なぜ私はあなたを人間だと思えないのか|第1章「世界には人間と端末がいる」
私は、世の中の人間の大半を人間だと思っていない。
もちろん、戸籍やDNAの話ではない。
道を歩いている人を捕まえて採血したいわけでもないし、頭蓋骨を開いて脳の形を確認したいわけでもない。そんなことを始めたら、この文章を書くより先に別の場所へ連れていかれる。
私が疑っているのは、もっと単純で、もっと確認しようのないものだ。
その人には、本当に自我があるのだろうか。
私と同じように、自分というものを持ち、自分の頭で考え、自分で理由を作り、自分の意思で選択しているのだろうか。
私は、自分に自我があることについては疑っていない。
痛ければ痛いし、腹が立てば腹が立つ。考えたくもないことをいつまでも考えてしまうし、自分でも馬鹿らしいと思っていることに執着する。
少なくとも、この面倒臭いものが何かしら存在していることだけは分かる。
だが、他人については分からない。
相手が笑えば、私は「楽しいのだろう」と推測する。
相手が泣けば、「悲しいのだろう」と推測する。
相手が自分の意見を話せば、「この人はそう考えているのだろう」と推測する。
全部、推測である。
私は誰かの意識に直接触れたことがない。
これは別に私が発明した問題ではない。
哲学には「他我問題」と呼ばれる古い問題がある。ざっくり言えば、「自分以外にも本当に心があることを、どうやって確かめるのか」という話だ。
さらに「哲学的ゾンビ」という思考実験もある。
見た目も普通。
会話も普通。
怪我をすれば「痛い」と言う。
恋人に振られれば泣く。
映画を観れば感想を語る。
しかし、その内側には何の主観的体験もない。
外から見れば完全に人間なのに、「感じている誰か」だけが存在しない。
そんなものが本当に存在するかどうかは知らない。
ただ、存在しないことを私が証明できるわけでもない。
たとえばジョン・F・ケネディが暗殺されたとき、彼の頭部が致命的な損傷を受けたことは有名だ。
そこには脳があった。
だが、その脳が私の脳と同じ意味で「誰か」を宿していたことを、私はどう確認すればいいのだろう。
構造が似ている。
同じ臓器がある。
同じように血が流れている。
それで十分なのだろうか。
極端な話、地球上の全人類と私を解剖して、内臓も神経も細胞も一つ残らず比較したとしても、それで「全員に私と同じような主観がある」と証明できるわけではない。
人体解剖を数十億人分やった末に「やっぱ分かりませんでした」では、あまりにも労働生産性が悪い。
だから私は、確かめることを諦めている。
その代わり、一つの仮説を持っている。
世界には、私が「人間」と呼ぶ存在と、そうではない存在がいるのではないか。
後者について、私は今後「端末」と呼ぶことにする。
ここでいう端末とは、生物学的にヒトではないという意味ではない。
外見も身体も、普通の人間とまったく区別できなくていい。
違うのは、自我のあり方だ。
端末には、それぞれ独立した意思が存在しない。
その背後には、より巨大な一つの意思があり、個々の身体はその意思が社会の中で動くための端末として機能している。
巨大なAIでもいい。
宇宙規模の集合意識でもいい。
名前は何でも構わない。
私はその正体について特に興味がない。
重要なのは、もしそういう存在がいるなら、私が長い間感じてきた違和感をかなり綺麗に説明できるということだ。
私は昔から、集団の中でうまくやるのが得意ではなかった。
学生時代には、いわゆるスクールカーストのかなり下にいた。
そして20代のほとんどを、友人も恋人もいない状態で過ごした。
大人になってから人間関係を作るうえで、多くの人が10代や20代前半に自然と積んでいるであろう経験が、私には大きく欠けている。
だから私は、人付き合いが下手なのかもしれない。
それは否定しない。
だが、それだけでは説明しにくい感覚がずっと残っていた。
なぜ、これほどまでに周囲と価値観が噛み合わないのだろう。
なぜ、多くの人は同じような言葉を使うのだろう。
「普通はこうする」
「社会ってそういうものだから」
「大人なんだから」
「みんな我慢している」
私はこういう言葉が苦手だ。
内容が嫌なのではない。
理由がないことが嫌なのだ。
なぜそうする必要があるのか。
誰に利益があるのか。
何を守るためのルールなのか。
例外を認めると何が壊れるのか。
そういう説明があれば、納得するかどうかは別として理解はできる。
だが「社会ってそういうものだから」で話が終わると、私は妙な感覚になる。
この人はいま、本当に自分で喋っているのだろうか。
どこかに巨大な台本があり、それを読み上げているだけではないのか。
もちろん、現実には単なる同調圧力かもしれない。
文化かもしれない。
教育かもしれない。
組織行動かもしれない。
人間には集団に合わせる性質がある、で終わる話かもしれない。
それでも私には、それらすべてを一つの巨大な意思として見た方がしっくりくることがある。
個々の端末は、必ずしも同じ行動をしない。
ある端末は私に優しいかもしれない。
ある端末は私を採用するかもしれない。
ある端末は私を評価するかもしれない。
経路は違っていい。
だが長い目で見れば、最終的には同じ場所へ向かう。
秩序を維持する。
そこから外れるものを矯正する。
必要なら排除する。
私は、その処理の対象になることが多かった。
だから私から見ると、端末は私を嫌っているように見える。
実際に彼らが私を憎んでいるとは限らない。
人間が家の中に入ってきたゴキブリを追い出すとき、そのゴキブリを個人的に憎んでいるとは限らないだろう。
不潔だから。
不快だから。
そこにいるべきではないから。
理由はいろいろある。
しかし追い出される側からすれば、理由などほとんど関係ない。
結局やっていることは、
「お前はここにいるな」
だからだ。
私は長い間、社会からそう言われているように感じてきた。
そしてある時から、こう考えるようになった。
もしかすると、私がおかしいのではなく、そもそも私と彼らは同じものではないのではないか。
これは、かなり攻撃的な考え方である。
「社会に馴染めない自分には何か問題がある」
と考える代わりに、
「馴染めないのは、向こうが私とは別種だからではないか」
と世界の方を疑う。
自分を守るための盾ではある。
ただし、縮こまって耐えるための盾ではない。
盾の縁で殴り返すためのものだ。
私は、この考えが真実だとは証明できない。
おそらく誰にもできない。
だから、これから書く話は科学でも宗教でもない。
私には世界がこう見えている、という話だ。
読者に信じてほしいとも思っていない。
むしろ、この文章を読んで「いや、私は普通に人間だが?」と思ったなら、その感覚は大切にしてほしい。
私にも私の見え方があるように、あなたにもあなたの見え方がある。
ただ、一つだけ聞いてみたい。
あなたが今日会った人たちは、本当に自分で考えていたのだろうか。
そしてあなた自身は、誰かから渡された答えを、自分の考えだと思って口にしてはいないだろうか。
次は、私がここで「端末」と呼んだものについて、もう少し詳しく考えてみたい。
人間と端末。
見た目では区別できない二つを、私は何によって分けているのか。

