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縁界《ENKAI》本編|8話:孤独を知る

1章:縁界《ENKAI》 ― 孤独と声 ―


ラグナードは泉へ向かっていた。いつも通りの時間、いつも通りの道だった。だがその歩みは、以前のように一定ではなかった。岩の影ではなく、泉そのものにシロがいるはずだと思っていた。そう思ってしまう自分がいることに、まだ慣れていなかった。

泉には誰もいなかった。水面は静かで、黒い岩だけがそこにあった。ラグナードはその場でしばらく立ち尽くし、やがて岩陰に身を隠すようにして待った。時間が過ぎても、シロは現れなかった。それでも、来るかもしれないという感覚だけが残り続けていた。

森の方へ気配が流れていくのを感じた。ラグナードは岩から離れ、音を立てないように歩いた。森の奥に近づくほど、複数の気配が絡み合っているのが分かった。殺意ではない。だが、軽いものでもなかった。

木々の隙間から見えた場所で、シロとガルゼインが向かい合っていた。声は途切れ途切れで、誰のものか分からない言葉が間に挟まるたびに、空気だけがわずかに揺れた。怒鳴り合いというより、何かを押しつけ合うようなやり取りだった。

ラグナードはその場に気配を溶かしながら近づいた。止める理由はまだ分からなかった。ただ、そこに入ってはいけない気配ではなかった。

やがてシロがこちらに気づき、ラグナードの名を呼んだ。その声に反応するように、周囲の魔物たちも視線を向ける。ガルゼインが前に出て、森の意思として言葉を落とした。この森にいるべきではない、と。

ラグナードはシロの手を取ろうとした。その動きに、周囲が一斉にざわついた。誰かが叫び、別の誰かが動いた。空気が一つに固まる前に、突進が背後からぶつかり、ラグナードの体は前に押し出された。

次の瞬間、さらに別の衝撃が重なった。動きは連続して、考える間もなく体勢は崩れていく。視界の中でガルゼインが腕を振り上げたのが見えた。その先にあるものを理解する前に、シロが前に出ていた。

衝撃の音ではなく、悲鳴に近い声が森に響いた。時間だけが一瞬だけ止まり、その中心にシロが倒れていた。

ラグナードはそれを見ていたが、理解が追いつかなかった。倒れた場所は少し離れていて、動いているのは分かった。呼吸のようなものがまだそこにあった。

近づいたシロは、途切れ途切れに言葉を落とした。ひとりになってはいけない、と。少し間を置いて、ありがとう、と。

その声を最後に、周囲の空気が変わった。魔物たちが動き出し、ラグナードへと視線を向ける。次に来るものが何かを考える前に、ラグナードは森の入り口へ向かって走っていた。

それが終わりではないことを、誰も言わなかった。


森の入り口近く、地形のくぼみに身を潜めたまま、ラグナードは目を覚ました。体は重く、思考だけがゆっくりと浮かび上がってくる。起きてからしばらくの間、昨日起きたことを一つずつ拾い直すように考えた。

魔界では、死は特別なものではない。生きるための行為が、そのまま死につながるだけだ。それでも、シロがそこに含まれることを、頭ではなくどこか別の場所が拒んでいた。今日もまた会えるのではないかという感覚だけが、形を持たないまま残っていた。

その感覚が胸の奥を締めつけた。熱に近い痛みが広がり、呼吸が乱れる。浅く、速くなった息を抑えようとするたびに、さらに乱れていく。

それでも体は泉へ向かっていた。意識とは別のところで足が動き、何度も通った道をなぞるように進んでいく。魔物の気配は薄くはあったが、消えてはいない。それでも止まらなかった。

泉の黒い岩が見えたとき、ラグナードは足を止めなかった。水辺の縁に、シロがいつもいた場所があった。そこに視線を落としたまま、声にならない言葉だけが浮かんでは消えた。

今日も遅れてくるのか、と、思っただけだった。

その気配はすぐに分かった。見覚えのない魔物が岩の向こうで周囲を探っている。ラグナードは気配を消し、その場で息を潜めた。だが待っても、シロは現れなかった。

夜になると、胸の痛みはさらに強くなった。割れるような感覚が内側から広がり、立っていられなくなる。体は熱を持ち、左腕が意識とは別に動き始めた。形が変わり、重さが増していくのが分かる。

声が漏れた。自分のものとも思えない音だった。

それを聞きつけて、魔物が現れた。言葉も交わさずに飛びかかってきたが、その瞬間に左腕が動いた。振り払うだけの動きで、二体の魔物は吹き飛び、そのうち一体は動かなくなった。もう一体は逃げていった。

