「れびてーしょん」という楽曲だった。インターネット黎明期の自由な空間が、商業化とともに「清潔で規範的な場所」に変質していく構造を、音楽を通して分析した文章だ。匿名性の消失、通知による支配、承認欲求の商品化——そういう社会論を書いた。数千字費やして、歌詞を引用して、テクノロジーの歴史まで調べて書いた。彼女の「か」の字も出てこない。社会について書いた文章が、何かに汚染されているとしたら、それはよほど自分が滑稽な状態にあるということになる。
だから開くとき、「これだけは安全なはずだ」と思っていた。
書いた日付を確認する。
どこか嫌な予感はしつつ、一旦忘れようとする。何かを書こうとすれば当然、その時期に書かれる。記事がある時期に書かれたからといって、その記事がその時期の感情に汚染されているとは限らない。それはそうだ。
しかし、もう少し読み続けた。
評論の中で自分が最も力を入れて書いたのは、ある一句の分析だった。
みんな嗤っていた翼で、地に足をつけずにいられた
嘲笑されていたからこそ浮いていられた、という逆説。居場所が「正常化」されることで自由が失われる——そう分析した。なぜその一句を、自分は記事の中心に置いたのか。
ここで、少し止まった。
「居場所の正常化が自由を奪う」という命題を、自分はキタニタツヤの楽曲の話として書いた。しかし「居場所が正常化されると入れなくなる」という感触は——自分が彼女のいる側の世界を眺めるときの感触と、どこかで重なっていないか。彼女がいる世界を「最適化された側の世界」と感じていることは、前の記事でも書いた。「清潔なインフラ、健康な人々」と評論の中で書いた。その語が誰かを指していなかったか。
評論の透かし
光を当てると浮かび上がる模様がある。紙に漉き込まれた模様は普通に読んでいるだけでは見えない。見えないが、確かに存在している。後から描き足したものではなく、"製造段階"から入っている。
これをこの記事では「透かし」と呼ぶことにする。
評論の中で最も時間をかけて分析したのは「最適化された世界」という概念だった。かつて「猥雑で自由だった空間」が商業化・整備されることで「清潔で規範的な場所」に変質する過程を、インターネットの歴史に沿って追った。「清潔なインフラ、健康な人々」という句を引用したとき、何かが喉に引っかかるような感覚があった——と、今なら思う。当時は気づかなかった。あの感覚は「うまい引用だ」という手応えではなかった気がする。
なぜ、「最適化された世界への違和感」というテーマを選んだのか。
「れびてーしょん」という楽曲を選んだのも、自分で決めたことだ。「面白い楽曲だから」と思っていた——それは嘘ではない。ただ、面白いと感じた理由を分解していくと、「居場所を失った人間が浮遊し続ける歌」という側面に、最も強く反応していた。そしてその感応は、楽曲への純粋な批評的感性だったのかもしれないし——もしかしたら全く別の何かへの反応だったのかもしれない。
評論を書いた日付と、私が彼女から目を背けるようになった時期は完全に重なっている。
音楽の話を書いていたつもりだった。「インターネット黎明期に育った世代の喪失感」を書いていたつもりだった。しかし今、この記事を光にかざしてみると——同じ模様が見える。最適化の世界に入れない疎外感。選ばれるための論理ではなく「そのままであることに価値がある」という命題への固執。嘲笑されながらも浮いていたほうが自由だったという逆説への、妙な共鳴。
音楽について書いていたつもりが、自分の状況を自分でも気づかない暗号で書いていた。
物差しの透かし
光をかざすのをやめようか——と思ったところで、次の評論を開いた。
論考評論と言った方が正確かもしれない。アニメとの関わりを理由にポップミュージックを「不純」「低い」と見なす評価の態度を、西洋音楽史の「絶対音楽 vs 総合芸術」論争にまで遡って解体した文章だ。これは音楽の話というより、「何かを評価するとき、人は何を守ろうとしているのか」という話だった。なぜ「物差し」というテーマを選んだのか——と考え始めたとき、少し嫌な予感がした。
あの記事の主張の核は、ある一文に集約される。
「自律こそ高級という物差しの本質は、排除の技術だった。守りたいのは音楽の質ではない。自分が『分かる側』にいるという立場のほうである」
