【創作大賞】『ことばにおとを』第1話|君がくれた、祝福と呪いの言葉
【あらすじ】
「他人の死に、芸術的陶酔を覚える」
――悍ましい認知の歪みを隠し、“優しい善人”を擬態して生きる林道直人。大学進学を控え、彼は余命一年の天才フルート奏者・結野栞と再会する。 彼女を救いたいという善意。だが栞が求めたのは救いではなく、直人の狂気を全肯定し、自らの死を彼の「最高傑作の燃料」にすることだった。命を削る決死の演奏で、直人に一生モノの愛を刻みつけた栞。 なぜ彼女は、血を吐いて笑ったのか。
喪失。孤独。罪悪感。感情の矛盾。人の死すらも道具にする表現者の深淵。 抱える自己愛の果てに、直人がある人に見せつけた「異常な微笑み」の真実とは。

【プロローグ】
血に濡れたフルート。
消えゆく音。
茜色に染まる川を、雲が泳ぐ。
夕陽に潜む影を吹き飛ばすほどの、君のまばゆい笑顔。
夜を輝かせるほどの、君の覚悟。
迫る夜は、もう怖くない。
震える体を支える、君の気高い心。
固まっていく、僕の心。
銀に映る私の顔。
音の先の姿を見抜く、あなたの澄んだ瞳。
世界の煌めきを、真実を映す、あなたの瞳。
瞳から心を通して紡がれた、気高い言葉。
温もりに満ちた、あなたの横顔。
あなたと交わした、最後の笑顔。
僕と出会わなければ、君はもっと安らかに生きることができたのだろうか。
ずっと感じていた、澄んだ音の中に混じる悲しげな音の余韻。
もっと早く気づいていたら、もっと早く自分と向き合っていたら、君との時間にたくさんの花束を添えられたのだろうか。
思い出の煌めきが強いほど後悔の刃が研ぎ澄まされて、体を今にも貫こうとしてくる。
血塗られたフルートを、君の笑顔を、僕は生涯忘れない。

第一章 独奏曲
僕は欠陥品だ。
本音を曝け出すことが、ただ怖かった。
均一にはめ込まれた正方形の窓から、温和な陽光が差し込んでいる。
普段は教員の会議室として利用されている部屋で、ひっそりと椅子に座り担当教諭が来るのを待っていた。高校を卒業しようとしている今でも、本性を胸のうちに隠したままだ。
ーーすべての始まりは、母さんと手を繋いで歩いていた幼少期のこと。
買い物の帰り道。横断歩道を渡り終えた瞬間、突如鳴り響いた異常な音に耳が震えた。
音の方に視線を向ける。アスファルトに伸びた赤い筋と、辺りに散らばった鉄やガラスの破片と、恐怖を孕んだざわめきがその場の凄惨な光景を縁取っていた。
バイク事故。
倒れていた男が、口をぱくぱくさせながら、震えながら起き上がる。
その顔は、血まみれだった。
母さんがすぐに僕の目を覆って、目の前の薬局に入った。
幼児が目にするにはあまりに衝撃的で、怖い光景だっただろう。
けど、違う。僕は違った。
ーー人の血に、壊れていく命に、一種の美しさすら感じてしまった。
あの光景が、何年経っても強烈に瞳の膜に張り付いている。
悲しさはもちろんある。怖さも。でも、そんな異常な感覚が、確かに自分の心の中に存在する。悲しみと陶酔。概念は矛盾しているのに、矛盾なく自身の中に在る。
生きていく中で、他人から優しい眼差しを受けるたびに、その異常性を思い知った。
ーー抑えつけないと。
両親にも友人にも、誰にも言えるわけがない。
気を張って心に沈ませた”本音”は、文字で密かに表現すること以外に吐き出す方法がなかった。虚構であり、静かで味のない音が佇む中で、僕は過ごしていた。
「ねえ、いつもノートになにをかいてるの?」
小学二年生の春、遠足の班決めの時間だった。 机を合わせた途端、隣の席の結野栞が、ひそひそ声で僕の顔を覗き込んできた。
心臓が跳ねる。 物語を書くときは、教科書を開いて片方のページを少し浮かせて、壁にして書いていたはずだった。見えているはずはない。なぜばれているのか、不思議だった。
「いつも、本もよんでるもんね。たのしい?」