静けさが戻ると、痛みも引いていった。理由は分からない。ただ、シロを思い出すときだけ、体の奥が反応しているようだった。

近くのものを口にしても、腹は満たされなかった。動く理由も見つからないまま、時間だけが過ぎていく。

そして、気配がまた近づいてきた。

止まった場所で、声がした。ガルゼインの声だった。

シロは死んだ、と。

これ以上、この森を壊さないでくれ、と。


ガルゼインの声は、それ以上近づいてこなかった。森の向こうに立ったまま、風の流れに紛れるように言葉だけを落としていった。シロはもう戻らない。この森にとっても、ラグナードにとっても、それが結果だということだけが残されていた。

ラグナードはしばらく動かなかった。言葉の意味は理解していた。ただ、それが何を終わらせるのかはまだ掴めなかった。森の音だけが続いていて、その中に自分の呼吸が混ざっていることだけが確かだった。

やがてガルゼインの気配は遠ざかっていった。何かを終わらせるためではなく、終わってしまったものから距離を取るように消えていった。ラグナードはそれを追わなかった。



立ち上がるまでに時間はかからなかった。だが足はすぐには動かなかった。行く場所は最初から決まっているようで、どこにもなかった。それでも体は森の方へ向かっていた。

森の入り口に戻ることは、逃げることと変わらなかった。そこに留まる理由もなかった。かといって外に出ることは、今のラグナードには死と同じ意味を持っていた。どちらにも行けないまま、ただ戻るしかなかった。

以前と同じ場所に戻った。地面のくぼみはそのまま残っていて、そこに座ると、時間の流れが少しだけ鈍くなるように感じた。森は変わっていない。風も、音も、匂いも、ほとんど何も変わっていない。ただ一つだけ、そこにいたはずのものが消えていた。

眠るまでに時間がかかった。眠っているのか起きているのか分からない状態のまま、夜が過ぎていった。夢の中でも現実でも、泉の水面だけが何度も浮かんでは消えた。

魔界の夜は、静かというより濁っていた。空は黒ではなく、重たい色に沈んでいて、その中で森はゆっくりと息をしているようだった。魔物が動き出す時間と、ラグナードが泉へ向かう時間は、いつの間にか重なっていた。

気づけば足が動いていた。意識していなかった。だが道は覚えていた。何度も通った場所だけが、身体の中に残っていた。

泉へ続く途中、ラグナードは足を止めた。そこはシロと初めて会った場所だった。理由はないまま、ただそこに視線が落ちた。

右に行けば、魚を取った川がある。左に行けば、探し回った森がある。どちらも、もう一人では成立しない場所だった。今歩いてきた道だけが、ただの移動として残っていた。

ラグナードは一度だけ振り返った。そして、来た道を戻ろうとした。泉には行かないというより、行く意味がどこにも見つからなかった。

隠れる必要もなかった。足音を消す理由もなかった。ただ歩いているだけだった。以前の自分に戻っただけのはずだった。それでも視界の端が熱を持っていることに気づいた。

左目から何かが落ちた。理由を探す前に、それは次々と溢れた。止めることはできなかった。ただ歩くことだけが続いた。

森の入り口に戻ると、そこには何もなかった。誰もいなかった。元の場所に座り、下を向いたまま目を閉じた。音は遠くなり、時間だけが静かに積もっていった。

どれだけ待っても、もうシロは来ない。 そう思った。 それなのに、胸の奥の熱だけは消えなかった。

ラグナードはゆっくりと胸元へ手を伸ばす。指先が触れた場所に違和感がある。衣を少しだけ開くと、そこには七つ並ぶ傷があった。そのうち一番下だけが黒く変色している。ひび割れたように形を崩し、古い傷跡のように胸に残っていた。

ラグナードは黙ってそれを見つめた。何が起きたのか分からない。ただ、指先がその黒い傷に触れている間だけ、胸の熱がわずかに強くなる。

それは痛みではなかった。 燃えるようでもなく、冷えるようでもない。 ただ、確かに“何かが残っている”という感覚だけがあった。

ラグナードは指を離さず、静かに息を吐いた。 森の空気が冷たい。 それでも、胸の奥の熱だけは消えなかった。


■ 登場人物


■ ラグナード

深淵の森で生きる魔神。強い力も大きな縄張りも持たず、生き残るためだけに森を彷徨っている。この日、ラグナードは初めて理解できない存在と出会う。


■ シロ

深淵の森で生きる白い魔物。誰にも属さず、誰にも従わず、ただ“言葉を持つもの”を探して森を歩いている。かつて言葉を交わした存在を失った記憶を抱えたまま、それでも誰かを見捨てないという選択だけを続けている。この日、彼女は再び森の奥で、理解できない存在と向き合うことになる。


■ ゼルガイン

深淵の森を束ねる群れの長。言葉と意思を持つ存在を観察し、選ばれた者のみを森の構成員として受け入れている。意思を持たないものや言葉を持たないものには強い警戒を向け、森の秩序を維持することを最優先として行動する。かつて群れがまだ形を持たなかった頃からシロと行動を共にしていた過去を持つ。現在も彼女の変化を観察しており、その危うさに強い警戒を抱いている。


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