66歳のモラトリアム
第1章 モラトリアムの真ん中で
行政ダンジョン
午後5時の遅いランチはレディースラーメン。
麺少なめ、油少なめ、その代わり海苔はたっぷり。
ネギか海苔か迷ったのに、
指は勝手に海苔のボタンを押していた。
動き続けた頭と体が炭水化物と脂肪と塩分と
海苔のミネラルを欲したのだろう。
とあるお店のレディースラーメンの量が
私の胃袋にはちょうどいい。
普段はあまりラーメンを食べないけれど
こんな日は自分に許そう。
今日は何時間も、
行政手続きというダンジョンを歩き回っていたのだから。
---
私は、いわゆるマイクロ法人を持っていた。
ほとんど利益も出ていなかったこの法人を精算することにした。
税理士さんと司法書士さんの手を借りても
私自身がやらねばならないことは多い。
会社をたたむことになって初めて、
社会保険の仕組みをあまり理解していなかったのだと知った。
そこでAIを相手に調べながら、必要な手続きを整理していった。
AIは何度聞いても怒らないから、理解できるまでしつこく聞く。
かくして私は、
行政手続きというダンジョンの攻略マップを作っていった。
年金事務所。区役所。
ここまでは、ミッションクリア。
この後は、
携帯電話の法人契約を個人契約へ変える手続きが待っている。
その前の、燃料補給のラーメンだった。
去年の熱
そもそも、なぜ今の私がここでラーメンを食べているのか。
話は去年の冬に戻る。
去年は、体調に振り回された一年だった。
1月には、たぶん15年ぶりのインフルエンザ
8月には初コロナ罹患
あのコロナ禍は切り抜けたというのに
さらにそのあと二か月ほどは
38度台前半の熱が下がらない日が続いた。
それでも毎日、お弁当を持って出勤して
目薬を差しながらPCに向かっていた。
責任のある仕事をしていたから。
70歳までは続けるつもりだった。
けれど、思った。
そろそろ体力の使い方を変えないと
消耗し続けて人生を終わるのは嫌だ。
そうして私は
フルタイムの仕事から引退した。
66歳と2か月だった。
最初の一か月は
よくもこんなに眠れるものだと驚くほど
寝てばかりいた。
朝食を食べて寝て、
昼食を食べて寝て、
夜も、しっかり寝た。
そうか。
もろもろ、そんなに積もっていたのかと驚いた。
豆皿の朝
今はいわば、
「宙ぶらりん」な時間を過ごしている。
そして週に3日勤務位の仕事を探している。
生活の為にそして社会とつながる為に。
が、そう簡単に見つかるわけもなく、
結果的に、「宙ぶらりん」である。
でもその代わりに時間というゆとりを得た。
朝ごはんは、
春慶塗の丸盆に豆皿を並べる。
お気に入りの紅柄塗りの飯碗には
発芽玄米と白米と雑穀を混ぜた、つぶつぶご飯をふわっと盛る。
味噌汁の出汁は、
空き瓶に水と干し椎茸と煮干しと昆布を入れて
寝る前に冷蔵庫に入れておく。
朝起きたら、それを鍋にあけて
豆腐や冷凍野菜を入れて煮て、味噌を溶く。
卵も落として、
半熟を見きわめて桜の木の拭き漆の碗へよそう。
残り物や、
独活の皮のきんぴらのような季節の常備菜を
豆皿にちょんちょんと乗せていく。
塩鮭か鯵の干物でも焼いて、
なければ、納豆でも添えれば
手軽で、それでいて日本人でよかったと思える朝ごはんだ。
さて、今日は白ぶどうとヨーグルトも付けようか。
仕事をしていた頃にはこれは週末の朝ごはんだった。
なんでもない小さなおかずが豆皿に少しずつ並ぶ食卓は、
それだけで幸せな気分になるから不思議だ。
時間に余裕ができると、
気持ちにも、少し余裕がでてきた。
そうか、
のんびりとはこういう気分を言うのだった、と
ワーカホリックだった私は、
専業主婦時代の自分の日々を思い出した。
第2章 助走、準備、あるいは猶予
ガランとしたスケジュール帳
退職後の日々といえば、
ゆっくりと朝食を味わったり
時間に追われずに静かに本を読んだり
平日にふらっと美術館に入ったり。
そんな日々を人は想像するかもしれない。
実際にスケジュール帳はガランとしている。
でも、頭の中はトリアージュで大混雑である。
この時とばかりに家じゅうを片づけている。