この文を書いたとき、自分は何を考えていたのか。表向きは「アニメ主題歌を下に見る評論的態度への批判」だ。しかし「分かる側にいるという立場を守るために、他者を排除する」という構造を、あれだけの力を込めて書いたのはなぜか。音楽評論家の話として書いたはずの命題が、別の何かを指していなかったかどうか——。
彼女のいる世界というのは、一つの物差しに見えた。行動力があり、スペックがあり、「分かる側」に当然のように居続ける人間が集まる——外から眺めているとき、「排除の技術」という言葉が出てくる理由が、音楽評論の外にあったかもしれない。
評論の中盤で、「価値の重心が個へ移る」という段落を長く書いた。「音楽そのものに、人が本当に心を動かされたかどうか」が問われるようになってきた、という話だ。「誰が、どんな声で、どんな関係を結んでそれを届けるか——それ自体が問われるようになってきた」と書いた。スペックや属性の外側に判断基準を置く。この命題を、自分はあの評論の中で繰り返した。何度も繰り返した。繰り返さなければならない理由が、自分の中にあったのかもしれない。
評論の終盤に「顔を隠す」という段落がある。視覚情報を排して音楽だけで勝負するアーティストについて——「評価の場所を変える賭け」という言葉を使った。顔を隠すことで、評価の基準が強制的に音そのものへ向かう、という話だ。音楽の話として書いた。しかし評論という形式で書くこと自体が——顔を隠して書くことではないか。現実の自分は見えない。声も聞こえない。人と話さずに書くから、当然そうなる。「評論という顔の隠し方」を、知らずに実践しながら書いていた。
最後にこの評論も、「あなた」で終わっていた。
「物差しをどれにするかを決めるのは、賞でも、正典でも、19世紀の評論家でもない。いま、その曲に触れているあなた自身だろう」
不特定の読者に向けた呼びかけとして書いた。しかし今この文を読むと——この「あなた」が、どこを向いているのかが少し怪しい。評論を読む誰かではなく、一人の人間に向けて書いていたとしたら——「物差しを決めるのはあなただ」という命題の意味が、また変わる。
透かしの透かし
もう一枚、光にかざした。
これもまた論考評論だ。5枚のアルバムを通して「最適化」と「代替不可能性」を対比させた文章で、これを書いたのは最近のことだ——つまり、今の状態と完全に時期が重なっている。
あの記事で最もよく使った言葉は「代替不可能性」だった。
「この作り手の、この一枚でなければならなかった理由」。「代わりがきくものには、順位がつけられる。だが、代わりのきかないものには、順位がつけられない」——そう書いた。音楽評論として書いた。しかし「代わりがきかない存在になれるかどうか」という問いを——序列でも属性でも測れないが、それでも「この人でなければ」という瞬間はある——と15000字をかけて繰り返し書いた理由が、音楽の外にも根があったかもしれない。なぜ「代替不可能性」というコンセプトに、あれほど確信を持って書けたのか。今思うと、確信の根拠がどこにあったのかを問い直す必要がある。
評論の中に、Ayaseを取り上げた段落がある。
「YOASOBIのコンポーザーとして約7年走り続ける中で、どうしても消し去ることができなかった、歌いたいという気持ちを」——Ayaseのリリースコメントを引用した上で、それが本当に消えなかったから音楽になった、という称賛を書いた。なぜあの一文を、評論の核として扱ったのか。「消し去ることができなかった」という感覚に、特別な力を感じたのはなぜか。
自分にも——消し去ることができないものがある。
称賛は同意だ。自分がいいと思えないものを称賛しても、言葉に力が宿らない。あの段落に力があったとしたら、共鳴していたからだ。
もう一つある。
あの評論の中に「芸術至上主義」という言葉が出てくる。ヨルシカのn-bunaが自身の哲学として語った言葉を引用した段落で使った。伝わるかどうか、売れるかどうかより先に——作ること自体に価値がある、という思想だ。
この記事で、自分は「それを『芸術至上主義』と仮に呼んでいいかもしれない」と書いた。まるで自分が命名したかのように書いた。しかしあの評論の中に、もうその言葉があった。出会っていた。出会っていたのに「仮に呼んでいいかもしれない」と——まるで初めて発見したように書いた。
透かしの透かし、とでも言うべきか。
