「ドーピング公認」という設計──エンハンスト・ゲームズが本当に売っているもの
ドーピングOK、という言葉が先行している。
2026年5月24日、アメリカ・ラスベガスのResorts World(リゾーツ・ワールド)で、世界初の「パフォーマンス増強物質の使用を公認した国際マルチスポーツ大会」が幕を開けた。
エンハンスト・ゲームズ(Enhanced Games)。
水泳・陸上・重量挙げ・ストロングマンの42名のアスリートが集結した、一夜限りのスペクタクル。
その最終競技、男子50m自由形。
ギリシャのKristian Gkolomeev(クリスチャン・ゴコロメエフ)が20.81秒を叩き出した。従来の非増強記録(Cameron McEvoy、オーストラリア、20.88秒)を塗り替えた瞬間、会場が沸いた。ファーストプレース賞金25万ドル(約3,750万円)に加え、世界記録ボーナス100万ドル(約1億5,000万円)。さらに同日の100m自由形でも優勝しており、一夜の獲得総額は150万ドル(約2億2,500万円)に達した。
これが「ドーピング解禁の大会」だ。だが、本題はそこではない。
ぼくが注目しているのは、この大会の「裏の設計図」だ。
エンハンスト・ゲームズとは何か
発案者はAaron D’Souza(アーロン・ディスーザ)。
オーストラリア出身の起業家・弁護士で、オックスフォード大学でIPlaw(知的財産法)の博士号を持つ人物だ。
構想の原点は、オックスフォード大学の生命倫理学者Julian Savulescu(ジュリアン・サヴァレスク)教授が発表したアカデミックペーパー──ドーピング許可型スポーツ競技の倫理的是非を論じた学術論文だった。D’Souzaはこう語っている。
「それは私のアイデアではない。私はただ、これをビジネスにしようと思っただけだ。」
学術的な問いを、商業的な事業に変換した。その転換の速さと胆力が、このプロジェクトを実現に導いた。
競技種目は水泳(50m・100m自由形、50m・100mバタフライ)、陸上(100m、110m/100mハードル)、重量挙げ(スナッチ、クリーン&ジャーク)、そしてストロングマン展示。会場はラスベガスのリゾーツ・ワールド内に特設された4レーン50mプール、6レーンスプリントトラック、重量挙げステージ。大会はYouTubeと公式サイトでグローバルに生配信された。
誰が作り、誰が金を出しているのか
資金調達の構造を見ると、この大会の本質が見えてくる。
以下は、2024年1月のシードラウンドに集まった顔ぶれになる。
▼Peter Thiel(ピーター・ティール)──PayPal共同創業者、Facebookの最初の外部投資家、資産約62億ドル(約9,300億円)
▼Christian Angermayer(クリスチャン・アンガーマイヤー)──バイオテック・ロンジェビティ領域で25億ドル超を運用するApeiron Investment Group代表
▼Balaji Srinivasan(バラジ・スリニヴァサン)──元Coinbase CTO・暗号通貨投資家
▼Donald Trump Jr.(ドナルド・トランプ・Jr.)の投資ファンド1789 Capital
初期資本は約1,000万ドル(約15億円)。
その後4,000万ドル(約60億円)の追加プライベートプレースメントを経て、SPAC(特別目的買収会社)との事業統合によりNASDAQへの上場を果たした。評価額は12億ドル(約1,800億円)。
D’Souzaとピーター・ティールの関係は、エンハンスト・ゲームズより10年以上前に遡る。
2013年、プロレスラーのHulk Hogan(ハルク・ホーガン)がメディア企業Gawker(ゴーカー)を訴えた訴訟──1億4,000万ドル(約210億円)の賠償判決を勝ち取り、Gawkerを倒産に追い込んだあの訴訟──において、D’Souzaはティールが資金提供した側の訴訟弁護士として関与した人物だ。その縁が、投資家としての関係に発展した。
彼らがエンハンスト・ゲームズに見ているのは「スポーツという観点」ではない。ティールもアンガーマイヤーも、老化を「解決すべき課題」として事業を組む投資家たちだ。
アンガーマイヤーは自身のサイトでこう書いている──「老化は防ぎ、治し、逆転できる」。彼らにとって、エンハンスト・ゲームズはその世界観を実証する装置だ。
ルールの実態──何でもありではない
この大会のルール──最も誤解されている部分だ。
エンハンスト・ゲームズには明確なルールがある。
使用が認められる物質は、アメリカ食品医薬品局(FDA)が承認したものに限られる。
具体的には、テストステロン、ヒト成長ホルモン(HGH)、EPO(エリスロポエチン)などが含まれる。WADAが禁止リストに載せている物質でも、FDAの承認を得ていれば使用可能という設計だ。
競技前には医師による健康診断と身体状態の事前把握が義務付けられ、使用物質・投与量の開示が条件。医師の監督下での管理が前提とされている。
「エンハンスト・ゲームズは制限物質の無差別使用を推奨しているのではない。私たちが提唱しているのは、安全で責任ある、臨床的に監督された使用だ。」
一方、競技で達成された記録は国際スポーツ連盟に公認されない。
ゴコロメエフが叩き出した20.81秒は、World Aquatics(世界水泳連盟)の公式記録帳には存在しない。
また、PED(パフォーマンス増強薬)なしで競技に臨んだ選手もいた。Fred Kerley(フレッド・カーリー)とHunter Armstrong(ハンター・アームストロング)が明言している。参加の動機も選択肢も、一様ではない。
主な参加選手の顔ぶれを挙げると──
水泳では、パリ五輪50m自由形銀メダリストのBen Proud(ベン・プラウド、英国)、五輪金メダリストのCody Miller(コーディ・ミラー、米国)、元世界100m自由形王者のJames Magnussen(ジェームス・マグヌッセン、オーストラリア)。
