夢も目標もなかった僕が、マチュピチュ観光大使になるまで
2020年10月10日。
僕の目の前には、
誰もいないマチュピチュ遺跡が広がっていた。

南米ペルーの山奥にある、世界中の人が「一生に一度は行きたい」と憧れる世界遺産。
普段なら一日何千人もの観光客で溢れかえるその場所に、この日の観光客は僕ひとりだけだった。

遺跡の最高管理責任者、マチュピチュ村の職員、
カメラマン3人。
それと、僕。
たった6人。
7ヶ月前に買った入場チケットを握りしめて、
僕は遺跡の入口をくぐった。

毎朝、山の下から見上げていた場所。
行きたくても、ずっと行けなかった場所。
もう諦めようとしていた場所。
そのマチュピチュ遺跡が、
今、僕のためだけに開かれている。
「人類史上初めて、一人のためだけにマチュピチュ遺跡が開放されました!」
そんなニュースが、ペルー国内だけでなく、CNNやBBC、New York Timesなど世界中のメディアで報道された。
日本のテレビや新聞にも取り上げられ、気づけば僕は
マチュピチュ村から観光大使に任命されていた。

ただのバックパッカーだった僕が、世界遺産の観光大使になった。
ほんまに人生どう転がるかわからへん。
でもこれは、ただ運が良かっただけの話ではない。
※もちろん運は良すぎたけども笑
この運に出会うまでに、僕は悩み、死にかけ、何度も人に助けられながら、それでも自分の足で動き続けてきた。
僕の人生を変えたのは、行動力と運。
そして何より、人の優しさだった。
これは、夢も目標もなかった僕が、マチュピチュの観光大使になるまでの物語。
・夢も目標もなかった学生時代
「カタヤマ ジェシーです」
新学期の自己紹介でそう言うと、教室が少しザワつく。

今では大好きなこの名前も、子どもの頃は好きじゃなかった。
「え、何人?」てなるし、
病院でちゃんと名前を呼ばれることなんて、今でもほとんどない。
僕は祖父が南米トリニダード・トバゴ出身のクォーター。
奈良の田舎で育った僕にとって、まわりと違う名前や肌の色はコンプレックスだった。
友達にいじめられたわけではない。
でも、大人から差別的な言葉を言われることはあった。

少年野球の試合中、相手チームの監督から言われた言葉は今でも覚えている。
平気なふりをしてたけど、
本当は心にグサグサ刺さっていた。
身体も小さいし、泣き虫、
自分の名前も見た目も好きじゃない。
とにかく自信がなかった。
そんな劣等感まみれの少年に、ひとつの転機が訪れる。

高校生になってボクシングを始めた。
このボクシングが、後にマチュピチュの観光大使になることに繋がる。
ボクシングは僕に初めて自信をくれた。
身体が小さくても、階級がある。
練習した分だけ、強くなる。
毎日ジムに通い、
プロボクサーたちに混ざって練習した。
インターハイや国体の全国大会にも出場するようになり、大学には特待生で入学した。

ボクシングは、僕の人生を大きく変えた。
そして始まった就職活動。
「自分のしたい仕事ってなんやろ」
考えてみたけど、全くわからなかった。
今までボクシングしかしてこなかった。
将来のことなんて真剣に考えたことがない。
「普通に就職して、普通にサラリーマンになって、結婚して、子どもができたらそれでええや」
本気でそう思っていた。
でも、どこかで引っかかっていた。
「このまま大学生活が終わってしまうの嫌やな」
「なんか大学生っぽいことしたいな」
.
.
.
「バックパッカーやな!」
海外に興味があったわけでもない。
英語が話せたわけでもない。
ただ、なんとなく
大学生=バックパッカー
当時そのイメージがあって、僕は初めて1人でバックパックを背負い、タイとカンボジアへ旅に出た。
今思えば、すべての始まりはこの旅だった。

