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弱キャラ友崎くんオタク、語る


はじめに

みなさん、こんにちは。はじめましての方ははじめまして。
今回は、10回目の節目を迎えるということで、自分が一番好きな作品に関して、本物の駄文を錬成していこうと思います。
それが「弱キャラ友崎くん」です。
どのくらい好きかというと、編集者の岩浅健太郎さんに勝手に手紙を送ったくらいには好きです。真剣に弟子入りしたい。
私はかくかくしかじかあって、この作品からかなり大きな影響を受けています。それもあり、現時点で一番好きな作品が弱キャラ友崎くんなわけです。
まあ思い入れが結構ありますので、かなり散らかった文章をお届けする羽目になるかとは思いますが、ご容赦ください。あと多分普段より長いです。
ちなみに私は当然原作で最新刊まで読んでいますので、アニメ勢の方や最後まで読んでいないという方はお気をつけてお読みください。とてつもない量のネタバレが含まれます。

全体の感想

贔屓目マシマシですが、本当にいい作品だと思います。
ライトノベルとしての完成度、面白さも当然のことながら、文章からにじみ出てくる作者の屋久先生の哲学的な思想や問題意識などが見えてくることもとても面白いと思います。
この後は個人的な考察やお気持ち表明をさせていただきます。もう感想なんて知ったこっちゃありません。

初見でのキャッチーさ

人生をゲームに見立てる、主人公がアタファミ(誰もがスマブラとわかる)というゲームで全国一位。わかりやすいキャラ立てではありますが、それだけに強いものがあります。
そこで引き込んで、ちゃんと読ませれば各キャラがしっかりと芯があって立っている。トッポみたいなもんですね。最後までチョコたっぷり。

ライトノベルは読むまでのハードルが高いだけに、表紙や帯、あらすじでわかりやすく「面白そう!」と思わせるのが一番重要です。新規層の獲得は漫画よりもはるかに難しいでしょう。
そうしたぱっと見での「面白そう!」という感じがかなり強い作品であるように思います。これは商業的な面から考えたときに、ライトノベルとしてかなり大きなアドバンテージになるわけですね。

私が4回目の記事で勝手に打ち出した理論でいくと、キャラの奥が深そうに見えて(立体性があり)、かつ他のラブコメとの差別化が明確にできているように見える(我々の想定、テンプレートとのズレがある)のです。

人生攻略バイブル、美少女指南付き!

これがラブコメになるとわかっていれば、何か面白そうですよね。この時点ではこの美少女を攻略するんだろうなー、と思わせることもできます(実際には恋愛面での攻略ではなく、人間的に攻略するラスボスになるわけですが)。
こうしたわかりやすさ、新規層への訴求力の高さというのがこの作品の一つの武器になっているのでしょう。

哲学的思想の反映とそのうまさ

この作品の一つの特徴として、作者の方の持っている、あるいは関心を持っている哲学的思想がキャラクターたちに反映させられているという点が挙げられます(僕はこのあたりの哲学的思想が好きなので、結構長くなります)。

たとえば、日南。
何も考えずに読んでいた最初はわかりませんでしたが、大学生くらいになってから読み返してみると、異常なまでに構造主義的な思考回路をしていることに気づきました。
たとえば、8.5巻の第二章「名もなき花」95pに

こうしてルールと結果があるものに対しては、無意識にそれを分析して、その構造を考えはじめる

という一文があります。8.5巻を持っていない人は買ってください。
ここを読みなおして目についたのは、「構造を考えはじめる」という部分です。この考え方って、構造主義そのものなんですよね。
構造主義の解釈によっては、構造主義は非人間的で冷淡なものではない、とする主張も当然ありますし、私も興味深い解釈として頭に残してはいます。それでも、一般的な解釈ではかなり機械的かつ合理的な思想という印象が強いと思います。
この機械的かつ合理的というのは、日南の特徴と合致しますよね。怖いくらいに合理的で、彼女の人間的な(装飾の)部分である仮面を機械的に、かつ合理的に作り出すという一見矛盾した営みを常に行っています。
彼女の出す課題もすべて目的があり、かつギリギリ達成できるものに限られているんですよね。このあたりには構造主義的、合理的な考えが非常に色濃く反映されていると言えるでしょう。

次にこの物語の主人公、友崎くんです。
友崎くんは日南の正反対である実存主義的な思想が垣間見えます。
アニメ二期の後半、みみみと菊池さんのどちらを選ぶかということで悩んでいるとき、日南は比較的ドライな態度を示します。このあたりも日南らしい部分ですね。
それに対して友崎は抵抗感を示し、「不誠実」という言葉をたびたび口にしました。こういった考え方の部分でかなり二人は対照的です。
つまり、人間関係に関する考え方が対極にあるわけですよね。ある意味で割り切って人間関係という概念を考えている日南と、それぞれの人に対して密に接して人間関係を構築しようとしている友崎。こうしてみるとわかりやすいかもしれません。