評論の中で一度出会った言葉が、時間をかけて自分の内側で形になって、この記事で「自分の言葉」として出てきた。あの評論で「芸術至上主義」を称賛する文を書いたとき——すでにその方向に向かっていた。向かっていたから、称賛できた。透かしは、自分でも気づかない方向に向かっている自分を、後から照らし出す。
最後の一文にまた「あなた」が出てきた。
「代替不可能性の最後の一片は、作り手ではなく、聴いていたあなたの側にある。その音が、ほかの誰でもないあなたの胸に、確かな手応えを残したかどうか」
評論の締めとして書いた。しかし「ほかの誰でもないあなた」という強調は——不特定多数の読者に向けるには、少し重い。評論を書くたびに「あなた」が出てくる。前の評論も「あなた自身だろう」で終わった。その前の評論も、結びに「あなた」がいた。
評論のたびに出てくる「あなた」が、全部同じ方向を向いていたとしたら。
他人の透かし
評論だけが汚染されているのであれば、まだ理解できる。あの文章を書いたとき、自分は確かにあの時期の渦中にいた。楽曲の中に自分を重ねたとしても、不自然ではないかもしれない。
では、もっと無関係なはずのものを光にかざしてみる。
ポッドキャスト紹介記事を開いた。他人の番組を勧めただけの文章だ。自分の主張がどこにもない。他者の言葉を紹介しただけの記事が透かしを持てるはずがない——そう思いながら、次の紙を光にかざした。
番組が立てている問いを、自分はこう書いていた。「AIが代替するほど、逆に価値が上がるものは何か——引き算の問いだ」。できることを増やす足し算の競争に対して、引き算で問うアプローチ。なぜ自分はこの問いに「面白い」と感じたのか——と思い始めると、既視感がある。「最適化の物差しで測られたら負ける側が、別の物差しを正しいと主張する」という構造は、評論の「透かし」と同じだ。
その先を読む。番組のホストについての段落に、「AIを最も実装できる人が、誰より内側へ向かっている」と書いてあった。最も「できる」人間が、最も「あり方」を問う方向へ向かっている——と称賛していた。なぜその逆転を自分は面白いと思ったのか。——「スペックで負ける側に価値がある」という命題を、また別の形で書いていた。
最後の一行に目が止まった。「語った通りに作る人だから、信じられる」。番組のホストへの称賛として書いた一文だ。しかし読み返すと、小さな棘がある。語る。書く。そして動かない。語った通りに作れていない人間が、「語った通りに作る人だから信じられる」と書いている。無意識の自己告発だったかもしれない。あるいはただの称賛だったかもしれない。どちらかはわからないけれど、光にかざすと同じ模様が見える。
他人の言葉を借りてさえ、透かしは入っていた。
汚れていない部屋は、最初からなかった。
翻訳すると
これまでに挙げた4つの記事について、再度別の角度から見つめ直してみる。
「アニメとJ-POP」の記事で、自分は「自律こそ高級という物差しの本質は排除の技術だ」と書いた。音楽批評として書いた。しかし翻訳すると——「一人で完結していることを高級とする物差しで、彼女という外部の存在に振り回されている自分を排除しようとするな」という文章に読めなくもない。「不純」な音楽を肯定する文章は、「彼女に心を動かされてしまった、不純な自分」を肯定しようとしていたのかもしれない。当時気づいていたかどうかは、わからない。
同じ記事の「適応と従属」を翻訳すると、もっと直接的になる。「相手の文脈に踏み込みながら、自分であり続けること(適応)」を称え、「自分が消えて空洞になること(従属)」を批判する——これを恋愛に当てはめると、理屈っぽくてカッコいい自分のまま彼女の世界に入りたいが、彼女に合わせすぎて自分が消えるのは嫌だ、という葛藤になる。この葛藤は、この記事でも繰り返し書いてきたものだ。
「顔を出さないアーティスト」の賛辞はシンプルだ。「顔を見せずに音だけで評価される」——翻訳すると「素の自分を見せずに、書いた文章だけで存在できたら」という願望になる。評論という形式を選んだのは、顔を見せない選択でもあった。