タイのカオサンロードには、世界中から旅人が集まる。

英語は全然話せなかったけど、カタコトでいろんな人に話しかけてみた。
そこでは、アジア人も、白人も、黒人も、肌の色なんて全く関係なかった。
奈良の田舎で、自分の名前や見た目を気にしていたことが、なんだかアホらしくなった。
カンボジアでは、
日本語がペラペラなショーンに出会った。

入国審査を手伝ってくれたり、友達を紹介してくれて、いろんな場所に連れて行ってくれた。
「たまたま出会った日本人に、なんでこんな優しいんや」
日本では経験したことのない優しさに触れた。
カンボジアで出会った子どもたちの無邪気な笑顔は10年経った今でも覚えている。

人も、文化も、トラブルさえも、
全部が新鮮で刺激的な旅だった。
僕はこの旅で、世界の広さと人の優しさを知った。
そんな初めてのバックパッカー1人旅。
ハマらないはずがない。
そこから大学を卒業するまでの間、
僕は多くの国を訪れた。

ベトナム、タイ、カンボジア
カンボジアでショーンの結婚式にも参加した
でもお金がなかった僕が行けるのは、
渡航費の安いアジアだけ。
「いつかアメリカとか南米にいってみたい」
「マチュピチュとかピラミッドを見てみたい」
「世界一周がしたい」
人生で初めての夢ができた。
・金なし、英語力なしで飛び込んだ海外
大学卒業後、就職せずに世界一周すると決めた。
もちろん親は大反対。
「育て方間違えた」と大泣きされた。
それでも僕は、自分のやりたいことを貫いた。
今ではこの道を選んで正解だったと言える。
どれだけ大事な人に反対されても、
自分の道は自分で決めないと後悔する。
選んだ道を正解にすればいい。

ただ、問題があった。
世界一周するお金がない。
英語も話せない。
そこで、まずセブ島へ短期留学して英語を習得、
その後、稼げると噂のオーストラリアで資金を貯める計画を立てた。
「英語をマスターするぞ!」
と意気込んで行ったセブ島だったが、勉強よりも死ぬほど遊んだ。

ほぼ毎日クラブ。
3ヶ月中、1ヶ月分くらいの記憶がない笑
でも、不思議なことに英語でのコミュニケーションはできるようになっていた。
そこで学んだのは、人は環境で変わるということ。
英語は結局"慣れ"
ビジネスで使うとか、TOEICを取るとかなら別だが、
僕みたいに世界を旅したいとかオーストラリアで働く為とかなら、
文法なんてぐちゃぐちゃでも伝われば問題ない。

大事なのは、流暢さよりも
「この人オモロいな」
と思ってもらうこと。
いつもニコニコ楽しそうにしてたら、向こう側から話しかけてくる。
笑顔は世界共通の言語。
これはホンマやと思う。

オーストラリア生活は、夜中2:30にピックアップされ、ひたすらセロリを刈る仕事から始まった。

世界中の友達ができ、週末は大自然で遊ぶ。
順調なワーホリ生活だったけど、
ある時、1ヶ月ほど仕事が見つからずニートになった時期があった。
時間だけはあったので、
世界一周の夢を叶えた後、
自分は何をしたいのか真剣に考えた。
もともと子どもが大好きで、保育士や小学校の先生になりたいと思ってた時期もあった。
「大好きな子どもに関わる仕事がしたい」
でも、自分が子どもたちに本気で教えられることって何やろう。
答えは、ボクシングだった。
自分がボクシングで人生を変わったように、
ボクシングなら子どもたちの人生を良い方向に変えられるかもしれない。
「子どもに特化したボクシングジムを作ろう」
自分のやりたい仕事を初めて見つけた。
でも、もちろん世界一周もしたい。
ほな、組み合わせたらええやん。
世界一周しながら世界中のボクシングジムを訪れて、
ジムを作る時のヒントにしよう!

そして、世界中の子どもたちにボクシングを教えながら旅しよう!

