#拝啓文芸部【壁の向こうの隣人】
午前六時四十三分。
男が起きた。
警察は、向かいの建物からその様子を見ていた。
数日前、この男の部屋を訪れた女性が、そのまま行方不明になっている。
事件との関連を疑い、部屋には監視カメラと盗聴器が仕掛けられていた。
しかし――。
「普通ですね」
モニターを見ながら、刑事の一人が呟いた。
男は朝食を食べ、歯を磨き、身支度を整える。
七時五十分になると家を出た。
そして夜。
男は帰宅すると、夕食を食べた。
風呂に入り、髪を乾かす。
寝る前にテレビを少し見て、電気を消す。
どこにでもいる、普通の男の一日だった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
男は時々、部屋の壁を見つめる。
何もない壁だった。
家具もない。
絵もない。
時計すら掛かっていない。
それなのに男は、壁の前に立つと、嬉しそうに話しかける。
「帰ってきたか」
しばらく壁を見つめる。
「……そうか。おかえり」
また別の日。
男は壁を見ながら呟いた。
「ご飯か?」
少し間を置いて、
「今日は何がいい?」
刑事たちは顔を見合わせた。
「隣の部屋の住人を見てるんでしょうか」
「さあな」
翌朝も男は起きた。
朝食を食べ、出勤する。
夜になれば帰ってくる。
そして、いつものように壁の前に立つ。
「ただいま」
男は笑った。
「今日は早かったな」
壁の向こうから返事はない。
それでも男は、しばらく嬉しそうに頷いていた。
「じゃあ、ご飯にするか」
その壁の向こうには、部屋がなかった。
あるのは、壁と壁の間に作られた、ほんのわずかな空間だけだった。
そこには、女性の遺体が埋められていた。
男が壁を見つめるたび、その女性は帰ってきていた。
ご飯を食べて。
風呂に入って。
洗濯をして。
そして――
男の隣で眠っていた。
了
拝啓文芸部に初めて参加させていただきました。Mr.Q様ステキなお題をありがとうございます。
