ドパガキの一歩先へ
最近「ドパガキ」が流行っている。
文字通り「ドーパミン中毒のガキ」という意味で、
簡単に得られる小さな刺激を常に求めてしまう人を
揶揄するような言葉だ。
でも考えてみれば、子どもなんて
昔からそんなものだった。
同じアニメを飽きるまで見続けたり、
気に入った曲を何回も聴いたり、
芸能人やYouTuberの言い回しを延々と口ずさんだり。
大人からすれば「またそれ?」と思われることを
延々とやり続けるものだろう。
だが、そういったドパガキを疑われる大概のケースで
人はちゃんと飽きてやめるものだ。
人はどんな刺激にもそのうち不感症になって慣れてしまうので、
ちょっとした刺激だけで十分だと思える時期なんて長くは続かない。
繰り返し続けては飽き、別のものを好きになってまた繰り返す、
そのサイクルが続いて本当に好きなものができたときに
衝動は自然と落ち着く。
本当に好きになれるものには、簡単には攻略されない
十分な深さが必要だ。となると、会話のように
自分一人では解決しないエンドコンテンツ的な
ものがいいんじゃないか?という提案はできるが
そこから始めるのはあまり有効とは思わない。
会話をするには相手の話を聞いて、その背景を想像して、
自分の経験と照らし合わせて感想を伝えたりする
やり取りが必要で、その為にはまず自分の特性について
深掘りしたり、客観的な観点を持ったり
視点の深さや高さが必要になる。
だから会話というエンドコンテンツに挑む前に、
一人で思想を深められる様々なコンテンツに触れるのがいいと思う。
コンテンツの中でもおすすめしたいのは読書だ。
読書は自分のペースで進められる。
映像や音楽だと、理解する前に勝手に先に進んでいってしまい何度も聞かなければならないが、
読書は理解するまで先に進まないことができる。
何より良いのは、一度読んでしまえばある程度は反芻できることだ。
例えばアニメや音楽なら断片的には思い出すこともできるが
あのときと同じ感動を味わおうとするなら
もう一度見たり聴いたりする必要がある。
しかし本なら一度読んでしまえば、回想だけで、頭の中だけで遊べる。
人は言葉を頼りに過去を思い出し、
言葉をもとに現在の足場を固め、
言葉を定めて未来を探る生き物だからだ。
アニメも音楽でその時感じた思いや得られた学びも、
結局は言葉になる。それなら最初から文字の形で得てもいい。
寝る前の孤独な時間、目を閉じ空想する。
現実で似たような出来事があったときに
「この場面、あの小説にあったな」と回想する。
物語の人物ならこの状況をどう乗り切るかを想像する。
本を読んでも現実は変わらないが、
現実を見るときの視点が一つ増えるだろう。
自分の中に複数の視点を持つことは
複数の人生を生きるのと同じことで、
それは快楽を超えた拡張性の獲得を意味している。
快楽という点で見れば、読書をするのも
SNSを見るのもゲームをするのも大差ない。
短時間で娯楽を終えられるのなら、ドパって済むなら
それはそれで効率的と言えるだろう。
だがもし快楽以外を求めるのなら、読書は選択肢に入るはずだ。
快楽を超えた、ドパりの一歩先へ。
その先にあるのは他者への理解かもしれないし、
新たな自身かもしれない。