しかし、必ずしも彼らの思想は常に対極にあるわけではありません。たとえば11巻の日南のスタンス(自由だからこそ業を背負っていて、それから逃げ出せないという考え)には少々サルトルのようなものを感じます。サルトルは実存主義者の大家です。
また、友崎もアタファミという土俵において尋常ではない努力を続けてきて、その努力にのみ立脚する自恃や矜恃(単に自信という言葉でまとめてもいいとは思いますが、私はそれよりもこのようなニュアンスを強く感じました。これは日南にも同じことが言えます)のようなものを持っています。
だからこそ努力を誰よりも重要視しているし、そういった点では合理的、現実的な思考の持ち主で、日南と近しい考えです。
また彼は実存主義的、言い換えれば理想主義的な生き方をしてきました。それと現実の折り合いをつけるべく様々な意見を聞き、自分のスタンスを定めていく。あるいはスタンスを変えていくのが8~10巻の友崎にあたるのです。こうした現実と理想のギャップというのは誰しもがぶつかる問題でしょうから、そことの向き合い方を提示してくれているのもメッセージとして大きな意味があるでしょう。
そして、そうした齟齬と共通点を抱えながら、なんとか日南に近づき、力になろうともがいているのが10巻以降の友崎なのです。

そしてこの二人の間で感じられる思想として、ポスト構造主義的というか、ポストモダン的な思想も見えてきます。
友崎がどちらかというとポストモダン的な思想に近いのですが(実存主義に近い以上当たり前ですが)、たとえば8巻の373pにある「戻ることはない一回性」という表現はポストモダンみを感じます。
私が考えるポストモダンは「一回性、身体性、リアルライフさ」というものを重視する立場です(ポスト構造主義とは区別しています)。そのようなものとして定義すると、一回性に惹かれている友崎はかなりポストモダンに近い思想をしているのがわかるのではないでしょうか。
また、日南がプレーする「他人の人生」というのはこうした定義とはかけ離れた、もはや対極に位置するものです。自分の身体性、リアルライフさは皆無で、最悪の場合『キャラクター』を変えたりすることで可逆性を獲得します。こうした二人の違いが読み取れるのも非常に面白いです。

そしてポスト構造主義的思想もかなり反映されているように思います。たとえば、10巻の270p、アトラクションを降りる直前の描写。

現実とゲームと、過去と現在と、仮面と本音と。
日南葵と、NO NAMEと。
あらゆる境界線を揺らがせるような数分間が過ぎて、(後略)

という文章があります。これはそれまでの描写を非常に文学的に表現すると同時に、脱構築的なことも示しています。これだけなら偶然にも感じられますが、それまでにも、たまちゃんが自分を折らずに変えるというアプローチをしたのにも弁証法的、脱構築的思想が背景にあると思いますし、そうした要素は数多く作中に見られます。ここまで多く出されてしまうと、いやでも意識して反映していると感じざるを得ません。

他にも、みみみは自分が常に一番になれないという劣等感を覚えていて、優鈴ちゃんは周りに流されてしまう自分を嫌っていて、たまちゃんは自分から折れないことによって迷惑をかけてしまう現状を変えたいと願いました。こうした特徴は、おそらく誰もが何かしら共感できるところがあると思います。特に優鈴ちゃん。そうした性格との向き合い方、生き方の例の一つを提示してくれているのがこの作品のやさしさだと思います。
こうした「自分が無い」「自分の意見が強すぎる」「劣等感を覚えている」という特徴を抱える人が多い現代の社会を憂いた結果、これらのキャラクターが生まれ、彼女たちにメッセージを代弁させているのでしょう。

そしてこうした要素を非常にうまく設定、あるいは文学的表現に落とし込み、あまり鼻につかないようになっています。私がよく言う「大砲と花束」理論でいくと、花束が非常にうまく配置されているのです。
こうした構造主義的な思想や実存主義的な思想は、少しでもそうした思想を理解していないとただ変な奴になったり、鼻についたりします。それをなんとか中和しながらも、キャラが物語の中でブレることがないので、キャラ設定として受け入れられているのだと思います。
そして、受け入れられたそのキャラにしゃべらせることによって、屋久先生の思想や伝えたいことを私たちに届けているのでしょう。私がメッセージ性を乗せた作品が大好きになってしまったのはこの作品のおかげであり、またそうした作品に無駄に厳しくなってしまったのもこの作品のせいなのです。最初に出会った作品が上手いのが悪い。

余談ですが、一度だけTwitter上に担当編集の岩浅さんが上げていたメキシコかどこかの雑誌でのインタビュー記事(日本語翻訳済)に屋久先生が

「その時代だけで通用するテーマになってしまわないよう、現代思想(特に構造主義、ポスト構造主義)など、テーマを強めていく上で幹になるような『考え方』の土台は、常に摂取し強度を増していこうと意識しています」

と語っている部分があります。おそらくこの記事のことを覚えているのはこの世界で僕くらいでしょう。キモオタは怖い。
これから見ても、屋久先生が恣意的にそうした哲学的思想の要素をテーマとして作品に盛り込んでいることがわかると思います。

キャラ設定の一貫性

この作品、キャラの設定が間違いなく最初から決められていて、そこからブレていないんですよね。
一番わかりやすいのが、日南のお母さんの設定ではないでしょうか。
これまた8.5巻第二章「名もなき花」の76pに