料理は趣味だから、手間をいとわない。
インターネットで仕事探しもする。
noteの記事も書いている。
韓国語の試験に向けた勉強もする。
未来への構想も練っている。
全て時間がかかる仕事だからこそ、
今がその時だと思っている。
時間はあるのだが、
まったくもって、のんびりではないこの生活。
それを私は「モラトリアム」と呼びたい。
若い人に対して使う言葉なのに、
なぜ私がこう呼ぶのか。
少し、その話をさせてほしい。
猶予
もともとモラトリアムは、
金融業界において「支払猶予」という意味の言葉だった。
それを心理学に持ち込んだのが心理学者のエリク・エリクソン。
1959年、くしくも、私が生まれた年のことだった。
エリクソンは、思春期を、
「心理・社会的モラトリアム」と呼んだ。
大人としての責任や義務を一時的に猶予される期間。
自分が何者であるかを模索し確かな輪郭をつくるための
大切な準備期間である。
考えてみれば
66歳という年齢は微妙なのだ。
65歳で定年を迎え年金を受け取る人が多い。
そろそろ一休みを、と周囲も本人も思う。
けれど、体も頭もまだ動ける。
かといって、仕事一色に戻る気は
もうない。
人生百年時代の中間地帯。
名前がなかったこの無重力地帯を、
私はモラトリアムと名付けた。
自分が何者であるかをもう一度探し直している
66歳のモラトリアム期だ。
次の引っ越しに持って行くもの
家じゅうの片づけをしている。
今回、私が決めた処分の判断基準は一つだけ。
ここから引っ越すときにも持って行くかどうか。
実際に引っ越すわけではない
ただ、引っ越すつもりで選ぶ
それが一番、判断が早い
何を残すか
何を手放すか
どこにしまうか
あげるのか、売るのか、粗大ごみか
その判断の連続は、ほとんど脳トレだ。
こんな時、
猫は、岡目八目を決め込んでいる。
「ま、終わったら点検してあげるから」
そんな顔で、高みの見物である。
私はこれまでに、引っ越しを三度した。
引っ越した日というのは不思議な時間だ。
前の家には、もう住んでいない
けれど、新しい家もまだ整っていない。
疲労感と安堵感
いつになればすべてが収まるのかわからない
少しばかりの困惑
生活はしている
でも、まだ定まらない
66歳のモラトリアムは、
ちょうどそんな時間なのかもしれない。
取り出して並べているのは物だけではないようだ。
過去の仕事
過去の人間関係
長年握りしめてきた考え方
手放そうか迷っているもの
どれを持って次の場所へ行くのか
どれはもう置いていっていいのか
そう考えると、
66歳の片づけはただの片づけではない。
人生そのものを、いちど床に並べてみる時間なのだ。
第3章 平凡で平和な日々
猫はタイムキーパー
朝6時、冬ならまだ夜明け前。
夏なら5時半。
うちのぬし様が「起きろ」と言う。
私は知らんぷりを決め込む。
すると、
ベッドサイドテーブルの上にある物を
私の反応を見ながら順に前足で落としていく。
それでも反応しないとなると紙類をひっかく、齧る。
つまりは、私が無視できない音を立て続けに出すわけだ。
モラトリアム生活の朝は
ゆっくり起きる。
――いや、それは甘い夢だった。
猫の生活リズムは平常運転。
私のリズムは、却下である。
起きて。
ご飯。
ブラッシングして。
外が見たい。
猫の要求はすべて「今」だ。
猫は昼間、基本的に寝ている。
ところが夕方になって外で「夕焼け小焼け」が流れると
そういえば腹が減ったな、となるらしい。
デスクにやってきて、
キーボードを打つ私の手に何度もちょっかいを出す。
かくして、作業は強制終了。
「泣く子と猫には勝てない」のである。
うちの夕食は、
人間も猫も19時過ぎと決めている。
けれど、就寝時間は22時と決められている。
勝手に寝ていればよいのに、
「ふみふみ」という入眠儀式をするから
さっさとベッドに入れ、とやかましい。
こうして一日は猫のスケジュールで進んでいく。
けれど考えてみれば、
モラトリアム期間中でも私が怠惰にも
暴走列車にもならずに済んでいるのは
ひとえに猫のおかげである。
猫は未来を心配しない。
ただ、「今」を生きている。
