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#7 ちりぬるを

四十九


 目の前に広がる町は、都市返還の祭りに浮かれている。

 いま、私は香港にいる。

 今回、看護協会の仕事でここに来ている。
 イギリスからこの国が、中国に返還される祭典。
 このイベントに日本の医師会、看護協会、医療技師会などの医療関係が招待されたのだ。

 日本の中でも政治に対して大きな力を持つ圧力団体であるこれらの会は、今や海外からも一目を置かれている。
 医師、看護師、医療技師などが集まるこの会は、かれこれ百年以上続いているといわれている。
 歴史も深く、会の総資産は、貧国一国を優に超えるものとなる。

 そうなれば日本だけでなく、海外での発言力は強いことも想像できるであろう。
 こんなことからも、世の中がお金と地位で形成されていると改めて気づかされる。
 なんとも世知辛い。

 そう思う私は、あと一年で五十歳を迎える年になっていた。



 仕事に復帰してからあっという間に十年間という時間は流れていった。
 看護学校の講師を数年務めた後、乾さんの推薦もあり市立病院の看護部長を私は務めた。

 同時に地域の看護協会の会長として指名され、三年務めた後、霞が関で医療行政を行うこととなった。
 今でいう厚生労働省。
 なんとも復帰後に、短期間で出世をしたものだと我ながらに思う。
 
 今回は、香港の返還の祭典に官僚として、看護協会の代表として、参加しているのだ。
 


「おい、山中~! とりあえずある程度挨拶を済ませたら、買い物行こうぜ、買い物~!」
 この場所にまったく似つかわしくない、抜けるように明るい声が飛んでくる。
 まったく。
 五十歳目前なのにこの緩さは、彼女が未婚のままであるからであろうか。
 そんないつまでも変わらない、のんびりとした雰囲気に私の頬が緩む。

「江国。いま、式典中。もうちょっとしっかりしなさい。そんなんじゃ、日本の代表として舐められるわよ」
 私は、そういうと、江国のおでこを人差し指で「トンっ」と小突く。

「って~な~。わかっているよ。だけど絶対に買い物行くからな。香港だとエルメスが安く手に入るんだ」
 まったく緊張感がない。
 まあ、こういうところが江国のいいところなのだが。

 江国は、私の後任として市立病院の看護部長に就き、その手腕をふるっている。
 併せて看護協会の首都圏支部長を担うことになった。
 彼女のハッキリという性格がどうやら受けているらしい。
 だが、この緩さだ……。
 もうちょっと自分の職の重みを感じてもらいたい。
 看護協会の首都圏支部長という大きな任務の上、彼女は今回の祭典にも参加しているのだ。

「まあまあ、二人ともピリピリしないで、こんな会はさっさと終わらせて早く、夜の香港に繰り出すわよ~!」
 艶めいた声が後ろから聞こえる。
 ああ、緊張感のない奴がもう一人いた……。
 いや、コイツの場合は、開放感だろうが。

 相変わらずの美しさに先ほどから、周りの目が刺さっていることも本人は楽しんでいるのであろう。
 仲間の中でもっとも美しく、聡明な、泉だ。
 年齢とともに衰えるのではないかと思っていたが、さらなる妖艶さをまとった彼女は若さをしのぐ本当の美貌というものを手に入れた。
 これでは宮本君が心配なのも頷ける。

 泉は宮本君と結婚し、二人の子供をもうけた。
 泉のその美しさから男性の噂は絶えなかったが、宮本君がどうやらゴリ押しし、結婚を迫ったらしい。
 泉も泉で、その迫力に押され、宮本君の提案を受け入れたそうだ。
 宮本君は結婚後も束縛が強く、出かけるたびに「誰と、どこに、何をしに?」と質問攻めを受けるらしい。
 愛情なのか、独占欲なのかはわからないが、泉は、げんなりしているとのことだ。
 まあ、愛情のカタチは人それぞれ。
 泉もその愛のカタチに、半分満足しているようにも思える。 


 彼女は、今、隣のK市立総合病院の看護部長をしている。
 江国の推薦もあって、もちろん看護協会の副支部長をやらされている。

 どうやらこれを言い訳にして泉は江国と食事をしたり、旅行に出かけたりしているという。
 まったく、悪友というのはこういうやつらのことをいうのだろう。
 私にはその飛び火が今のところはないが、今後ないとは言えない。
 やれやれだ……。
 問題ごとに巻き込まれるのはごめんだ。

「泉は何を買うつもりなんだ!?」
 江国が泉に駆け寄り何かを話し込む。
 そんな若い頃となにも変わらない風景に私は再度、頬を緩める。


 五十歳を目前にして看護学校時代の仲間が集まる機会を得た。
 私たちの青春時代といってもいい時間を過ごした仲間がいつの間にか、この狭い看護師の世界では有名人になっている。
 こんなことになろうとは、あの頃の私たちは思いもしなかった。
 今、ここにいない井田も多分、こんな私たちを見たらあのお姫様のようなつぶらな瞳を目いっぱいひらいて、クルクルと回りながら大声で笑っただろう。
 