こうして、僕の世界一周に目的ができた。
夢や目標は、急に降ってくるものじゃない。
自分が好きなこと、得意なこと、続けてきたこと。
その組み合わせの中に、進む道が見つかることもある。
・夢の世界一周
2019年7月1日。
夢の世界一周が始まった。

アジア→アメリカ→中米→アフリカ→南米と、
言葉が通じなくても、ボクシングを通して世界中の人々と交流した。
スポーツに言葉はいらない。
世界中のボクシングジムで練習し、戦ってきた。

そして、
道端で、学校で、スラム街で子ども達にボクシングを教えて周った。

どこの国でもボクシングは人気で、
楽しんでくれている子ども達の笑顔がたまらなく嬉しかった。
僕には僕のやり方で、
子ども達を笑顔にできることがわかった。
もちろん憧れだった世界中の絶景も
たくさん見ることができた。

グランドキャニオンなどを見て、夢のような時間だった
でも、旅はいい事ばかりではない。
まず、お金が底を尽きた。
しかもまだ前半のアメリカ。まだまだ旅をしたい。
世界中のジムを巡り、子ども達にボクシングを教えたい。
悩みに悩んで、
僕はクラウドファンディングに挑戦した。

プロジェクトを無事に達成することができた
プロジェクトは無事に達成。
僕は最初、どこかの知らないお金持ちのおじさんが支援するものなのかなと思っていた。
けど違った。
支援してくれた62人は、全員友だちだった。
支援と一緒に届く、皆んなからの応援メッセージに毎回胸が熱くなった。
ずっと1人で旅しているつもりだったけど、
たくさんの人に支えられて旅を続けることができた。
しかしその直後、メキシコで高熱が出て倒れてしまう。
病名はデング熱。

「あと一日遅かったら、あなた死んでましたよ」
医者からそう言われた。
まさか自分が熱なんかで死ぬわけないって思っていた。
「でも人間って、案外コロッと死ぬんやな」
本気でそう思った。
元気なうちに、やりたいことは全部やってやる。
改めてそう強く思った。
しかし、医者からは強制帰国命令。
クラウドファウンディングの直後だったので、
悔しさと申し訳なさを抱えたまま、一度日本に帰国した。

後にこれが思わぬ形で叶うことになる
2020年1月3日。
強制帰国から2ヶ月後、僕は再び飛行機に乗った。
世界一周、再出発。
アフリカ、そして南米へと向かった。
・27ヶ国目、ペルー
アフリカ大陸縦断を終え、
いよいよ最後の南米。
「もう少しで世界一周の夢が叶う!」
っていう"高揚感"もあったけど、
「この旅もあと少しか」と、
どこか"寂しさ"と"焦り"も一緒にあった気がする。
帰国したら大変なのもわかってたから。
ブラジル→パラグアイ→ボリビアときて、
2020年3月15日、ペルーに入国した。
その時の僕は、まだ何も知らなかった。
この国で200日以上を過ごすことになることを。
そして、ここが人生を大きく変える場所になることを。

世界遺産の街クスコに到着した僕は、
ペルー最初の目的地であるマチュピチュを目指した。
クスコを出発してから10時間。
マチュピチュ遺跡の麓にあるマチュピチュ村に到着した。
マチュピチュ村は山に囲まれた小さな村。

村の真ん中には川が流れ、レストラン、お土産屋さん、ホテルが並んでいる。
世界中から観光客が集まる場所。
どこか日本の温泉街みたいな雰囲気があった。
(実際に温泉もある)
「明日の朝、マチュピチュ遺跡に行こう!」
そう思い、僕はすぐに翌日3月16日の入場チケットを買いに行った。

その日の夜。
宿の宿泊客がみんなテレビを見ていた。
スペイン語でほとんど分からないが、ただ事ではない空気。
コロナの影響でペルーが2週間ロックダウンするらしい!?
国際線も国内線も電車もバスも動かなくなる。
隣町に行くことすら禁止。
ペルーのロックダウンはだいぶ厳しかった。
普通なら焦る。
でも僕は違った。
「明後日からロックダウンってことは
明日の朝ならギリギリまだマチュピチュ遺跡に行けるやん、ラッキー」と思っていた。