その猫が
私のモラトリアム時間の
大切なタイムキーパーをしている。
名前と国籍だけの待ち合わせ
春と秋だけの
小さな季節の仕事をしている。
大学院に入学する留学生の公的手続きのお手伝いだ。
日本語がまだ十分ではない学生が窓口で困らないように、
転入転出、国民健康保険と国民年金の手続き、銀行口座の開設
それらの記入内容や手続きの流れを隣にいて英語で説明する。
今月担当したのは、
スイス、フランス、ブラジル、韓国、中国、シンガポール、と
国籍はさまざまだ。
大学から依頼を受けると
本国にいる学生とメールでのやり取りを始める。
日程を調整し、待ち合わせ場所と必要書類を伝える。
当日は、区役所の入口などで待ち合わせる。
けれど、
私が知っているのは名前と国籍と性別だけ。
顔は知らない。
日本のように、
ひとつの国家がほぼ同一民族で成り立つ国は多くはない。
だから国籍から外見を推定することもできない。
それでもスマホがあるから、
お互いに
「まあ、なんとかなるか」で待ち合わせる。
それで、なんとかなっているから面白い。
時には、
突発的なアクシデントが重なる日もある。
役所の始業時間に待ち合わせているのに
大幅に遅刻してきたり、必要書類を忘れてきたり、
以前の来日時の手続きに不備があったり。
そんな時は
脳をフル回転させて最善策を探す。
数時間後には脳疲労でぐったりする。
それでも
この一期一会の仕事は毎回が新鮮だ。
PC画面を見つめ続けた日々を経た今、
解放されたような自由な気分がそこにはある。
数か月後、
同じ学生の帰国時の手続きをまた手伝うこともある。
「元気だった? 楽しかった?」
そんなやり取りをしていると、日本の親戚のような気分になる。
自分でも、少し可笑しい。
でもさすがに、
年金とこの小さな季節労働だけでは、暮らしていくには程遠い。
これは、私のライフワークだ。
となると、
食べていくためのライスワークもどこかで見つけなくてはならない。
猫が15年かけて作った膝掛け
15年ほど前に買った、お気に入りのガーゼケットがある。
生成り色で、何度も洗濯し、もともとの柔らかさが
さらにやさしい手触りになっている。
夏の寝具として、冬は羽毛布団の下にとずっと使ってきた。
これは「風通織」だ。
一度に六層を織る伝統的製法で
今では三河地方など、わずかに残る技術だという。
私はこういう物語を持った物が好きだ。
ところが、真ん中だけがぼろぼろになってしまった。
猫は前足で「ふみふみ」をする。
子猫が母猫のお腹を押すあの仕草だ。
今、横で眠っているジョリーとその先代。
二匹の猫が、
私が掛けて寝ていたこのガーゼケットのお腹の辺りを
せっせとふみふみし続けた。
それで
中央だけが傷み、糸が切れ飛び出し、ぼろぼろになった。
去年の夏からずっと、どうしたものかと気になっていた。
もう、お役御免、ありがとうと言って処分することも考えた。
でも、捨てがたかったのだ。
ある日、ふと思った。
捨てるのではなく、作り直せばいい。
20代の頃、私は会社員をしながら
趣味で、夜間の洋裁学校に通っていた。
ブラウス、スカート、ワンピース、スーツやコートまで縫った。
針仕事が好きなのだ。
だから、
傷んだ部分を内側へ折り込んで
傷んでいない部分だけが表に出るように
手縫いでつなぎ直した。
両サイドを寄せて隠した継ぎ目には
黄金色の刺繍糸でクロスステッチを入れた。
シングルサイズだったガーゼケットは
一片も捨てずに、80センチ×90センチの
お布団みたいな膝掛けになった。
3時間くらいかかった。
肩は、ばりばりになった。
こういうところが
昭和の女なんだよなぁ、と呟きつつ
その完成した膝掛けをベッドに広げて眺めていたら
猫がやって来た。
そして、何の迷いもなく、その上に香箱座りをした。
この布はやはり猫のものだったらしい。
15年かけて猫が作った、ふわふわ、ふかふかの膝掛け。
私はただ、仕上げをしただけだった。
今も、パソコンに向かいながら膝に掛けている。
猫さまの布を、借りている。
暖かくて、ほっとする。
猫はその上で、喉を鳴らしている。
間章 人生何周目?