 井田は今、病院にいる。
 あんなにかわいい顔をしているにも関わらず、付き合う男はみなクズを絵にかいたような男たちばかりだった。

 井田は給料のほとんどをそんな男たちに貢ぎ、そののち、捨てられた。
 そんな井田は、仕事に集中する以外はなかった。

 趣味と言える趣味もないままに、ただ仕事に向き合った。
 その成果もあり、四十五歳という最年少で看護学校長に就任した。
 私たちの中での出世頭といえるだろう。



 だが、人生とは非情なものである。
 学校長就任二年を記念する講演中に井田は突然倒れ、病院に運ばれたのだ。

 クモ膜下出血。

 緊急の手術をするも井田は、右半身に障害が残ることとなった。
 リハビリにかなり力を入れていたとは聞くが、ここで家族がいないことがネックとなる。
 人とのふれあいの頻度が一気に落ちたことで、身体だけでなく、心が疲弊していったのだ。

 入院後に私たちも足しげく見舞いに通ってはいたのだが、どうしても頻度は限られたものになる。
 病院内で他の患者さんや看護師、医師とのコミュニケーションをとっていたのだが、看護師という職業柄、自らをさらけ出すことは少なくなった。

 当然のこと、井田は他社とのコミュニケーション頻度は少なくなり、リハビリを行う理学療法士、看護師意外とは口を利くことは少なくなっていった。


 寂しさの中での入院は、孤独と虚無感を加速させる。
 これがある症状に拍車をかけた。

 若年性認知症である。

 
 現在では、女性の平均寿命は八十七歳と厚生労働省が発表しており、六十代はまだまだ若いとの印象が強い。
 病理学的には六十五歳以下での発症は若年性認知症と定義されており、井田はまさにこれに該当する。

 家族や親族がいない井田は、病院にいれる期間はあと少しだけであり、今後はサービス付き高齢者向け住宅(いわゆるサ高住)への移住が決まっている。

 その手続きは、同じ独り身である江国が手伝ったとのことだ。
 今後、井田は静かに施設で過ごしていく。
 その中で、柔らかに私たちを忘れていく……。
 そんな冷たい現実だけが、私たちの目の前に突き付けられる。


 そして。

 ……数十年後には、親友の江国もそういった状況になるかもしれない……。


 私は思う。
 私たちの人生とはいったいなんなのであろうか……。と。

 患者様のために、
 お給料をもらうために、
 後輩を育成するために、
 社会のために、
 その身をささげ、働く。
 人によっては配偶者を得ることもなく、ただひたすらに。

 しかし、最終的には一人、老いさらばえていく。

 人の命に係わり、人の生死に立ち会うことが多い仕事であるからこそ、人生とはいったいなんなのだろうか。と、考えてしまう。
 

 私たちはなんのために死に向かって生き続けていくのだろうか。


 香港が解放され、祭りに沸く街を私はそんなことをボウっと思いながら街を見下ろす。

 
「山中! 山中は何を買うつもりなんだ!?」
 江国が満面の笑みでそう叫び、抱き着いてくる。
 まったく、いつまでそんな話をしているのだか。

 もう、来年は五十歳。
 私たちはなんのために生まれ、どんな命題を背負っているのだろうか。

 江国にこんなことを聞いたら、
「そんなことを考えることすら無駄!! 今を楽しむことだけを考えるんだよ!」
 といわれてしまいそうだ。


「だから、何買うんだよ!」
 江国がしつこく食い下がる。
 私はその姿にフフッと口の端を上げる。
 まあ、こういう生き方もアリなのかもしれない。

 泉のことをしっかりと見る面倒見の良さといい、江国は江国で、きちんとした死生観や人生観を持っているのかも知れない。
 もしかしたら人生に対してしっかりと、考えている可能性だってある。
 その明るさはすでにいろいろと考えたうえでのものかもしれない。

「ええ、うちの白に、エアーマックスの最新版を買ってあげるつもりよ」
 私は今までの考えを振り払うように、全力の笑顔で江国に返答し、抱きしめた。
 


 五十歳は論語にて、孔子は「知命(ちめい)」と称している。
 天命、つまり自分の運命・使命を知るということだ。

 ここまでの人生において、そのほとんどを看護師として、教育者として私たちは過ごしてきた。

 最近ではこれこそが私の使命なのかもしれないと思うことが多々ある。
 だが、私の他にとって他の選択肢、人生があったとしたら、どのような生き方をしていたのだろうか?

 ただ、流されるように生きてきた私の腕の中には数多くのものがある。
 看護師としての道、
 友人たちとの出会い、
 雄さんとの結婚、
 手がかかり、口やかましいが可愛い子供たち、
 そんな幸せがいっぱいに溢れている。

 だが、『そうではない、違う人生』を選んでいたら、私の「知命」は異なったものになったのであろうか?


 先日、女性としての機能が停止したことを知った。
 これまでは煩わしく、女性であることをまるで「忘れるなよ」と突きつけられているように思っていたのだが、当たり前のようにあったものが無くなってしまうのは、自分の中の一つが欠損してしまったようでどこか物悲しい。

 これからの私は、女性ではなく、一人の人間という生物として生きていけるようにも感じる。

 それが、いい、悪いではなく、ようやくに自らの足で立ち、しっかりと生きていくような気がする。

 それが、本当の意味での「知命」なのかもしれない。

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