朝イチで遺跡だけ見て、そのままクスコに戻ろう。
そんな軽い気持ちだった。
翌朝、村から遺跡へ向かって歩き始めた僕の前に、
警察官が立っていた。
嫌な予感がした。
「今日ってまだ、マチュピチュ遺跡行けますよね?」
「今日から閉鎖や」
マチュピチュ遺跡は、すでに封鎖されていた。
移動できるのはその日のうちだけだったので、
残された選択肢は2つ。
クスコまで戻って2週間監禁されるか。
マチュピチュ村に残って2週間監禁されるか。

そもそも村のホテルもレストランも営業停止。
そして遺跡は閉鎖。
「そんなマチュピチュ村で2週間監禁って何すんねん」
最初はそう思ったけど、少し考えた。
今からクスコに戻っても、2週間後にロックダウンが解除されたら、またマチュピチュに来たくなる。
そもそもマチュピチュ村で2週間も過ごす人なんていない。
「なんかおもろそうやしここ残ろ!」
なんとなく直感だった。
今はこの時この判断をした自分を褒めちぎりたい笑
ただ、問題は泊まる場所。
ホテルは営業停止。
昨日泊まった宿に聞いたがもちろん断られた。
2軒目も3軒目も断られる。
「大丈夫!絶対なんとかなる!」
そう自分に言い聞かせて尋ねた4軒目。
「プライベートルームとして使っているマンションの一室がある。そこならホテル扱いにならないから、泊まっていいよ」
そこが、今も僕にとって本当の家族のような存在になっている人たちとの出会いだった。

こうして、僕の2週間のマチュピチュ監禁生活が始まった。
まさかその生活が、7ヶ月間になるとは知らずに...
・マチュピチュ監禁生活
ペルーのロックダウンは2週間では終わらなかった。

「あれ?これほんまに日本帰られへんやつやん」
だんだん焦ってきて、日本大使館に問い合わせた。
リマやクスコに取り残された日本人観光客には、
臨時のバスや帰国便の案内があった。
でも、マチュピチュ村は例外。
山奥すぎて車では来れないし、電車も止まっている。
つまり、どうにもならない笑
日本政府でもどうにもできないなら、
もうしゃーない。
僕は帰国することを諦め、考え方を切り替えた。
「この村で、できることをしよう」
ボクシングジムを作るための資格勉強に、
体力作りで毎朝10kmのランニング。

マチュピチュ遺跡のある山の横を走るたびに、
米粒くらいに見える遺跡を下から眺めた。

「ほんまにあそこ、行けんのかな」
そう思いながら、毎日走った。
何か新しいことも始めたいと思い、
宿のオーナーであるパズがヨガの先生だったので、
ヨガレッスンにも毎日参加した。

ヨガレッスンには、いつも生徒さんのママたちと一緒に子どもたちがついて来ていた。
「この子たちにボクシング教えたいな」
そう思い、ヨガレッスンのあとに毎日ボクシングクラスを始めた。

お給料をもらっていたわけではない。
その代わり、ママさんたちがご飯を作ってくれたり、バナナをくれたり、飲み物をくれたり。
物々交換のような生活をしていた。
村の子どもたちにとって初めてのボクシング体験。
子どもたちが毎日楽しそうにミットを打つ姿を見て、
僕の方が元気をもらっていた。
そして、マチュピチュ村の人たちには、この監禁生活で本当にお世話になった。