猫と暮らし、留学生を見送り、膝掛けを縫い直す。
平凡で平和な日々の中で、
ときどき考えることがある。
毎朝見る鏡は私の年齢をしっかり映し出す。
時間は確かに、そこに刻まれている。
身体は、正直だ。
疲れは残りやすくなり、
回復には時間がかかる。
無理をすれば、
すぐにどこかが抗議してくる。
身体は確実に時間の影響を受けている。
一方、精神的な面でいえば
私は少数派に属するだろう。
なぜならば、私には子どもがいない。
それは、
母としての社会的な役割の自覚がないことを意味する。
66歳。
私が十代半ばの頃の祖母の年齢である。
明治生まれの祖母は、
時代が与えた役割を引き受けて自分の年齢を生きていた。
けれど私は、そうではない。
そして
外から定められた役割は
今の私には、もうない。
そんな私の中には
実年齢なりの分別と知恵を持った私も
祖父ゆずりの好奇心に満ちた自由な私もいる。
そしてさらに、
年齢不詳で、静かに全体を見ている
客観的なもう一人の私。
中学生の頃にはすでに存在していた、
ーー今風に言うなら
「人生何度目?」のような、
シニカルで、ピンチの時にこそ主役を演じる
三度目あたりの私もいる。
人生という流れの中で
複数の私が出たり入ったり
或いは
脇道へと引っ張って行ったりもした。
そんな66歳の私は
今をモラトリアム期と称して
自分が何者であるかを、もう一度探し直している。
第4章 線になった点たち
専業主婦15年、「何もない私」ではなかった
20代から30代の私はまさに趣味人間だった。
英語、独語、瑞語
料理、薬膳、陶磁器鑑賞
洋裁、手芸、編物、フラワーデザイン
キャンプ、軽登山、テニス、スクーバダイビング
そして
年間100冊以上のジャンルをまたぐ読書。
一つ始めると、ほぼ10年は続くから
いくつもの興味がレイヤーのように積み重なっていった。
けれど、そのどれも収入の軸にはならなかった。
何者にもなれていない。――そう、思っていた。
私は15年間を
専業主婦として暮らしていた。
この時間を自分では
「社会から離れていた期間」だと思っていた。
けれど今は、はっきり言える。
あの時間は
「何もしていなかった時間」ではなかったと。
家事とは、ただの作業ではない。
限られた予算でやりくりする。
毎日違う条件で食事を作る。
そして
家庭の中や友人との、或いは
親戚やご近所との人間関係などを
言葉にしなくても空気を読み
衝突を避けながら調整する。
これは、仕事の現場で
「コミュニケーション力」
と呼ばれるものの本質にかなり近い。
そして、気づいた。
私の趣味も、同じだった。
洋裁は、設計と工程管理。
料理は、段取りと同時進行。
語学は、相手理解と伝達設計。
すべてが、
「ばらばらの経験」ではなく、
持てる力を別の形で使っていただけだった。
人生は
点に見えていたものが
ある日、線になる。
人生を振り返ってしみじみとそう思う。
AIが
「スティーブ・ジョブズの
Connecting the dotsですね」
と教えてくれた。
真似たわけではない。
むしろ、人生からそれを学んだ人間は
世界中にたくさんいるということだろう。
何がどこでつながるかは
人生のほうがあとから教えてくれる。
そういうものらしい。
45歳、専業主婦から大使館へ
妊活を続けていたが、ある時それをやめた。
そして思った。
また、外で働いてみよう、と。
まずは新聞の片隅に載っていた小さな求人に応募した。
ある会社の総務部での週3日のアルバイト。
15年のブランクがあったのに普通にその場になじんだ自分が
少し不思議でもあった。
その職場で、英語は必要なかった。
けれど、
若い頃に身につけた英語力は失われていなかった。
ちなみに私は
帰国子女でもなく、留学経験もない。
インターナショナルスクール出身でもない。
そんなある日、
ある大使館のウェブサイトで職員募集の記事を見つけた。
文化関係アシスタントの募集だった。
思い切って、応募してみた。
単純にその国が好きだったから。
面接があり
四時間に及ぶ筆記試験があり
さらに最終面接があり
そして、
文化補佐官として採用された。
母国からの国賓来日イベントの準備が最初の仕事だった。