ぎこちない動きで頷く。 この出会いが、波風を立てないようにと矯正した僕の心に生まれた、最初の、そして最大の嵐の予兆だった。
「へえ。こんどたくさん、おはなし聞きたいな。それで、なにをいつもかいてるの?」
「もの、がたり」
結野さんは活発をそのまま体中にはめ込んだような子だった。習い事なのか、常に小さな楽器ケースを持ち歩いていて、充実という名の空気が周りでいつも踊っていた。
つまり、毎日教室の隅で本を読んだり、隠れてノートの端に物語を書いているような僕と、互いの点が重なるはずがなかった。
だからこそ話しかけられた時は驚いたし、状況をなかなか理解できなかった。
お互いにひそひそ声だったけれど、結野さんは興味津々と言いたげな面持ちで、その表情はとても輝いて見えた。
「え、ものがたり? すごい!」
「ぜんぜん、すごくないよ」
少し潤みを帯びた、綺麗な黒目が僕を見つめる。ちょうど先生から、「そろそろ終わるよー」という号令がかかった。結野さんは「すごいなあ」と言いながら、何事もなかったかのように、僕を含めたメンバーに笑顔で挨拶を済ませ、そそくさと机の位置を直し始めた。
この数分間の出来事は夢のような瞬間だったけれど、それは結野さんへの好意とかそういうものではなくて、初めて人として認められたような、そんな安心感だった。
その日の放課後、いつものように静かに帰り支度を済ませ、昇降口で外履きに履き替えて歩き出そうとした時、結野さんの声が僕の背中を掴んだ。
「ねえ!」
咄嗟に振り向くと、彼女はさっきと同じ潤みを帯びた瞳で、微笑みながら僕を見つめていた。
「どうしたの……?」
「いっしょに帰ろ!」
普段の自分なら確実に断っていた。緊張なのか恥ずかしさなのか、何かに操られているかのように黙って首を縦に振った。
集団下校以外で同級生と一緒に帰ること自体が初めてで、不安しかなかったけれど、結野さんがひたすらに質問をしてきたのでその不安はいつの間にか消えていた。
僕の名前が林道直人だから、「りんくんってよぶね!」と最初に言われた時は本当に恥ずかしくて、顔が熱くなったのを覚えている。初めて味わう親しみへの嬉しさ。照れながらも、それもすんなりと受け入れることができた。
「お話をかけるなんですごいね! どうしてそんなことを思いつけるの?」
「す、すごくないって。ただ本をよんだり、歩いてたら思いつく」
結野さんはどんどん声を強く弾ませて、時折僕の顔を嬉しそうに覗き込んでくる。その度に顔をそむけたのに、彼女は全く折れなかった。
「すごい! ほんとうにすごい!」
「だ、だからすごくない。ただのことばだよ」
その発言に、結野さんの心の中で何かが引っ掛かったのか、突然歩みを止めて僕の前に立って、右手を勢いよく差し出してきた。
「な、なに?」
「すこしだけでいいから、りんくんがかいたもの、みせて」
有無を言わさぬような真剣な面持ち。焦燥が体中を駆け巡り、額に汗が滲んだ。書いた物語を見せて、万が一にも本性を知られたら生きていく場所を失う。なのに、眩しいほどに煌めきながら相手の心をまっすぐに見つめてくる結野さんの瞳のせいで、自分の感覚の全てが絆された。「う、うん」と言いながら、ランドセルをまさぐっている間も、彼女はその真剣な視線を僕から外さなかった。
「は、はい」
渡したのは、ノートの切れ端ではなくて、本格的に物語を書いているB五サイズのリングノートだ。
後にも先にも、そのノートを見せたのは結野さんだけだ。本格的といっても当時のレベルではという意味であり、たどたどしい平仮名と漢字の組み合わせで綴った文章は、文法も何も整っていない。
有り体に表現すれば、意味のない言葉がただ並べられているだけで、物語の形を成していなかった。今の自分が見返しても、その拙さに思わず笑ってしまうほどだ。