スペイン語なんて、全然わからない。
でも、そんなことは関係なく、
マチュピチュ村の人たちは、1人だけ取り残された僕に優しく接してくれた。
マチュピチュ村に閉じ込められて、半年が経とうとしていた頃。
ついに、国内外の移動が再開されるというニュースが流れた。
「やっと日本に帰れる!」
でも、マチュピチュ遺跡が開放されるというニュースはなかった。
正直、ショックだった。
心のどこかで、最後に遺跡が開いてマチュピチュ遺跡を見てから帰国する。
そんなハッピーエンドを期待していた。
でも、
この村にはまた会いに来たい人たちがたくさんいる。
遺跡はもう一度来た時に行けばいい。
村の人たちと過ごしたかけがえのない時間があるから後悔はない!
そう自分に言い聞かせて、マチュピチュ遺跡に行くことは諦めた。
そんな時、マチュピチュ村にペルーの新聞記者がやってきた。
「観光客がいなくなり、ゴーストタウンになってしまったマチュピチュ村は今どうなっているのか」
それを取材しに来たらしい。
たまたまその記者が泊まったホテルで、僕の友達が働いていた。
その友達が、記者に
「この村に、1人だけ日本人が残っている」
と、話したらしい。
翌日。
いつものようにランニングをしていると、
見知らぬ2人組が歩いてきた。
「君がもしかして……」
それが、新聞記者との出会いだった。
記事になるかは分からないけど、
一応話を聞かせてほしい。
そんな感じで30分ほどの短いインタビューを受け、写真を撮ってもらった。
僕も記者も、その時はまだニュースになるなんて思ってもいなかった。

数日後。
その記事は、ペルーの全国紙の一面に載った。

「マチュピチュ村に残された最後の観光客」
「彼は村で子ども達にボクシングを教え、
地域の人たちと交流しながら、
マチュピチュ遺跡が開くのを待っている。
彼はハッピーエンドを迎えることができるのか。」
そんな内容の記事だった。
記事が出ると、まず反応してくれたのはマチュピチュ村の人たち。
SNSで僕のことをどんどん拡散してくれた。
そこからはもう携帯が鳴り止まない笑
「頑張って」
「応援してる」
ペルー中からの応援メッセージとともに、
「彼をマチュピチュ遺跡に行かせてあげて」
「7ヶ月も待っていたなら、行かせてあげるべきだ」
そんな声が、
ペルー国内でどんどん大きくなっていった。
記事を書いてくれた記者。
拡散してくれたマチュピチュ村の人たち。
応援してくれたペルー中の人たち。
いろんな人の想いが重なって、そのニュースはペルー政府にまで届いた。
そして、ある日。
僕のMessengerに一通のメッセージが届いた。
送り主は、
マチュピチュ遺跡の最高管理責任者のホセさん。
そこには、こう書かれていた。
「明日、マチュピチュ遺跡に行くぞ」
・マチュピチュ独占
2020年10月10日。
人生を変えたこの日を一生忘れることはない。
朝、マチュピチュ遺跡行きのバスに乗り込んだ。
雨季に入りかけていたけど、この日は雲ひとつない青空だった。

バスに乗っていたのは、僕と、遺跡の最高管理責任者ホセさん、マチュピチュ村の職員、そしてカメラマン3人。
たった6人。
世界中の人々が「一生に一度は行きたい」と願う
世界遺産に、6人だけで入る。
観光客は僕ひとり。
しかも、最高管理責任者のガイド付き。
なんて贅沢なんや笑
毎日、山の下から見ていた場所。
7ヶ月間、行きたくても行けなかった場所。
その入口に、ついに到着した。

7ヶ月前に買ったチケットを見せ、入口をくぐる。

一歩一歩、遺跡へ向かって進んでいく。
心臓が高鳴る。
そして、
そこには、
誰もいないマチュピチュ遺跡が広がっていた。

「すげぇ……」
写真で見るのとは桁違い。
山の迫力。
石の存在感。
空気の静けさ。
目の前に広がる景色のスケール。
その絶景に鳥肌が立って感動した。
でも、その時それ以上に思い浮かんだのは、
今日までお世話になったマチュピチュ村の人たちの顔だった。
本当の家族みたいに接してくれたファミリー。
ご飯を作ってくれたり、いつも一緒に遊んでくれた友達。
僕の記事を拡散してくれた村の人たち。
その人たちのおかげで、
今、自分はここに立っている。

