空の回想録 Les Mémoires du Ciel ⑯
夏Ⅴ 告白②
そのうち、信悟は、どうにかしてこの苦しい胸の裡を彼女に伝えたい、と思うようになった。
どうやって伝えよう。どうやったら、自分のこの気持ちを、彼女に伝えられるだろうか。
直接言うか? 駄目だ、恥づかしくて到底も言えそうに無い。彼女の顔を見たら、多分何を言ったら良いか判らなくなる。きっと誤魔化す。「好きだ」の一言ですら、面と向かって言うだけの勇気は無い。
では顔を見なければ大丈夫か? 電話にするか? いや、電話は受け手の都合を考えていないから、失礼だろう(建前)。それに、顔が見えなくてもやはり、彼女の声を聞いただけでも上がってしまい、思うような言葉が出なくなるに違いない(現実)。万一言いたい事を首尾良く伝えられたとして、自分の想いを受け容れてもらえなかったら、どうする(高確率)? その場で礼まで言って、切る自信が有るか(理想)? いや、無い(反語)。
では、手紙はどうだ? これなら口で言わなくて済むし、直接顔も見なくて済む。今、比較的冷静な気持ちで文章を書けば、伝えたい事は全て書けるだろう。渡すときも「読んで」の一言で良いし、断られるときも、手紙を突き返されれば済む。口で言うときは誰かに盗み聞きされる心配も有るが、手紙なら、常識的には渡した本人しか読まないはずだ。後は、誰にも漏らさないよう書いておけば良い。彼女なら秘密を守ってくれるだろう(根拠無し)。
安易にそう結論付けて、信悟は手紙で自分の想いを伝えることにした。
終業式も近づいてきた或る晩、彼は牧子への想いの丈を託した懸想文を書いた。
短い文章なのに、何度も何度も、書いては恥づかしくなって、書き直した。こんな物を渡したら嫌われるのではないか、軽蔑されてしまうのではないか――そう思って、書くのを歇めようかと思ったことも数度。遂に、稚拙ではあるが、苦心の作が出来上がった。
「好きだ。君の気持ちが聞きたい。通知箋を見せ合うときにでも、諾か否だけでいいから答えてくれ。もし諾なら、交換日記からでも、始めようか。それから、この手紙の事は、くれぐれも外の人には言わないように。お願いします! 君を信じてます。」
――そんな内容だった。以前から、終業式の日には、通知箋を貰ったら、信悟と文雄と牧子の三人で、お互いに成績を見せ合おう、という話になっていた。
明日、学校へ持って行って渡そう。でも、どうやって渡したら良いのだろう? ええい、そんなことは後で考えるさ! 信悟は思い切って、白くて四角い、薄い封筒を、鞄の中へ入れた。
次の日。いつ渡そうか、どうやって渡そうか、と機会を伺っていたが、結局、渡せなかった。次の日も同じだった。
毎日「今日こそは!」と意気込んで登校し、好機を探っているのだが、これが予想外に難しい。休み時間になると、大した用事も無い癖に、大林が牧子に寄って来て、どうでも良い話を延々し続ける。珍しく牧子が独りでいると思うと、逆に自分の方に亙が下らない話を持ち掛けて来る。理科や音楽の教室移動のときも大林が牧子に纏わり付いているし、大林のいない部活の時間でも、特に話し掛ける切っ掛けは摑めない。そうして、なかなか渡せる機会に恵まれず、空しく一日が終わり、手紙は鞄の中に入れられたまま、下校の時刻を迎えてしまうのだった。
そんなことを一週間近く続けて、終に明日は終業式、という日まで、持ち越してしまった。年貢の納め時を控えて、彼は怖ぢ気付き始めた。いつか読んだ少女漫画の挿話を思い出したからだ。或る内気な少年が、彼の学級の人気者である少女に恋をして、告白しようとする。彼は級友たちからの冷やかしを恐れ、秘かに手紙を渡す。だが彼女は「もうこんなことしないで。」と、皆の前で手紙を突き返し、彼が折角搾り出した勇気を無残に吹き飛ばしてしまう。
〈前半までは、俺の場合とそっくりだ。後半まで同じになりでもしたら……俺は生きてく自信を失くしちまう! ……でも、原田さんはそんなことはしない。優しい人だ。〉
と、自分を勇気付け、ともすれば挫けてしまいそうな決心を、やっとの思いで奮い立たせた。
明日は必ず渡そう。返事は「通知箋を見せ合うときに」と書いたが、もう封は糊着けしてしまった。便箋と同じ、世界的に有名な兎猟犬をあしらった揃いの封筒は、もうこれしか無い。だからもう手紙は書き替えようが無い。仕方無い、もう腹は決まった。
次の日、「今日渡せないと、明日からは夏休みで、もう会えない!」と焦ってはいても、やはり、その機会は巡って来てくれない。六月に続き、七月の席替えでも信悟の隣になった牧子は、そんな信悟の追い込まれた気持ちも知らず、最後の先生の訓辞を真面目な表情で聞いている。
遂にオヤマは通知箋を配り始めた。
〈あぁ、これでもう最後だ……。配り終えれば、後は起立・礼をして、夏休みになってしまう……。〉
そうジリジリと焦りながらも、解決策は何も想い着かない。
〈どうしよう!!〉
彼は終に自分の通知箋を受け取った。
〈どうしよう!!〉
牧子の名前も呼ばれた。
牧子は席を立って、教卓まで通知箋を受け取りに行った。牧子の机の上には、親の手作りと思われる、黒無地の化繊製の手提げ袋が置かれたままだった。
好機到来! 千載一遇! これを逃したらもう外には無い!