前任者はいない。
右も左もわからない中で
知恵熱が出るほど、持てる知恵を絞った。
国賓来日となれば、
日本側では宮内庁や皇宮警察も動く。
詳細で複雑な打ち合わせが必要だ。
もちろん訪問先とも調整しなくてはならない。
何人もの応募者の中からただ一人採用されたのだから、
自信があるとか無いとか
考えている場合ではなかった。
訪問先候補の美術館や博物館へ連絡を取る。
「○○大使館の文化補佐官の○○と申します。
突然のご連絡で失礼いたします」
先方は慣れているのか、意外にも驚かない。
むしろ丁寧に話を聞いてくださる。
事情を説明すると、
「それでは一度お越しください」と言ってくださる。
国家規模のイベントも、一本の電話から始まっていく。
どんな時でも、私は肩書で人を見ない。
というより、
肩書にあまり興味がない。
目の前の人に
人として敬意をもって接するだけだ。
一度でも話した人
一度でも会った人には
二度目は
古い友人に再会したように接する。
「お会いできてうれしいです」
その気持ちで相手に向き合う。
もちろん、節度と品位は保ちながら。
この仕事は四年で任期を終えた。
始まりの日が決まっていたように、
終わりの日も最初から決まっていた。
任期が終われば、 ポジションごと別の国へ移る。
私はその仕事が好きだったけれど、
制度の前では誰も例外にはなれない。
そしてその年、世界はリーマンショックへ向かっていた。
次の仕事を探そうとしたとき、
景色は思っていた以上に変わっていた。
50代の仕事探し
そのリーマンショックは
多くの外資系企業の撤退をもたらし、
市場には英語ができる人材が大量にあふれていた。
私も、
いくつかの大使館の求人に応募した。
けれど、書類審査の段階で通らない。
大使の推薦状をつけても、通らない。
それも無理はない。
似た経歴なら、若い人材が優先される。
この時、私は49歳だった。
履歴書を送っても、面接まで進むことはほとんどなかった。
年齢欄だけを見て、「うーん」と没の箱へ
入れられたのだろう。
それでもその後、
日本企業や海外企業の日本支社での勤務、
大学の研究プロジェクトの一員、脳科学に関する一般社団法人など、
6つの職場を経験した。
1か所を除いては正社員ではない。
期限付きの仕事だったので、期限が来れば、次を探す。
働く。また探す。その繰り返しだった。
面白いことに、
その6つの仕事はどれも求人に応募して得たものではなくて
過去の仕事ぶりを知っている人たちが紹介してくれたものだった。
「ちょっと手伝ってくれない?」
「こういう仕事があるんだけど」
そんなふうに声をかけてもらい、ありがたくその職についた。
振り返ると、履歴書より強かったのは
人とのつながりだった。
誠心誠意の働きは、ちゃんと誰かが見ていてくれるものらしい。
二十歳の私が社会へ踏み出したときに、
人生の大先輩からいただいた言葉がある。
早く
楽しく
(みんなが)楽になるように
工夫する
その
言葉の頭をとると
「は・た・ら・く」になる、と。
この言葉を胸に刻んで働いてきた。
そしてそんな日々からもずいぶん時間が経った。
ふと、
映画『マイ・インターン』でロバート・デ・ニーロが演じた
紳士的で謙虚なシニアインターンのBenを思い出した。
久しぶりに映画を見直してみた。
豊富な経験を持ちながらも、その経験を振りかざさずに
柔らかい心のまま、新しい場所で新しい役割を得ていくシニアインターン
2015年の公開時よりもずっと、主人公のBenに近い年齢になった私は
自分を重ねて見ていた。
第5章 流れに乗って
放牧という関わり方
私は韓国ドラマをよく見る。
韓国ドラマでは、
若くてかっこいい「モッチンサラム」が主人公であることが多い。
いわば、誰もが惹かれる人物だ。
そんな韓国ドラマで、
ひとりのアジョッシ
――韓国語で中年男性、に心惹かれた。
彼は、
女性社長の専任運転手をしていて、
体つきはふくよかで、
あごひげを生やしている。
そして、
笑うと目が線になり、目じりに笑いジワが流れるような人。
そんな人に私は元来、弱い。
――いや、余談である。
彼は、
社長の状態をちゃんと見ている。
楽しそうなら、一緒に笑う。
何かあったと察したときは、