その日は、普段は立ち入りできない場所も含めて、10時間ほど遺跡を隅々まで案内してもらった。
観光が終わると突然の大雨。
まるでマチュピチュ遺跡が、
僕を迎え入れてくれたみたいだった。

「人類史上初、一人のためだけにマチュピチュ遺跡が開放されました!」
このニュースはペルー国内だけでなく、
CNN、BBC、New York Timesなどの世界的メディアでも報道された。
数日後には、ペルー観光復興の象徴として、
副大統領や大臣と一緒に再度マチュピチュ遺跡を訪れ、式典に参加した。

さらにその数日後、僕はマチュピチュ村役場の村長室に呼ばれた。
村長が立派な証書を持ってきて、
「今日から、マチュピチュの観光大使な」
「ええぇぇぇぇ!?観光大使ぃぃぃぃ!?」

(だってオンラインの取材だけって聞いてたもん!)
こうして僕は、マチュピチュ村から観光大使に任命された。
・運は動いた人の前にしか現れない
2020年3月15日、
あの日マチュピチュ村へ入っていなかったら。
村人たちと仲良くなっていなかったら。
友達が記者に僕のことを伝えていなかったら。
あの日、ランニングをサボっていたら。
何かひとつでも違っていたら、この出来事は起こっていない。
たまたま"マチュピチュ"という場所でロックダウンに遭って、運が良かった。
それは間違いない。
でも、ただ運が良かっただけじゃない。
お金がなくても、英語が話せなくても、死にかけても、それでも諦めずに「世界一周を叶えたい」と旅を続けてきた。
世界中の子どもたちにボクシングを教え、
マチュピチュ村でも、自分にできることを探した。
その積み重ねが、
あの日の奇跡につながったのだと思う。
運は誰にだって落ちてくる。
でも、その運に気づけるか、掴める場所にいるか。
それは、きっと行動で変わる。
そして、もう1つ思うのは、
僕はいろんな国の子どもたちにボクシングを教えて笑顔にしてきた。
良いことをしたら、巡り巡って必ず返ってくる。
マチュピチュで起きた奇跡は、
世界中の子どもたちからのお返しのプレゼントだったと信じている。
・今度は僕が誰かの一歩を後押ししたい
マチュピチュで人生が変わり、
僕の中にひとつの使命が生まれた。
日本とマチュピチュをつなぐ架け橋になること。
マチュピチュの魅力を日本に伝え、
マチュピチュ村の人たちに恩返しすること。
そして、僕自身の経験を通して、
誰かの一歩を後押しすること。
子どもの頃の僕は、夢も目標もなかった。
将来やりたいことも分からなかった。
でも、思い切って最初の一歩を踏み出した。
お金がなくなっても、死にかけても、
世界一周を途中で諦めなかった。
そして、マチュピチュ村に残った。
その一つひとつの選択が、今の僕をつくっている。
だから僕は、これから何かに挑戦しようとしている人に伝えたい。
最初から夢なんてなくてもいい。
自信なんてなくてもいい。
英語が話せなくたって、お金がなくたっていい。
まず動いてみる。
動いた先で、人に出会う。
助けてもらう。失敗する。考えてまた動く。
そうしているうちに、人生は少しずつ変わっていく。
僕の人生を変えたのは行動力と運、
そして人の優しさだった。
でも、その運も、その優しさも、動いた先で出会ったもの。
世界一周、27カ国目のペルー。
そこは、僕にとって旅の通過点になるはずだった。
でも今では、
僕の人生にとって切り離せない場所になった。
この記事も今、マチュピチュ村で書いている。
あの日、マチュピチュ村の人たちが僕に手を差し伸べてくれたように、
今度は僕が、誰かの人生が動き出すきっかけをつくれる人間でありたい。
行動すれば、
人生は思ってもみなかった方向に変わる。
僕は、そのことを旅を通して学んだ。
だからこれからも僕は行動し続ける。
自分の人生を自分で動かし続けていく。
そしていつか、
この物語を最後まで読んでくれたあなたと、
マチュピチュでお会いできる日を楽しみにしています。
