【エッセイ】ここに自分以外がないとして
我思う故に我あり
デカルトさんの有名な言葉です。
この言葉の本来の意味は
世界のすべてが疑わしいと疑ったとしても、
今まさに『疑っている自分』が存在すること
それだけは、絶対に疑いようのない事実である
大体そんな感じです。
では、
自分は確かに存在するとして
周りを全て変えてしまったらどうでしょう
例えば、何もない空間
そこにあるということすら認識できない虚無
生存と思考だけが許された空間
私たちは、そこでも考えられます。
脳みそも、心臓も、肺も動いています。
百年先も
今とおなじことを考えることができ
何も足されず
何も引かれない空間
前提として自分は存在するとしているので
確かに存在はしているんですよ
身体の感覚があるわけですし
存在そのものは疑いようがないですが
しかして果たしてそこに自分はいるでしょうか?
我々は
りんごにりんごという名前をつけて
自分以外を言葉と意味で切り分けます。
自分が今座っているのは椅子だし
隣のあの子の名前は田中さんです。
スマホを操作して、日本語を打ち込んでいます。
自分には、四肢と胴と脳からなる体があります。
自分以外があって
自分がいて
それで初めて自分を認識できるのではないでしょうか?
自分以外のこの世界のすべては
自分を認識する鏡になっているのではないか
と
そういうことです。
つまり
何もない空間で
自分以外の何もない空間で
自分がいるという確たる確証を得ることは難しく
自分の思考さえも
比較対象も見せる相手もいないなら
それがあるのかという確証を得られない
人は比べたり
見たり
名前を付けたり
言葉をもらったり
そういう営みがあってこそ
人は自分が自分であり
そしてここにいることを理解できるのでしょう
つまり、自己とは孤立した存在ではなく、
世界との「関係性」そのものなのです。
何もない虚無の中では、
思考さえも行き場を失い、霧のように消えてしまう。
私たちが今ここにいると実感できるのは、
この世界に自分以外の
「何か」が溢れているおかげなのだと言えるでしょう。
きょうはこの辺で
さらばー
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