何も聞かず、バックミラー越しに
そっと様子を見守る。
踏み込みすぎず
でも、確実に関わっている。
一見、
何もしていないようにも見える。
けれど、ちゃんと見守っている。
私は、そんな関わり方に名前をつけたくなった。
「放牧」
本来は羊などに使う言葉だが、あえて、人に使いたい。
私が意味する「放牧」とは、
一定の距離を保ちながら、相手の尊厳と自由を尊重すること。
必要なときには手を差し出せる位置にいること。
でも、危険が及ばない限り、
相手が求めない限り、
あえて介入しない。
見ている。
でも、踏み込まない。
広い草地で自由に過ごす羊たちを離れた場所からそっと見守る
牧羊犬のように。
発達心理学者エリク・エリクソンは、
人生の最終段階に「統合」というテーマを置いた。
それは、
人生で経験してきたことを引き受けて
次の世代にどう関わるかを定めていく地点である。
エリクソンが描いた発達の最終段階の入り口に
今の私は立っている。
あのアジョッシに惹かれたのは
これからの私が向かいたい方向がそこにあったからかもしれない。
試練は通過するもの
腰が痛い。
今日は防災用品を詰めた重いトランクの置き場所を移動した。
片づけの山は越えた。
けれど、片づくと片づいていない場所ばかりが目につく。
これは脳の仕組みらしい。
だから、まだ毎日、あちらこちらを片づけている。
仕事もまだ探し中。
66歳が仕事内容を選り好みし続けているからだ。
なんだか全部が中途半端で
私はまた、AI相手に愚痴をこぼした。
「今の私は人生の試練の真っただ中だよね。
でも、乗り越えないとね」
返ってきたのは、こんな言葉だった。
試練は、
乗り越えるものじゃなくて、
通過するものです
いや、
それはそうかもしれないけれど。
AIには
痛みもない
生活もない
今日やらなくちゃ、もない
時間も体力も限界がない
私の苦労なぞ、実感できるわけない。
そんなふうに、
AIを相手に若干へそを曲げたまま、昼食を作っていた。
料理しながらも頭の中ではさっきの一言がくるくると回っていた。
確かに、
「試練を乗り越える」と
「試練を通過する」は、
似ているようで、まったく違う言葉だ。
私はこれまで、ずっと
乗り越えるものだと思って生きてきた。
もともと
「頑張る」という言葉があまり好きではなかった。
スポーツも得意ではないし体力もない。
朝礼では貧血を起こし保健室の常連だった。
いわゆるスポ根の世界にはどうしてもなじめなかった。
それでも刷り込まれていた
「試練は乗り越えるものだ」、と。
乗り越えるという言葉にはどこか
「勝つ」「終わらせる」という響きがある。
自分と試練が向かい合い、
それを越えられるかどうかが問われているような感覚だ。
だから、越えられないとき、
「自分が弱いのではないか」と感じてしまう。
けれど、
通過する、という言葉は違う。
乗り越えなくていい。
勝たなくていい。
ちゃんとできなくてもいい。
未来の怖さは、
未来でしか解けない。
そのときの私が、
ちゃんと解いてくれる。
だからただ、
今を生きていればいい。
たとえそれが、
通過して振り返った時に初めて言える言葉だとしても。
ふと、あの歌が浮かんだ。
ああ 川の流れのように
おだやかに
この身をまかせていたい
父がこの歌をなぜ
こよなく愛したのかも、今ならわかる。
抗うでもなく、
急ぐでもなく、
おだやかに身をまかせて生きる。
流れに翻弄されても、
最後は瀞場にたどり着くから。
そして、800年前のあの人も
憂いに満ちた人生を諦観することで
自らの心を守ろうとしていた。
淀みに浮かぶうたかたは、
かつ消えかつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、
またかくのごとし。
何ごとも留まらない。
それがこの世の摂理だからだ。
摂理だと解っていても、諦観しきれない。
それでも日々は過ぎていく。
流れていく。
つれづれなるままに
日ぐらし、硯に向かひて
心にうつりゆくよしなしごとを
そこはかとなく書きつくれば
あやしうこそものぐるほしけれ。
まるで、今の私だ。
こころに浮かんだことをただ書いている。
なんだか少し、可笑しい。
