「お笑いは流行ってない」は、本当だった
「お笑いは流行ってないです」
ダウ90000の蓮見翔さんがそう言い始めたのは、2025年の終わりごろだったらしい。
最初はテレビの中の、ちょっとした一言だったと思う。
でもこの発言、思った以上に長く尾を引いた。
千鳥がMCを務める番組では、この説をわざわざ検証する企画が組まれ、街頭インタビューの結果に千鳥の大悟さんが「わしらは何をしてるんや」と落胆するほどの結果が出たらしい。
その後も別の番組で、蓮見さんと劇団ひとりさんが「流行っている・流行っていない」で言い合いになるなど、この話題は業界の中で何度も蒸し返されていった。
芸人本人たちが、何度もこの話をしたがる。
それだけ、この一言には何かを言い当てている感覚があったんだと思う。
私自身、この発言を最初に聞いたとき、素直に「たしかに」と思った。
でも同時に、「お笑いが流行ってない」というより、もう少し違う言葉のほうが近い気がした。
いま流行っているのは、たぶんお笑いではなく「喧嘩」だ。
優勝しても、まだ「これから」と言われる
まず、具体的なところから見てみたい。
M-1グランプリという大会がある。
優勝すれば賞金1000万円、決勝はゴールデンタイムで全国放送。優勝が決まった瞬間、テレビ局からの出演オファーが事務所に殺到すると言われている。
とはいえ、優勝がそのまま「売れる」に直結するとは限らない。
たとえば、2025年のM-1で優勝した「たくろう」さん。
優勝から時間が経ったあとに発表された『2026年ネクストブレイクランキング』のお笑い部門で、このたくろうさんが1位に選ばれている。
これ、よく考えると不思議なことだ。
すでに優勝しているのに、まだ「これからブレイクが期待される人」という扱いのまま。
過去を振り返っても、似たような例はある。
漫才の実力自体は高く評価されながら、優勝後にトーク番組への対応でやや苦戦し、その後の露出が続かなかったコンビもいた。
つまり、優勝という結果と、その後テレビに出続けられるかどうかは、まったく別の話になっている。
「笑いの実力」だけでは、席が埋まらない
なぜこんなことが起きるのか。
一つには、テレビというメディアが求めるものが変わってきているからだと思う。
昔のバラエティ番組は、極端に言えば「面白い人が、面白いことをする」だけで成立していた。
でも今は違う。
トークでも回せて、コメントも出せて、ある程度キャラクターとしても立っていて、SNSでも話題になる。
一つの技術に特化しているだけでは、埋められる枠が少なくなっている。
これは、テレビの予算そのものが減ってきていることとも関係がありそうだ。
一つの番組に、専門性の違う出演者を何人も呼ぶ余裕が、昔ほどない。
だとすれば、一人で複数の役割をこなせる人のほうが、単純に使いやすい。
ここで面白いのが、もともと「専門の枠」を持っていなかった人たちの動きだ。
タレントやアイドルは、芸人のように「お笑いの枠」が最初から用意されていたわけではない。
だからこそ、どんな枠が空いても入れるように、マルチに対応できる準備をしてきた人が多い。
結果として、空いた枠をマルチにこなせる人が埋めていき、それが次の仕事にもつながっていく。
芸人が一つの技を磨いている間に、隣の畑から「なんでもできる人」が増えていった、というのが今の構図に近い気がする。
「お笑い芸人」だけが、笑いを提供していた時代
ここで、もう少し根本的なところまで考えてみたい。
そもそも「面白いこと」「笑えること」自体は、昔からずっと存在していたはずだ。それがなくなることは、たぶんこの先もない。
ただ、昔は笑える場所の種類が、圧倒的に少なかった。
テレビか、劇場か。
だいたい、そのどちらかでしか、「笑い」を専門的に届けてくれる人には出会えなかった。
だからこそ、「お笑い芸人」という専門職が、はっきりとした価値を持って成立していたんだと思う。
でも今は、笑える場所がどこにでもある。
YouTubeにも、Instagramにも、Xにも、ふとした投稿でくすっと笑える瞬間がある。ニュース番組の中でさえ、出演者のちょっとしたやり取りが面白かったりする。
業界人であるというだけで、「面白いコメント」や「気の利いた一言」が求められる場面も増えた。