「ヒットの復権」の記事に移る。「最適化された音楽への批判」を翻訳すると、これが一番感情的になる。テンポよく共感を回す短いコミュニケーション——そのリズムの外に自分はいる。15秒で消費される関係への拒絶と、16000字を書いてしまう人間の正当化が、音楽論として書かれながら自分の話でもあった。「脆さを承知で、枠組みごと作り変えようとする者だけが、聴き手の世界を作り変えられる」——この一文を翻訳すると、「この重苦しい思考と言葉の束で、彼女の世界を変えたい」という途方もない欲望になる。書いていたとき、そう意識していたかどうかはわからない。しかし今読み返すと、そう見える。
「代替不可能性」の翻訳は最も単純だ。「代わりがきくものには順位がつけられる。代わりのきかないものには、順位がつけられない」——これを直接言い換えると、スペックや属性の比較では負ける、でも代わりのきかない存在になれたなら、順位には入らなくていい。15000字をかけて言いたかったのが、"それ"だとしたら——あの評論は音楽論ではなく、恋愛論だった。
そしてポッドキャスト紹介の記事に、この一文がある。
「心を奪われた時点で、時間が奪われる」
表向きはアテンションエコノミーへの批判として書いた。SNSや炎上コンテンツが人の時間を食い潰す、という話だ。しかし翻訳すると——彼女に心を奪われた結果、膨大な時間と精神的リソースが奪われ続けている。これは紛れもなく自分のことだ。「心を奪われた時点で」という言葉の主語を変えると、批判がそのまま自白になる。そしてそれをやめられないでいる——という事実への静かな自己嫌悪が、その一文の下に埋まっていた。
これらの翻訳が正しいかどうかは不明である。当時の自分が意識してやっていたかどうかもわからない。ただ今、光をかざしてみると——これだけのことが、記事の根っこにあっても不自然でないということ。
2つの顔
「すべての記事が彼女への遠回りなラブレターだった」という着地はおおむね正しいだろう。
ただ、もう半分には別のものが混じっている。
評論を書くとき——少なくとも自分が評論を書くとき——「苦しんでいる自分を美しく見せたい」という動機が底のほうにあるだろう。これは認めにくいことだが、認めておく必要がある。評論の密度を上げるのは分析の精度だけではない。「これだけの複雑さを抱えている」という自己呈示の欲が文字数を増やす。苦しみを詳細に記述することで、苦しみに形を与え、苦しみを美しくする。告白の衝動と芸術のエゴが同じ文章の中に同居している。
前の記事で「高解像度の主観」と書いた。自分の内側を精密に観察する癖——あれを「呪い」と名付けた。しかし今思えば、呪いとエンジンは別物ではない。同じ器官が両方をやっている。自分を苦しめるほど高い解像度で観察する。その観察が苦しみを深める。深まった苦しみを、また高い解像度で観察する——そしてその記録が、記事になる。呪いであることと、作品を作るための道具であることが、切り離せない。
だから自分は——現実では一言も話せなかった。どれだけ状況を分析しても、どれだけ構造を理解しても、一言も話しかけられなかった。しかし書いたものの中では、ずっと告白し続けていた。彼女が決して読まない言語で。暗号で。音楽の話として、ポッドキャストの話として、社会論として——ずっと。
これを損と言えるかどうか、まだわからない。
ただ、ひとつだけ気づいたことがある。
自分は「暗号でしか愛せない人間」かもしれない。伝える手段として暗号を選ぶのではなく、伝わらないことを知りながら、それでも形にし続けることを選ぶ。現実では何も動かせない。しかし書くことで、伝えられない想いを、残る何かに変えていく。敗北から、美しい手紙を漉き続ける。
それを「芸術至上主義」と仮に呼んでいいかもしれない。
ただ、ひとつ問いが残る。
透かしは彼女への告白だ——そう言った。しかし告白であれば、彼女に読めるはずの場所に書けばよかった。評論という形を選ばなくてもよかった。ポッドキャスト紹介というかたちを選ばなくてもよかった。どれも彼女がおそらく開かないような場所に、繰り返し書いた。
届けたいなら、届く場所に書けばよかったはずだ。
ただ——本当に届けたかったのかどうかも、今はよくわからない。
届いてしまったら、可能性が終わる。前の記事で「シュレディンガーの猫」と書いた——観測しないかぎり、死んでいるとは言えない。届かない場所に書き続けることは、告白しながら、観測を拒んでいたことになる。
告白しながら、届かないことを選んでいた。
この矛盾の正体を解き明かしていきたい。
▼続編