陸上では2022年世界選手権100m王者・五輪2冠のFred Kerley(フレッド・カーリー、米国)。重量挙げ・ストロングマンではHafthor Bjornsson(ハフソール・ビョルンソン、アイスランド、俳優兼ストロングマン選手として知られる)。
WADA・IOC・各国と選手の反応
国際スポーツ界の反応は、ほぼ全方向から批判だった。
WADA(世界アンチ・ドーピング機関):
「エンハンスト・ゲームズを危険かつ無責任なコンセプトとして非難する。アスリートの健康と安全が我々の最優先事項だ。このイベントはエンターテインメントとマーケティングの目的でアスリートに強力な物質の使用を促すものであり、それを脅かす。これまで、禁止物質の使用が多くのアスリートの身体と精神に深刻な影響を与えてきた事例がある。命を落とした者もいる。」
IOCアスリート委員会とWADAアスリート評議会の合同声明:
「エンハンスト・ゲームズ、またはパフォーマンス増強物質の使用を奨励するあらゆるイベントは、私たちが信じるすべてのものへの裏切りだ。このような物質の使用を推進することは、現在と将来のアスリートの世代に、危険なメッセージを送ることになる。」
Travis Tygart(トラビス・タイガート)、米国アンチ・ドーピング機関(USADA)CEO:
「これは危険な茶番だ。」
World Aquatics(世界水泳連盟)は、エンハンスト・ゲームズへの参加・支援をした者を──選手・コーチ・スタッフ・行政関係者を問わず──自連盟の競技への出場不可とする規定を設けた。
「ドーピングスポーツを可能にする者は、World Aquaticsの大会に参加する資格はない。」
この規定を受け、Ben Proud(ベン・プラウド)は2025年9月に国際水泳から引退を表明してエンハンスト・ゲームズへ合流した。国際舞台への復帰の道を自ら閉じた決断だった。Aquatics GBは彼への資金援助を終了し、「このイベントには信頼性がない」と声明を出している。
一方、D’Souzaは反論する姿勢を崩していない。
「アスリートたちには、伝統的な連盟が決して与えなかったものがある──選択肢、公正さ、そして本物の報酬だ。」
政治的文脈も絡んでいる。2026年、Robert F. Kennedy Jr.(ロバート・F・ケネディ・Jr.)率いるFDAがテストステロン処方規制を緩和し、特定のペプチドをCategory 2(制限)からCategory 1(許可)に変更した。この規制変化にエンハンスト・ゲームズはすぐさま対応している。大会開催の数週間前というタイミングだった。
本当の事業設計──スポーツを「証明装置」として使う
ここからが「エンハンスト・ゲームズの本質」の話だ。
エンハンスト・ゲームズの本体は、スポーツイベントではない。
「Live Enhanced(ライブ・エンハンスド)」というダイレクト・トゥ・コンシューマー(D2C)テレヘルスプラットフォームだ。(日本で言うと「D2Cのオンライン医療プラットフォーム」に近いイメージ)
2026年3月18日に正式ローンチ。テストステロン療法、ペプチド、ロンジェビティ(長寿)プロトコルを一般ユーザーに販売する事業体として動いている。
D’Souzaはそのビジネスモデルをこう説明した。
「スポーツマーケティングを使って、ヒューマン・エンハンスメント製品を売る。HimsやRomanと同じようなモデルだが、ぼくたちには証明がある。ぼくたちのアスリートが世界最速で世界最強だという事実が。」
Red Bull(レッドブル)がエクストリームスポーツの映像を使ってエナジードリンクを売ったように、エンハンスト・ゲームズはアスリートの身体的証明を使って「生物学的最適化製品」を売る設計だ。アスリートは広告塔ではなく、製品の「証拠(evidence)」として機能する。
さらに、もう一段深い設計がある。参加アスリートの使用物質・投与量・身体パフォーマンスデータは構造化されたデータセットとして蓄積される。エンハンスト・ゲームズ側は「エンハンスト・ヒューマン・パフォーマンスに関する史上初の大規模構造化データセット」と位置付けており、このデータが新しい健康製品・研究の開発資産になる。アスリートは選手であり、データ提供者でもある。
ロンジェビティスタートアップ(※)への投資が2024年に85億ドル(約1兆2,750億円)に達した市場の中で、この大会はその入口を設計した事業体だ。
「これは世界の2大産業が融合する瞬間だ──ヘルスケアと、スポーツ・エンターテインメント。」
※ロンジェビティスタートアップ…「長寿」や「老化防止」を事業にしたスタートアップのこと。テストステロン補充、遺伝子解析、アンチエイジング薬など、人間の寿命を延ばしたり老化を遅らせることをビジネスにしている会社群。シリコンバレーで急成長している領域。
まえけん的視点|「証明装置」としての競技設計
エンハンスト・ゲームズが突きつけているのは「ドーピングは善か悪か」という問いではない。
本質の問いは、「アスリートの身体・パフォーマンス・ストーリーは、何と交換できるか」という設計の問いだ。
Red Bullがスポンサーシップを「広告費」ではなく「コンテンツ制作費」として設計したように、エンハンスト・ゲームズは競技大会そのものを「製品の実証実験場」として設計した。大会は目的ではなく、手段だ。
ぼくが気になるのは、日本のアスリート市場への波及だ。日本の選手は世界トップレベルの競技力を持ちながら、IPやパーソナルブランドの設計は、旧来の事務所モデルの枠内に収まっていることが多い。エンハンスト・ゲームズが可視化したのは、「競技の外側でどう設計するか」が競技成績と同等、あるいはそれ以上の価値を持ちうる時代の到来だ。
ピーター・ティールたちはスポーツに投資したのではない。人体の最適化という兆ドル規模の市場に、スポーツという「証明装置」を使って参入した。倫理や健康リスクの議論は重要だ。WADAが指摘する問題も、選手が競技人生を閉じるリスクも、軽視していい話ではない。
