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穏やかな生活

この世界につくられて、もしかしたら40年、いや50年ぐらい経ってるのかもしれない全身鏡が割れた。
ガラスは粉々ではなくひび割れた感じで、ただ、破片が細かすぎてかわからず、踏んでしまって踵に刺さって、めちゃくちゃ小さいのに痛くてすぐ抜いたので血は出なかった。でもしばらく刺さったところは痛かった。

わたしが少しケガをしただけで良かった。
こどもは冷静にチリトリで掃除してくれた。
危ないからいいよと言ったけど、(破片が)見えたからと掃除してくれた。ほんと優しい子です。

なんというか、全身鏡が割れた時、自分の中にガッカリとか悲しいとか寂しさとかショックとか全くなかったことにびっくりした。

母親が使ってた思い出のある鏡でサイズもデザインもなんかいい感じやんって気に入ってたし、懐かしさも感じるし、引越してからも使いたいなあと、迷わずいるもの認定して連れてきた全身鏡だった。

そんな思い出深い全身鏡にも関わらず、わたしは割れた時、そっか割れたかー、しゃあないな、形あるものは壊れるし無くなるよなー、でもまあ、また新しい鏡、良さげな子が来るでしょう。こどもがケガせんでよかったよかった。と思っていた。

新しいのを買えばいいや。
次はこどもも猫もおるし割れてもガラスの散らばらないとか、危なくないのにしよう。
デザインは二の次かー。でも鏡、毎日使うし、気に入らないのは嫌やなー。シンプルなのにしようかな。

と、イライラも焦りもない、ただ淡々と、こんなもんかと、次を考えていた。


わたしって薄情なのかも。
と、最近思うのです。

怒ってる人を見たり、悲しんでいる人を見たり、傷ついている人を見たり、そんなこの世界の負の感情を露わにしている人を見ると、そんなに感情が乱れるんやあと冷めているわたしがいることに気が付きます。

こんなことをしたら人が傷つく、こんなことをされたから悲しい、腹が立つから言わなきゃ気が済まん、自分だけ我慢って無理、人を見てるとわかるし、そら腹立つよなあ悲しいよな傷つくよなというのはわかる。

でも全て『気にしない』で解決するやん。

で終わってしまう。

過去は終わったもので、壊れたものも壊れたまま。そこに執着して魔法のように修復するのなら執着しまくればいいけど、考えたところで自分ではどうしようもない答えなどなくて頭の中はあれやこれやと違うことを出してくるだけ、そしてそんな時ってあれやこれやも同じような思考のことしか出てこないので、あんまり意味なくね?と思う。

それだったら、次を考える方がいいし、全く違うことでも良いから楽しいことを考えることに時間使う方がいいと思う。

だからわたしは『嫌だな』と思ったらその感情を俯瞰してる。
そっかーわたしこれが好きじゃないんやー。
わたしの嫌にまた気付いた。
オッケー!
で終わり。

この繰り返しをしていると、最近嫌なことがなくなってきた。これは感情がなくなってきてるのか、そんなこともないけど、楽しい時は笑うし、美味しいものを食べたらめちゃくちゃ幸せ。空見てこの空好きやなあ感じられる幸せもある。

わたしの人生わたし以外のことって本当はどうでもいい。そこになんやかんや意味づけするから疲れるし、いらん思考が出てくるわけで、人のことなんて考える必要なんて、そもそもないんだと思う。

と、なので、わたしは薄情なのかなあという思考が浮かぶわけで。

でももう薄情でもなんでもいい。

わたしの日々はとっても穏やかになっているし、人のことは考えていないけど、環境に感謝やなあという、毎日起きたら感謝やなあと思ってる。お水飲めるー顔洗えるー歯磨きできるー猫がいてるー快適に寝て起きられるーー感謝ー感謝ーありがとうーーーこどもの寝顔かわいいなあー幸せーー感謝ーーと、1日が始まる。ちなみにわたしは何の信仰もありません。


というわけで、側から見たらわたしは薄情ものかもしれないけど、そんなこともどうでもよくて、本当に本当はどうでもいい。

わたしの毎日は穏やかなのです。
ありがとうみなさん。
みんなサンキューです。


#創作大賞2026
#エッセイ部門

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