バスケに勉強に、それにゲームまでってなったら、贅沢すぎるものね

というセリフが出てきます。ここで贅沢という言葉に少しばかりの違和感を作中の日南とともに私たちも覚えるわけですが、その正体が11巻になってようやくわかるわけです。
おそらく日南母の宗教観からくる発言だったのでしょう。この宗教二世のような問題も、最近話題になってきていますし、屋久先生は課題意識を持っているというのがよくわかります。

他にも、11巻のあとがきを見てみると、日南の持っている花に言及しています。この花は、確実ではありませんがタチアオイのように思われます。そう、葵です。
このタチアオイ、なんと太陽に向かって咲くという習性があるそうではないですか(ひまわりの仲間です)。つまり、ひなみあおいが母という太陽を信じて生きてきたということを暗に示していたりするわけですね。ちなみに、この「太陽」に関する描写も8.5巻の第二章「名もなき花」106pでなされています。(人間とは思えない顔をした日南の挿絵があるのでわかりやすい!)

私がいないのなら、初めからこんな名前に意味なんてない。
私は太陽の力なんて借りなくても、一人で強く立てるんだ。

あー恐ろしい。何を食って生きていたらこんなものをデビュー作で出してこれるのか。
ところで、短編集みたいな顔しているのにあまりにも6.5巻と8.5巻が重要すぎるのは何なんですかね。深めのオタク以外見逃しますよこんな描写。
ちなみに生意気ながら物申すと、この直前の文章。

だってほんとうの自分自身はあのときに死んで、いまの私はきっと、誰でもないのだから

というものなのですが、この「いまの」という表現を漢字にしてほしかったなぁ、と読むたびに思ったりしています。
「ほんとうの自分自身はあのときに」と、幼さを残したひなみあおいの人格を語るときはひらがなが多めになっていて(作品全体を通して「ほんとうの」という言葉はひらがなで表記されることが多く、先生のクセやこだわりなのかもしれませんが)、また今の日南葵の人格を語るときには「自分自身」ではなく「私」とどういうわけか少し距離を感じるような一人称になっています。普通の一人称なのに。
これだけこだわっている文章なので(オタクの深読みかもしれませんが)、どうせなら「いまの」を漢字にしてこの二つの間の断絶と今の合理性みたいなものを表してほしかったなぁ、と。もちろん何か別の意図があるかもしれないので、これが正解とは全く思っていませんが。
何はともあれ、とりあえずこれだけ考え抜かれたキャラクターたちがこの世界に生きているということが分かってもらえれば幸いです。多分私も気づいていないような設定が無限にあります。

勝ちヒロインが勝つ理由が明確

このサブタイトルだけではわかりにくいかもしれませんが、勝ちヒロイン、すなわち菊池さんが勝つ理由が明確なんですよね。

ただひたすらに、そのあとのストーリー進行に重要すぎるから。
菊池さんの物語を書く能力と、その観察眼。それが11巻以降で非常に重要になってきます。この菊池さんをクローズアップするために勝ちヒロインになったのは間違いないでしょう。
ただ先に仲良くなっていたからとか、そういった理由ではなく、しっかりと読み込んでいれば菊池さんが勝った理由が理解できるのがこの作品のいいところでしょう(納得できるかどうかは別です。私はたまちゃんが推しなので、どちらかというとみみみのルートが見たかったです)。

こうした理解できるルート選択であれば、変にイライラを募らせたりすることもありませんし、作品を自らの意思とは関係なく好きになれないなんていうことが減ります(この意味を理解できるのが遅いので、それまでにフェードアウトされたらどうしようもないのが玉に瑕ですが)。
これがラブコメとして(もはや後半はラブコメではないヒューマンドラマみたいになっていますが)の完成度を高める要因の一つではないでしょうか。

友崎が垢ぬける過程の方法論が実践的

この物語の前半、友崎がひたすらに垢ぬける過程が描かれますよね。その分共感性羞恥とかもすごいですが。
その方法論がいろいろと書かれていますが、我々ド陰キャのオタクにとっては非常に実践的なものになっています。

まず、我々陰キャは服に基本的に興味がなく、当然知識もありません。その結果として生まれたのがチェックシャツをインした化け物です。それを改善する最適な方法、その一歩目としてマネキン買いを出してきています。さらにはマシになってきたらそれを応用する方法として、ファッションアプリ(おそらくWEARやPinterestのことでしょうが)を見ながら、自分がいいなと思ったファッションの共通点を探して、自分の好みを言語化していく。自分がいいと思ったアイテムを単体で買う(8巻に書いてます)。そういったステップアップをしていきます。ここまで含めて実践的な方法ですよね。

また、会話に関してもそうです。自分の中で会話の種をストックしておくこと、複数人の場合は会話の流れを分析しながらボケるときはボケる、ツッコミに回るときはちゃんとつっこむ。また他人から聞いた時の印象を実感するべく、自分の声を録音して、意識的に自分の話し方の違和感のある部分を矯正していく。これらすべて私たちの実生活でも使えることだと思います。実際私も少し参考にしたことがあります。結構変わります。