次にこの設計が応用される領域は、スポーツとは限らない。
本記事はVariety・Deadline・Hollywood Reporterをはじめ、アメリカ・韓国・東南アジア・ヨーロッパのグローバル業界メディアおよび公式プレスリリースを直接読み、構成しています。市場規模・収益データはMedia Partners Asia・Omdiaなどのリサーチファームの調査をこれらメディアが報じたものを参照しています。
出典:
Enhanced Games公式サイト “Seed Funding Announcement”(2024年1月)
https://www.enhanced.com/newsroom/seed-funding-announcement
Enhanced Games公式サイト “Enhanced Games Announce Host City and Dates”(2025年5月)
https://www.enhanced.com/newsroom/enhanced-games-announce-host-city-and-dates-breaks-swimming-world-record
Yahoo Sports “Enhanced Games results: Swimmer Kristian Gkolomeev breaks world record in final event, Fred Kerley falls short”(2026年5月)
https://sports.yahoo.com/olympics/article/enhanced-games-results-swimmer-kristian-gkolomeev-breaks-world-record-in-final-event-fred-kerley-falls-short-235007226.html
NPR “The Enhanced Games are Sunday. Here’s what to know about the controversial event”(2026年5月)
https://www.npr.org/2026/05/24/nx-s1-5831252/enhanced-games-steroids-olympics-trump
TechCrunch “Enhanced Games founder on the controversial ‘future of sports’”(2026年3月)
https://techcrunch.com/podcast/enhanced-games-founder-on-the-controversial-future-of-sports/
The Conversation “The Enhanced Games, or ‘steroid Olympics’, are on. They pose risks for athletes and those watching”(2026年5月)
https://theconversation.com/the-enhanced-games-or-steroid-olympics-are-on-they-pose-risks-for-athletes-and-those-watching-283579
Sky Sports “Enhanced Games: What are they, who is behind them, and who will be competing?”(2026年5月)
https://www.skysports.com/more-sports/swimming/news/32461/13546340/enhanced-games-what-are-they-who-is-behind-them-and-who-will-be-competing
BBC Sport “Enhanced Games swimmer ‘breaks world record’”(2025年)
https://feeds.bbci.co.uk/sport/swimming/articles/c629996lnkro
Fitt Insider “Enhanced Games Uses Competition to Sell Performance Medicine”(2026年5月)
https://insider.fitt.co/performance-medicine-enters-the-arena-enhanced-games/
Sporting Goods Intelligence “Enhanced Group NYSE: The telehealth play behind the Games”(2026年5月)
https://www.sgieurope.com/corporate/enhanced-group-sport-as-proof-of-concept/120995.article
World Aquatics “World Aquatics bans Enhanced Games athletes from its competitions”(2025年)
Global Times “IOC, WADA athletes commissions decry Enhanced Games”(2025年)
https://www.globaltimes.cn/page/202506/1335955.shtml
為替レート:1ドル=150円(2026年5月時点・概算)
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👉 https://forms.gle/C74tsAgeY69HmK6f6
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