信悟は机の中から手紙を取り出し、素早くその中に放り込んだ。
牧子は直ぐに戻って来て、今受け取って来た通知箋をしまおうと手提げを開け、手紙に気付いた。瞬時に「まづい物貰った」と思った牧子は、パッと信悟の方を見、声を潜めながら、手提げの中を指差した。
「絹川君、これ何?」
こんなに直ぐ手紙の主が判るとは思っていなかった信悟は、非常に驚いた。
〈もしかして、放り込むところを見られてた?〉
違う。今までの習慣で、つい封筒にまでちゃんと署名していた。
〈便箋にだけ名前を書いておけば良かった!〉
物凄く恥づかしかったが、今更悔やんでももう遅い。
「あ、家帰ってから読んで。返事は夏休み明けでも好いから。」
視線を泳がせながら早口でそう言った。
「?」
牧子は不思議そうに困った顔をしながら、開けたままだった手提げ袋に通知箋をしまった。
言ってみれば言えるものだ。
信悟の胸は物凄い勢いで拍動していた。体全体が心臓になったようだった。顔も火照っている。こんな変な自分を復た誰かに見られて、気取られないべか……? これまでの経験から心配性になっていたが、皆、自分の通知箋を受け取ったり、他人に見られぬように自分だけで確認したりするのに忙しいようで、無事、起立・礼が終わった。
通知箋を見せ合うのは文雄とも約束していたので、気は漫ろだったが、何事も無かったかのように廊下の隅へ三人で集まった。信悟は二人に通知箋を見せる気満々だったが、牧子が急に通知箋を見せるのを渋りだした。信悟は、彼女が三人の中で一番定期試験の順位が低かったので、それを気にしているのだろうと推測した。当然、無理強いは出来ないので、結局、見せ合うのは止めにした。
家に帰り着くまでの間は、熱病に罹ったように意識が朦朧として、やけに長く感じた。
今日は終業式だけだったので、昼前に家へ帰って来たのだが、母親が昼食の支度をしてくれているのを待つ間も、やたら長く感じられた。
もう今頃は家に着いたはずの彼女が、もしかしたら今、あの手紙を読んでるんでないか、と思うと、居ても立ってもいられなかった。風を通すためにあちこち開け放たれている家の中を、檻に入れられた熊のように、落ち着き無くぐるぐると回って歩いた。台所に立っている母親からは多分不審がられていただろうが、ぢっとしてはいられず、とにかく体を動かして気を紛らしていなくては、うづうづし過ぎて、狂ってしまいそうだった。
昼食は焼き飯だった。いつもより唾液の出が悪い気がした。口の中に入れられるだけ運び入れ、顎を動かしては嚥み込むことを繰り返した。家族と一緒の空間にいるのが耐え難くて、一刻も早く食卓を離れたかったが、それを気取られたくも無かった。自分にしか見えない蜂が数匹、遠く近く頭上で旋回しているのを、周りにはその存在を気付かせぬよう、平静に振る舞って見せているような食事だった。
何とか苦行を勤め上げたが、その後も、母親の目を気にして、未だムヅムヅする体を、無理繰り畳の上に横たえた。特にすることも想い着かないので、現実逃避に昼寝でもしようかと目を瞑ってみたが、ソワソワが高まるだけで全く眠りには就けず、数分で断念した。起き上がって、目に着いた雑誌を引き寄せた。表紙から順にパラリ、パラリと丁寧に捲っていったが、無論、内容は全く頭に入って来なかった。外の光が隅々まで入っていつもより輪郭がくっきりしている明るい部屋の中を、時折、ボーッと眺めたりもした。その間も、見えない蜂の羽音が、遠く近く、直接血管に伝わって来ていた。
小一時間ほどもそんなことをしていると、漸く、追い立てられるような焦燥感が治まってきた。どうせいつかは読まれるのだ、自分がこんなことをしていても仕方が無い、という考えも浮かび始めた。
頭ではそう考えて、気持ちを落ち着けようとしているのだが、体の方はなかなか素直に従ってくれず、勝手に昂進する心臓は宥めようが無かった。
返事のことまでは全く考えられなかった。今読まれているかも知れない、あんな手紙を書いて恥づかしい、そういう想いだけが信悟の頭を占めていた。