そして私が一番好きなのが、自分を卑下することに関しての意見です。水沢がアニメでも言っていましたよね。「お前が自分のことを悪く言ってるうちに、お前のことを好きでいてくれてる人は傷ついている」って。
何を隠そう私も自己評価が異常に低いタイプの人間です。高校一年生の時とかはかなり自虐多めの人間でした。周りも付き合いづらいタイプの人間だったと思います。ただ、この言葉を友崎くんで読んで、また友人からも全く同じようなことを直接言われて、極力表に出すのを封印するようになりました。いまだに心の中での自己評価は高くありませんが、それでも生活は楽しくなったと思います。こうしたところを書いて私たちに伝えてくれるのも大好きな部分です。むしろこうした心構えが一番実用的かもしれないですね。病は気から。

最終盤で実質的な主人公が変わる

この作品、主人公は言うまでもなく友崎文也ですよね。私もずっとそう思って読んできました。

しかし、それは本当にそうなのでしょうか?
確かに10巻くらいまでは間違いなく友崎が主人公です。ただ、11巻になると私の中で主人公が日南に入れ替わるのです。

基本的に物語は、主人公のことを記述したものです。前半は間違いなく友崎の成長や生活を描いているので、主人公が友崎と言って間違いないでしょう。しかし、11巻は友崎の動きを描写してはいるものの、その奥には日南がいます。日南をどうにかするために行動しているのが基本です。みみみのゲーム実況以外は。でもあれも日南の穴埋めですからね。

そう、行動の目的に、奥に、日南葵がいるんです。そして日南の過去を少しづつ明らかにしたり、対話をさせたりしています。これだけ日南にスポットライトが当たっていれば、実質的な主人公が日南といっても間違いないのではないのでしょうか。
そもそも、最初からずっと日南の立ち位置が変だったんですよね。
普通のラブコメなら、日南が最終的な攻略対象とかになるのでしょうが、そうではありません。でも、主人公でもない。でも、一番のメインのキャラクターです。

そうなると、この立ち位置はなんなのか。そう考えたときに、私が思ったのが実質的な主人公という立ち位置。言い方を変えると、「友崎文也の人生をプレーしながら、その画面を私たちと共有してくる神のような何か」とでもいえるでしょうか。
そう、課題を出してはいますが、基本的にそれは友崎なら何とか遂行するとわかっています。それなら、ゲームプレイヤーがキャラクターにコマンドを出している感覚に近しいでしょう。それを通じて友崎文也の人生を操作して、私たちに見せてくれています。まさか、最終的にラスボスが自分になるとは思わず。

そしてもう一つ、私がこう考える理由があります。題名です。
日南がプレーする他人の人生というゲームにおいては、間違いなく友崎文也は弱キャラです。そういう意味で「弱キャラ友崎くん」という名前になっているとしたら、「くん」という敬称がついている理由もわかります。ただラノベっぽい題名にしましたみたいな顔しながらこんなことをしてくるのが恐ろしい。
また、小学館ライトノベル大賞受賞時の原題が「満点飾りのがんばり論!」なんですね。これなんてもろ日南じゃないですか。満点飾り→自分の努力の正しさを証明するために、ひたすらに満点という結果で虚飾しているが、それで満たされることはない とでも言わんばかりの題名です。この時点で日南の設定が固まっていたということ、実質的な主人公が日南であるということがわかります。設定の一貫性に関しては先述の通りですが、末恐ろしい。

また、これが物語の二面性(立体性、テンプレとのズレ)にもつながってきます。私たちは前半の王道ラブコメパートと後半のシリアスパート(というより恋愛面以外での人間の深い部分を描くドラマというべきでしょうか)の両方をこの作品一つで堪能することができます。こうした普通の作品とは違った面白さを提供してくれるのもまた大きな特徴の一つだと思います。やっぱりこの作品ってトッポなんですかね。最後までチョコたっぷり。

たまちゃん、すごい!

さてさて、いつもの論評もどきフェーズもだいたい書きたいことを書けたので、あとは本当に書き散らすのみです。

私は先述の通り、たまちゃんが推しです。生きてきて他に一人だけしか観測したことはありませんが。それもTwitterの大海原ですら。11巻を読んでかなり日南のことが好きになったので、日南が好きという方でもお待ちしておりますよ。
話を戻して、メインヒロインでもないたまちゃんがなぜ推しなのかということをこれからは語っていこうと思います。

まず彼女は人にはない強さを持っています。誰と意見がぶつかっても自分の意見を折らないという姿勢は、たまに雰囲気を険悪にさせてしまうこともありますが、それでもまだ折れないというところに信念の強さを感じます。また、往々にして彼女の意見は正しいのです。
周りの人からすると少し鬱陶しいかもしれませんが、それをカバーするだけの人間的魅力を他の部分で出しているのが彼女の素晴らしいところだと思います。
また何よりも、そのスタンスを曲げる決断を、自分のためではなく友人のために下せる強さも持ち合わせているのが本当にすごいです。
かたいものはもろくて折れやすかったりします。しかし、柔軟なものは曲がりはしてもなかなか折れません。頑固な硬さではなく、しなやかな強さを手に入れたたまちゃんは本当にかっこいい。
そしてかわいい!小さくてかわいい!
なんというかこう、庇護欲を掻き立てられるようn(これ以上は自己規制)。
こんな小さくてかわいい女の子が誰にも負けない強さを自分の中に秘めているというこのギャップ。あー、たまりません!いけません!死者が出ます!多分私だけですが!


