あなたは、どこまでを「家族」と呼びますか。――凪良ゆう『多類婚姻譚』が揺さぶった、私の中の「当たり前」
家族って、何だろう。
凪良ゆうさんの『多類婚姻譚』を読み終えたあと、私の中に残ったのは、「面白かった」という感想よりも、
この問いだった。
もっと正確に言えば、
「私は、何を根拠に誰かを『家族』と呼んでいるんだろう」
という問いだった。
読み進めるほどに、物語の中に描かれた世界が、決して遠い話ではないように感じられてくる。
むしろ、そこから見えてきたのは、私たちが普段あまり疑うことなく使っている「家族」という言葉そのものだった。
「家族」という言葉を、私たちは疑わない
夫婦。
親子。
きょうだい。
血がつながっている人。
一緒に暮らしている人。
法律上の関係がある人。
私たちは無意識のうちに、そうした条件を組み合わせて、「家族」というものを思い描いている。
そして、その型から少し外れた関係を見ると、
「珍しい」
「特殊だ」
「普通ではない」
と感じてしまうことがある。
でも、その「普通」は、一体誰が決めたものなのだろう。
『多類婚姻譚』を読んでいて、私はそこに引っかかった。
これは単純に、
「家族にはいろいろな形があっていいよね」
という多様性の話だけではない。
むしろ、自分自身が無意識のうちに、
「家族には、こういう条件があるはずだ」
という型を持っていたことに気づかされる。
そして、その型を、知らないうちに他人にも当てはめていたのではないか。
そんなことを考えさせられた。
家族を決めるのは「形」だけではない
家族について考えるとき、私たちはつい目に見える「形」に目を向ける。
何人で暮らしているのか。
どんな関係なのか。
誰と誰が結婚しているのか。
血がつながっているのか。
けれど、人と人との関係は、そんなに簡単に図式化できるものではない。
誰かを大切に思う。
誰かの人生を気にかける。
困ったときに支える。
その人の喜びを、自分のことのように嬉しく思う。
そうした時間の積み重ねの中で、「私たち」と呼べる関係が生まれることもある。
だとしたら、家族とは、単に人数や血縁、制度だけで決まるものではなく、
「どこまでを『私たち』と呼ぶのか」
という、人と人との関係性の中にも存在するものなのかもしれない。
「家族だから」という言葉は、人を支えることも、縛ることもある
そして、もう一つ強く考えたことがある。
それは、
「家族だから分かって当然」
という無意識の前提についてだ。
家族なら分かってくれる。
家族なら言わなくても伝わる。
家族なら、自分のことを一番理解しているはず。
確かに、長い時間を共にしてきたからこそ通じ合える部分はある。
けれど、どれだけ近くにいても、同じ人間になるわけではない。
育ってきた環境も、大切にしている価値観も、傷ついた記憶も、これから歩む人生も、一人ひとり違う。
だから、
「家族だから分かるはず」
という期待が、時に相手を苦しめることがある。
「あなたのためを思って」
「家族なんだから」
そんな言葉の中には、相手を大切にしたいという気持ちが含まれていることもある。
だからこそ、難しい。
愛していることと、相手を理解できていることは、決して同じではない。
愛情があるからこそ、相手の人生に踏み込みたくなることもある。
心配だからこそ、相手の代わりに答えを出したくなることもある。
「あなたのためだから」と言いながら、いつの間にか相手の選択肢を狭めてしまうことだってある。
『多類婚姻譚』を読みながら、私はそんな「愛情の中にある境界の曖昧さ」について考えていた。
愛は、ときどき境界線を越えてしまう
私は、精神看護の現場に携わっている。
精神看護では、人を一人だけ切り離して見るのではなく、家族や友人、地域など、さまざまな人との関係の中で生きる存在として捉える。
人は誰かとの関係の中で傷つき、支えられ、変化していくからだ。
だからこそ、人と人との間にある「境界線(バウンダリー)」を考えることは、とても大切になる。
自分と相手は、別の人間である。
相手には相手の人生があり、自分には自分の気持ちがある。
けれど、境界線は「近ければ悪い、遠ければ良い」という単純なものでもない。
近いからこそ支えられることもある。
離れているからこそ守れるものもある。
大切なのは、
「相手と自分は違う人間である」ということを忘れないこと。
それぞれの人生を持ちながら、それでもつながっていること。
その関係を、その時々で丁寧につくっていくことなのだと思う。
臨床の現場でも、「家族」を一括りにはできない
医療や福祉の現場でも、「家族」という言葉は一筋縄ではいかない。
「家族だから支えてくれるはず」
「家族が本人の気持ちを一番分かっているはず」
そんな前提で関わってしまうと、その陰で家族自身が抱えている苦しさや限界を見落としてしまうことがある。
反対に、
「家族なんだから、本人を支えるべき」
という言葉によって、家族自身が追い詰められていることもある。
家族だからこそ救われる場面がある。
一方で、家族だからこそ深く傷つくこともある。
そして時には、「離れること」が、その人にとって必要な選択になることだってある。
だから必要なのは、
「家族だから、こうあるべき」
という型に当てはめることではない。
「この人たちは今、どんな関係性の中で生きているのか」
を、そのまま見つめることなのだと思う。
近いことと、同じことは違う
大切にする。
でも、所有はしない。
支える。
でも、相手の人生を代わりに生きることはできない。
理解したいと願う。
でも、「分かったつもり」にならない。
私は、この静かな距離感が、家族をはじめとするあらゆる人間関係に必要なのだと思う。
誰かを本当に大切にするということは、
「あなたのためだから」
と代わりに答えを提示することではないのかもしれない。
むしろ、
「私はこう思う。でも、あなたはどうしたい?」
と問いかけること。
そして、相手の人生のハンドルを、相手の手に返し続けること。
それもまた、一つの愛情なのではないだろうか。
「家族だから」という言葉を、もう一度考えてみる
「家族だから」という言葉は、人を支える言葉にもなる。
けれど同時に、人を縛る言葉にもなり得る。
「家族なんだから、こうするべき」
「家族なのに、どうして分からないの」
「家族なら、最後まで面倒を見るべき」
そこには愛情があるのかもしれない。
責任感があるのかもしれない。
長い年月を共にしてきたからこその思いもあるだろう。
それでも、その言葉が強くなるほど、目の前にいる「ひとりの人」が見えなくなることがある。
「家族」という関係を大切にすることと、
「家族だから」という理由で相手を決めつけることは、同じではない。
もしかすると必要なのは、
「家族とは何か」という答えを持つことではなく、目の前の人との関係を、その都度問い直すこと
なのかもしれない。
あなたは、どこまでを「家族」と呼びますか?
『多類婚姻譚』は、「正しい家族の形」という答えを与えてくれる本ではない。
むしろ、自分の中に知らず知らずのうちに引かれていた、「当たり前」という透明な枠を、そっと揺り動かしてくれる一冊だった。
家族。
友人。
他人。
支援する人。
支援される人。
私たちは、日々の人間関係の中で、さまざまな境界線を引いている。
でも、その線は最初から決められているものではない。
誰かと出会い、関わり、傷つき、支えられ、ときには距離を置きながら、少しずつ変わっていくものなのだと思う。