小学一年生の後半、中休みにノートに物語を書いている時、クラスメイトの数人に見つかって、「うわ! もじなんてぽちぽちかいてるー!」と揶揄われたことがあったから、誰にも見せたくないと心に強く思っていた。内容を理解されなくてよかった安堵もあったけれど。
誰かに理解してほしい。でも、理解されるのは怖い。矛盾に満ちた願い。
けれど、結野さんにだったら、見せても大丈夫かもしれない。そんな期待から湧き出た行動だった。
「ありがとう!」
結野さんは真剣な面持ちを崩して、満面の笑みでノートを読み始めた。
刹那、瞳に映る世界が色めきたった。ノートから言葉が浮かび上がってきて、彼女の周りで浮遊している。時にぶつかり、時に回り、夕照に照らされて輝きながら踊る言葉たちからは、耳をすませば音が聞こえてくるようだった。
時間にして数分間だろうか、結野さんはノートを閉じて僕を凝視した。その瞳は、果てもなく澄んでいた。
「やっぱりすごいね! りんくんのかいたものがたり、大人になったらもっとたくさんよんでみたいなあ」
素直に嬉しかったのに、顔を赤くすること以外に上手にその喜びを態度で表現できない自分が情けなかった。
「だ、だから、ただのことばだよ……」
俯く頭に強烈な圧を感じてすぐにまた顔を上げると、結野さんがムッとした表情で睨んでいた。学校で見たこともない、彼女の表情。そしてその後彼女が僕にくれた言葉が、今でも胸のうちで陽気に歌っている。
「わかった! きみのことばにおとをあげる!」
理由なんて具体的に説明できないし、したくもない。ただその時、人生で一番、幸せな瞬間だった。

結野さんはそう言うと、慣れた手つきでケースからプラスチック製の子ども用のフルートを取り出した。歌口に唇を添えて、目を閉じる。少しだけ体が上下に動き、緩やかに音を奏で始めた。
夕日を飾る涼やかな音色。
空気を震わす音の伸び。
時折、目を見開いては閉じる。
音を味わっているような、恍惚とした表情。
聴いたことがないメロディだった。恐らく即興で作ったのだろう。その後の実績を考えても、間違いなく、結野栞は天才だった。
一分程度の短い演奏だったのに、僕の目に映る光景は瞬く間に変わった。日常の何もかもが、今、産声を上げたかのような澄んだ光を放っている。そして僕の拙い言葉たちがまた結野さんの周りに浮かび上がって、互いに向かい合い歌っているかのようだった。彼女の音から、あの時見た血塗られた男の顔とは別の命の生々しさを感じて少し不安もあったけれど、自分にも、この情景が煌めいて見えることが嬉しかった。
最後の音がフルートから自然にこぼれ落ちて、その余韻が優しく空気を切った。
目に映る光は無くなり、日常に艶やかな潤みが残る。
結野さんは目を開けて、僕に微笑みを向けた。
「どうだった?」
「す、すごすぎて、なんて言えばいいのかわからない……。周りの植物とか、家とか、みんなが元気に歌ってて、楽しいって言ってるみたいだった。それに……、結野さん、なんだか、少しだけ悲しそうにも見えたし、嬉しそうにも見えた」
下手な感情表現に苛立つこともなく、結野さんは嬉しそうに頬を赤らめ、また顔一杯に微笑んだ。
「ありがとう! でも、これはりんくんのおかげだよ!」
アニメで名探偵が犯人を当てた時のように、結野さんは思いっ切りに僕を指差した。何を言っているのかがわからず、呆けた顔をするしかなかった。彼女は嬉しそうに言葉を続ける。
「きみのことばを、音で歌ったの。きみの、りんくんのことばは、とってもすてきなんだよ」
急に言葉のトーンを落として、そよ風に乗せるように結野さんは言った。
僕はこの日の情景を、命尽きるその瞬間まで忘れることは絶対にないんだろうなと、確信していた。
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