こほん、気を取り直してついでに日南のことも触れておきましょう。
6.5巻、8.5巻、11巻の三つを読んでしまうと同情の涙が止まりません。この境遇にあって潰れるのではなく、世界に正しさを示すという反発の方向に行く強さがあるのがすごいと思います。
むしろ、潰れた結果元の人格が消えて今の化け物になってしまったという可能性もありますが。
そんな普通の一人の子供だったひなみあおいがこうなってしまった経緯とその心情を考えると、本当に救われてほしい気持ちになります。
早く続きを読みたいという気持ちになりますが、屋久先生が納得できるような、日南が文句なく救われる方法で12巻を送り出してくれればと思います。

キャラソンの作りこみ

ほぼ余談みたいなものですが、私が好きな要素の一つにキャラソンがあります。実はこの作品、一期の時点で各ヒロインにキャラソンが作成されていて、円盤でひとつずつ公開されていたんですよね。それがしばらく経ってからYoutubeや配信サイトで配信されているんですが、その歌詞がいちいち作りこまれているんですよね。もはや怖いくらいに。
たとえば、日南のキャラソン「Real Life Attack」と日南バージョンの「あやふわアスタリスク」なんかが分かりやすいでしょうか。
あやふわのほうは

強さと弱さはN極、S極
真逆のようでくっつくみたいだ
歯がゆい感覚を思い出して遠慮もなく追憶が邪魔して
今の私に問いかけいたずら鏡合わせ

なんていう歌詞があったり、

思い描くことは不確かじゃない
はずなのに、色を足したそばから足りないものが浮かび上がる
ほしいのはつまり、なんだろう

なんていう歌詞があったりします。
こんなの日南そのものすぎますよね。あるいは、「純混血とアイスクリーム」のアルシアか。後半は9巻くらいで判明しますが、強さと弱さは~という部分は11巻くらいになってようやく我々読者が実感をもって理解できるものになっています。もう一度言いますが、これが世に出たのはアニメ一期のタイミングです。2021年です。9巻が出たのとほぼ同時ですね。
11巻が出たのはその丸三年後。恐ろしい。
ほかにも、Real Life Attackのほうでは、

正のグラフの勾配に
鳴らした勝鬨のEnterキー

本来届いたはずのゴールに
叩いた敗北のDeleteキー

という二つの歌詞が存在します。これも8.5巻の例のやつを読んでくれればわかりますが、日南の目標に関するものですね。
ただ私がこの歌詞で皮肉だなぁと思うのが、どうせ日南が勝鬨で鳴らすキーはEnterではなく、Deleteであるということです。
日南は達成した目標を消して、また新しい目標を立てるという営みを繰り返して戦っているのですから。
もちろん、定期的に目標を確認して順調に推移していることを確かめているだけで、まだ目標を消さないときに鳴らしているEnterのことを指していることくらいは私も理解しているのですが、それでもたどり着く先が勝利(というより成功)でも敗北であっても同じになってしまうというのが皮肉に感じられて仕方ないのです。

また、先述したポストモダン云々の部分で用いた「リアルライフ」という言葉がここで意味を変えて登場するのも面白いです。これは単なる偶然だとは思いますが。形容詞でのreal-lifeなんて滅多に使わない単語ですからね。
ポストモダンということでいうと、二期のEDである「誰かじゃないから」では「感覚は一人称の特権だから」という歌詞が出てきます。これもまた私のいうポストモダンそのものであり、どこか日南のスタンスを非難するようなニュアンスすら感じるほどです。
このような作りこみが細かすぎるのが一つ好きな要素ですね。ほかのキャラソンとかもそのキャラクターのことを綺麗に表現していて面白いので、気が向いたらぜひご自分で検索してみてください。面白いですよ。私はこれで3時間溶かした経験があります。

改善点を探してみよう

結局いつもの改善点探しにきてしまいました。
正直これだけ好きな作品のあらさがしにも近い行為をするのは気が引けますが、この路線で来てしまった以上やるしかありません。

私がこの作品の弱点として感じるのは、みみみにもう少しスポットライトを当ててあげてほしかったかなぁ、というくらいです。
先述の通り、菊池さんが勝つのは物語の進行上必然なんですが、負けてしまったあとにどうしても出番が少なくなりがちである以上、それまでにもっと掘ることができたのではないか、という印象がどうしてもあります。
各キャラの話をする必要があるので、一人だけに割ける量がどうしても少なくなるのはわかるんですが、どうしても生徒会選挙・退部騒動の一本では難しいところがあります。

また、たまちゃんの騒動があったときに、もう少しみみみも噛ませてあげてほしかったというのも率直な感想です。みみみのために自分を変えたい、と言っているなかであまりみみみが出てこないのは少し違和感を覚えてしまいました。もちろん、努力は本人に迷惑をかけないように裏でやりたい、という気持ちも分かるんですが。物語全体での配分やヒロインレースの盛り上がりを演出するためには、もう少し出てきてもいいのかなぁ、と。実際一番人気のヒロインはおそらくみみみですし。

でも、みみみの告白の仕方は非常にみみみらしくて好きです。ついうっかり、みたいな感じで告白するのはみみみらしい。そのあとを6.5巻に書いてくれたことまで含めてありがたい限りです。供給があるだけでオタクの命は2年くらい伸びますからね。