そもそも人は、面白い人のまわりに集まる。これはお笑いに限った話ではなく、ビジネスの世界でも同じだと思う。
つまり、「お笑い芸人」というラベルのついていない、お笑い芸人的な人たちが、いたるところに増えた。
芸人という専門職だけが笑いを提供していた時代から、誰もが多少なりとも「面白さ」を求められ、提供できる時代に変わった。
これが、「お笑いが流行ってない」ように見えてしまう、一番の理由なんじゃないだろうか。
芸人が面白くなくなったわけじゃない。
まわりのレベルが上がりすぎて、専門職としての突出さが、相対的に見えにくくなっただけだ。
私自身、わざわざ「お笑いのため」に時間を使わない
ここで、少し自分の話をしたい。
正直に言うと、私自身、「お笑いを見るために」テレビをつけたり、わざわざ劇場に足を運んだりする機会は、そう多くない。
でも、それは「お笑いが嫌いだから」でも「面白くないと思っているから」でもない。
単純に、笑える瞬間が、生活のあちこちにすでに転がっているからだと思う。
なんとなく開いたSNSのタイムライン。作業しながら流しているYouTube。友人とのちょっとしたやり取り。
どれも、専門的な「お笑い」ではないけれど、確かに笑っている瞬間がある。
「お笑いのためだけに」時間を確保しなくても、日常のあちこちで、すでに笑いの欲求が満たされてしまっている。
これは、たぶん私だけの感覚じゃない。
同じような感覚を持つ人が増えたからこそ、「劇場に行く」「わざわざお笑い番組を見る」という行為の優先順位が、相対的に下がっているんだと思う。
蓮見さんの街頭調査で、思った以上に「お笑いが流行っている」と即答できなかった人が多かったのだとしたら、それはたぶん、こういう構造のせいだ。
お笑いが嫌いになったわけでも、面白くなくなったわけでもない。
ただ、「わざわざお笑いを選ぶ」という行動の必然性が、少しずつ薄れている。
「対立」というフォーマットが増えた理由
ついでに、もう一つ気になっていることがある。
最近のバラエティ番組を見ていると、「対立構造」を作る企画がとても増えた気がする。
若者VSおじさん、ギャルVS東大生、みたいな組み合わせの対談や、映像を見てコメントする番組。
昔は、ひな壇がずらりと並んで、大人数でわいわいやる番組が多かった印象がある。
それが今は、椅子を2脚だけ置いて、対談させる形式が目立つ。
これも、予算や制作の効率化と無関係ではないと思う。
大人数のひな壇より、少人数の対立構造のほうが、企画としてシンプルに成立しやすい。
そして「対立」は、SNSで切り取られやすく、話題にもなりやすい。
面白さより、話題性のほうが、番組の設計上優先されている場面が増えているのかもしれない。
これが行き過ぎると、「いじり、いじられ」の構造や、いじめを助長しているという批判につながる場面も出てくる。
ここは、単純な良し悪しでは語れない部分だと思う。
ただ、「対立を軸にした番組が増えたこと」自体は、笑いの質そのものというより、番組の作り方が変わったことの結果として見ておきたい。
まとめ:「お笑いは流行ってない」のではなく
長々と考えてきたけれど、ここまでの話を整理したい。
お笑いという文化そのものが、廃れているわけではないと思う。
面白いことは、これからも絶えずどこかで生まれ続けるはずだ。
ただ、
笑いを届ける場所が、テレビと劇場だけではなくなった
「お笑い芸人」というラベルのない、面白い人たちが至るところに増えた
テレビの予算とスキルの多様化によって、一芸だけでは埋まらない枠が増えた
逆に、最初から専門の枠を持たなかったタレントやアイドルが、マルチに対応することでその枠を埋めていった
こうした変化が重なって、「専門職としてのお笑い芸人」の輪郭が、以前より見えにくくなった。
M-1で優勝しても、まだ「これから」と言われてしまうのも、この構造と地続きなんだと思う。
「お笑いが流行ってない」のではなく、「お笑い芸人という専門性を、周りに対して示すことが難しくなった時代」になった。
蓮見さんの一言に、あれだけ多くの芸人やファンが反応したのは、たぶんみんな、どこかでうっすらとこの構造を感じ取っていたからなんじゃないかと思う。