また、それに付随することにはなりますが、7巻のあたりの友崎のムーブがあからさますぎるんですよね。あそこまで菊池さんに付きっきりで、持っている能力も菊池さんのほうが重要そうであるのがわかってしまうと、読んでいる人も薄々ヒロインレースの結果が分かってしまいそうなんですよね。もう少しちゃんと夫婦漫才のほうにも労力を割いてほしかったですね。これも当然物語の進行上の問題で仕方ないのもわかるんですが、菊池さんの描写を減らすというよりも、みみみの描写を増やしてほしかったという感じです。
菊池さんの描写ももう少し早くからしてもよかったのかなぁ、とも思いましたが、単に各ヒロインの深堀りをする順番で最後になっただけで、これは問題ないという結論に最終的には至りました。なので今回は言及しません。

あと敢えて言うとすれば、日南を完璧すぎる人間にしたせいで、彼女が救われる未来があまりにも見えないことでしょうか。おそらくこれは屋久先生が現在進行形で苦しめられている問題だと思いますが。
もう少し弱点やそれに類する要素を少しでも作中でこれまでに見せていれば、それを突く形で無理やり解決に導くという手法もとれたのかもしれませんが、いかんせん設定を徹底しすぎた結果、弱点がなさすぎるのです。

多分チーズが好きなのは本当ですが、それを外に見せているのも日南の計算のうちで、少し人間らしい部分を作ることによって敬遠されたりしないようにしているだけでしょうし。
そう考えると、もし私たちが日南の弱点を見つけることができたとしても、それも計算のうちにわざと見せているだけに思われてくるんですよね。
そうなってしまうと、私たちにはもう打つ手がありません。屋久先生というあの世界における神に託すしかありません。

普通の物語として綺麗なのは、アタファミをもっと徹底的に鍛えた友崎がもう一度日南と相対することでしょうが、それで勝てたとしても、また日南がすぐに異常なまでに鍛え上げて倒されてしまって終わりな気がしてなりません。つまり、「弱キャラ友崎くん」としては綺麗ではないのです。
ということで、弱キャラ友崎くんとして綺麗な終わり方を模索してみたいと思います。神に託すしかありませんといった数行前の私はどこへやら。

どうやって日南を救おうか

こんなことをこの世界の一割も理解していない私が考えても無駄なことくらい理解していますが、それでも考えたくなるのがオタクのサガ。許してください。多分答えは見つかりませんが。

ということで、先述の通り日南を救うにはアタファミではダメそうです。そうなるとどうやって本人を後腐れなく救うことができるのでしょうか。

日南を救うには、「ひなみあおい」の人格を取り戻すことが効果的にも思います。あの人格の時のひなみは楽しそうに生きていました。
しかし、それを失った原因があまりにも大きすぎる。正しいことをして、にもかかわらずいじめを受けた妹を助けてあげることができず、ついにはその妹を事故で亡くしてしまった。しかもその事故が半分は自殺のようなものだった可能性すらある。さらにはそのショックから、太陽のように輝いていた母が宗教に以前よりのめりこみ、「太陽」に綻びが見えてしまった。この一連の出来事ををただの中学生が受け入れることができるかと言われると不可能でしょうし、今の日南であっても無理でしょう。
言葉だけで自分は正しいと信じさせてくれる、この世界を肯定させてくれる絶対的な太陽のようなものを失った以上、再現性が極度に高い努力にのみ立脚した結果によってもたらされる、絶対的な正しさしか信じられなくなったのです。

そしてそんな過去を思い起こさせるような映像を見せられ、自分の弱い部分が周りに露見してしまった。また私が思うに、お母さんの言葉に『いまの葵に続く運命への道』という文言が入っていたのも問題だったと思います。これがあることにより、あの病院の光景がフラッシュバックしたのではないでしょうか。そしてそれを思い出したことにより、自分が「空っぽ」であることを、賞賛の言葉によってでは日南葵自身が満たされないことを理解してしまった。

一見絶望的にも見える状況ですが、希望が無いわけではないように思えます。というのも、まだ日南は正しいものを見つけて、この世界を肯定しようとあがいているからです。この世界を、人生をあきらめてしまった人間なら何もしない廃人のような状態になるだけですが、日南は反発して生き続けてきました。ここには希望を見出せるのではないでしょうか。

余談ですが、ここに日南がたまちゃんのことを特に好きになっている理由も見えるでしょう。彼女は他の人と比べて(絶対的ではないにせよ)正しく、またその正しさから逃げるという選択をしません。現実と折り合いをつけるという形で正しさを曲げることはあっても、折れることはしないのです。何なら、たまちゃんがこの作品に登場する理由もここにあるのではないかとすら思います。竹井は竹井なのでおいといて、たまちゃんだけヒロイン枠でもなく、彼氏がいるわけでもないんですよね。みみみの太陽としての役割はありますが、言うてもそれだけです。となると、この正しさ枠としてたまちゃんがいる気がします。

話を戻しますが、日南が正しさを追い求めている以上、今の方法以外でこの世界、そして自分自身を肯定できるような方法や絶対的な正しさとやらが提示できさえすれば、少なくとも日南は今の状況は脱することができるかもしれないのです。
また先述の通り、アタファミで攻めていくのが難しそうになってしまいました。となると、8巻以降でずっと積み上げてきたアタファミで「人生の楽しみ方を教える」というアプローチは厳しいわけです。そもそも「正しさ」と「やりたいこと」というものは対極とは言わずとも、かなり遠くにあるものであることが多いです。日南の本質に気づかず、あるいはそこから目を背けた状態での「やりたいこと」本位のアプローチが効果的であることのほうがおかしいくらいです。

そういうわけで、12巻(あるいはそれ以降)で取られるアプローチはまったく新しいものにしなくてはなりません。そこで一つの可能性として私が考えたのが、友崎が自分の業と向き合い、それに付随する問題を解決するというものです。友崎が背負う究極的な個人主義という業は、ある意味で日南が今ある状況に近いでしょう。

また、日南を救うためにするべきではないかと思われることが一つあります。それが友崎の過去に潜っていくことです。
考えてみれば、私たちは友崎の高校一年生までを知りません。アタファミを始めたのが3年前。それだけはわかっても、それ以外の情報はほぼ与えられていません。どこの中学校に通っていたのか(最寄り駅的にみみみと同じ浅原中学校である可能性もありますが、一巻でもそのような描写が無かったので分かりません。ちなみに一巻時代のみみみは黒髪という設定だったりします)、部活はしていたのか、どうして関友に入ったのか、アタファミを始める前は何をしていたのか。全部書いていないはずです。

ですがこれは裏を返せば少しメタい話、創作者側がここを掘り返す(あるいは今からでも付け足す)余地が十分に残っているということです。そしてそこにこの問題を解決するヒントを見出させることも不可能ではないと思います。

そもそも人の過去に、そして本性に向き合おうとするとき、自分の過去と向き合わないままで進めるでしょうか。
10巻の270pに「それが日南葵の物語のすべてでは、ないと思った」という文章があります。人の人生を物語にたとえるのは非常にわかりやすく面白いと思います。では、物語を読むとき、途中から読むという人はいるのでしょうか。答えは否でしょう。
そう、最初から設定を理解して、その世界を咀嚼して、キャラクターと対話しながら読むことによってようやく、物語を理解することができます。
これは誰の物語に対してもそう。日南に対しても、友崎に対しても。
友崎が個人的に背負う業(圧倒的な個人主義)は、果たしてアタファミをはじめてからの三年間だけで生まれたものなのでしょうか。それとももはや生まれつきなのでしょうか、何か別の明らかなきっかけがあったのでしょうか。
そうしたものを振り返り、内省することによって見えてくるものもあるのではないかと思います。就活の自己分析みたいなものです。
これにより自分が背負う業が真の意味で自分が背負うものになった過程を明らかにし、またその業と向き合うことで業を構造的に分析でき、他人の――日南の背負う業と向き合う方法もうっすらと見えてくるかもしれません。

ここで菊池さんも活躍してくれるでしょう。菊池さんに敢えて自分を取材してもらったりしたら、菊池さんも自分の業と向き合うことになりますし、友崎も自身の業と向き合うことになります。そして同時に、互いの業についても思いを巡らせることになるので、他人の業と対峙する予行演習のようなものにできる気がします。あくまで私の勝手な考えですが。

また、11巻の締めでもありましたが、キャラクターみんなに活躍してもらう必要があるのは間違いないでしょう。たまちゃんにはたまちゃんだけができることがあり、水沢には水沢だけができることがあり、泉には泉だけができることがあり、中村には中村だけができることがあり、みみみにはみみみだけができることがある。竹井は竹井です。みんなで補い合うのが一番早いですから。ドラクエも一人で冒険するのはⅠだけです。
ただこれでそれぞれに何ができるのかとかを考え始めると本当に更新できなくなってしまうので、ここでとどめておきます。

まとめると、登場人物それぞれの「業」など、人間の深い部分に関しての分析や内省を通して、日南という底が見えない海の奥まで潜るヒントが見つかるのではないか、ということですね。そしてそれを物語の形にすることができれば、日南の奥底を照らす光になるのではないでしょうか。

また、もう少し別のアプローチを考えてみましょう。
先ほどは日南に世界を、自分自身を肯定させる方法や絶対的な正しさを提示できれば、というのが入口でしたが、もう一つ入口を考えてみます。
そのもう一つというのが、断絶を飛び越え、日南が光も届かない深海のような世界からカラフルなこちら側の世界に踏み出してくる「理由」を与えるというもの。何ならこっちがメインかもしれませんね。どうして今まで思いつかなかったのか。
ちなみにこうした描写は11巻の37pにありました。

また、行動に付随した「理由」という点に絞って考えると、人の行動を車にたとえて、意志の強さなどをエンジンに、推進力や実行力を車輪にたとえ、それらをつなぐものに理由が必要なのだとする表現がありました。
ただ、原文を見つけられなかったため、正確性は定かではありません。少し表現が違ったかもしれません。私としたことが。
しかし、こうした表現があったのは間違いありません。
これに落とし込んで考えてみると、日南にはエンジンと車輪をつなぐ一番重要なものが欠落していることになります。それがなければただ空回りしてしまうだけで、ガソリンが無駄に消費されてしまいます。

そもそも日南は、なぜ「理由」を必要とするようになったのでしょうか。
それは間違いなく渚の事件がかかわっていて、そしてそこから母親が決定論的宗教によりハマってしまったことが原因にあると思います。
元から違和感を覚えていた母親の宗教がらみの一面ですが、いじめ問題を、そして渚の死そのものを、決定論的に正当化しようとしたことにより、それまでに受けていた自分への肯定の言葉が同じものから来ていたことに気づいてしまい、拒否反応を示してしまうようになったのではないでしょうか。
その結果として、自分を肯定することにも、そしてその前の行動にも、絶対的に確立された理由を欲するようになったのだと思います。

この理由を与えるというアプローチにおいても、物語を届けるというのは既定路線で間違いないでしょう。
では、どのような物語を作り上げれば、日南に届くような理由を提示することができるのでしょうか。
こんなことを言っておいてなんですが、今の私では思いつきません。私程度で思いついているのなら屋久先生も思いついてもう12巻は刊行されています。おいこら、逃げるなという声が聞こえますが、落ち着いてください。
まず、日南がこちら側をうらやむような眩しい物語を作る可能性についてですが、日南はこちら側の眩しい一面を知っています。そのうえで満たされず今の状態に陥っているので、もはや論外です。
次に、日南の劣等感を煽る可能性。これは正直逆効果どころではなさそうなので、これもなさそうですね。
それでは、日南葵の人生をもう一度再現した物語を作るというものはどうでしょうか。何か見えそうな気もしますが、何がどうなるのか正直なところわからなさすぎてパスです。
最後に、少し変わり種ですが、ひなみあおいの人生を再構築するという可能性も考えてみました。あの病院で閉ざされてしまったひなみあおいの人生ですが、そのまま歩んでいた場合の人生を物語にして構築してしまうというものです。
何かが起こる可能性は一番秘めているのかな、とは思いますが、これもまた何がどうなるかが未知数すぎます。また、あまりにも菊池さんにのしかかる責任と重圧が重すぎる気がします。日南を納得させられるだけの物語を作りあげるのはそう簡単ではないでしょうから。

とまあ、ほかにもいろいろと可能性は考えてみましたが、どうしてもうまくいく具体的な景色が見えてこなかったです。
ということで、先ほど言ったようにこれ以上はこの世界の神であるところの屋久先生にお願いするしかないでしょう。やっちゃってください。

最後に

今回は自分のお気持ち表明をちんたらとしすぎたせいで、異常に長くなってしまいました。なんですか、1万8000字オーバーって。卒論かけてまうぞ。

しかもこの記事、公開には少し時間がかかりましたが、日南を救う方法を模索する章まではほぼ二日で書き上げています。自分の暇さにびっくりする。
逆に言えば、その章だけで結構な時間をかけているということです。日南葵、あまりにも厄介な女。パーフェクトヒロインにもほどがある。わざわざ8巻から11巻まで全部読み直しましたからね。あと6.5巻のプレパーフェクトヒロインの憂鬱も。書くのよりもこの読み直しの時間のほうが相当長かったです。なんせ私は本を読むのが遅いので。

にしても、11巻のあとがきってめちゃくちゃ性格悪いですよね。日南が持っている花について言及していますが、その答えがわからない以上考察が止まらない。時間が溶ける溶ける。
また、目を合わせて会話してみてと言っていますが、この意味が分かったのが電子版で表紙を読みなおしてからなんですよね(ちなみに私は紙で二冊(失くしたと思って買いなおした翌日見つかりました)、電子で一冊11巻を持っています。ほかの巻も両方で一冊ずつ持っています。当たり前ですよね)。

なんと日南の目の中にもう一つ、緑色をした瞳が描き込まれているではありませんか。紙だとめちゃくちゃ顔を近づけてようやく見えるくらい小さく。
これ、誰の瞳でしょう。個人的には①昔のひなみあおい、②日南渚 の2つの可能性が考えられると思っています。個人的には渚なのかなとは思いますが、どちらにしてもこれでこの花全体の意味が見えてくると思います。

つまり、緑色の瞳は日南の過去とのつながり、あるいはそこに囚われていることを示していて、花全体が日南葵を示している。そしてあとがきから分かるように、花は日南の制服、すなわち着飾っている部分を示しているわけです。これらを総合すると、花の部分は日南の虚飾の部分を示していて、茎の部分はひなみあおい、すなわち昔の日南、ないしは「素の日南」を示しているように思われるのです。

だからどうしたって話ですし、これが正しい確証なんてかけらもないですが、こうした考察をして日南に思いをはせている時間が案外面白いので仕方ないのです。あなたも自分の好きな作品で同じことをしてみてください。一日が終わっていることでしょう。残業になっても責任はとりません。

というわけで、死ぬほど長くなってしまいましたが、ここまでこんなに散らかった文章にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
10回目の節目に好きなものを好きなだけ書くことができてよかったです。あと何年かかるか分かりませんが、12巻が刊行される日を待ちましょう。
次の記事もいつも通り何も決まっていませんが、また更新した際には読んでいただければ幸いです。ほな。


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