【小説・ヴィーナス症候群】(639)お客様は神様なのか?
生まれつき両腕のない女児「ヴィーナス児」の当事者団体「コルチカムの会」で事務局員を務める階上つばさは、その日も外回りだった。
向かう先は西土浦。
国立先端医工学研究センター。通称サイボーグセンター。
常磐線の車内で、つばさは窓の外を見ながら今日の予定を頭の中でなぞっていた。
午後にセンターの広報担当と打ち合わせ、そして義肢開発チームのヒアリング。
西土浦に着くのはおそらく昼頃だ。
昼食をどこで食べるか。
とは言っても、あの界隈で食べられる場所はほとんどない。
研究センターの食堂は関係者証が必要で、外部来訪者の彼女は入れないこともある。
駅前の「かちどき屋」でいつも食べていた。
だが、あそこではもう食べない。
雨の日のこと。
つばさは傘を入口の傘立てに置かず、そのまま席まで持ってきていた。金属の肩義手では、濡れた傘を扱うのが少し面倒だったし、何より置き忘れが怖かった。
その方が合理的だと思った。
すると店主が声を荒らげた。
「あのさぁ、迷惑なんだよね!その濡れた床を誰が掃除すると思ってんの?入口に傘立て置いてるの見えなかった?お客様は神様だから何やってもいいの?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「す、すみません……!」
つばさは慌てて立ち上がり、会計を済ませ、雨の中へ出た。
濡れたアスファルトに落ちる雨粒が、やけに冷たく見えた。
悪気はなかった。
でも、迷惑をかけたのも事実だ。
それでも。
あの言い方はないでしょう、と心のどこかで思っていた。
だから、もう「かちどき屋」で食べることはない。そう決めた。
土浦駅で筑波参宮鉄道に乗り換える前、コンビニでパンを買った。サイボーグセンターに着いたら食べよう。
それで十分だと思った。
筑波参宮鉄道のディーゼルカーは、ゆっくりと西土浦へ向かう。
窓の外の景色は、どこか取り残されたような田畑と古い住宅ばかりだ。
そして西土浦駅に到着する。
小さな木造駅舎。
その隣。
「かちどき屋」の看板が外され、シャッターには「売物件」の貼り紙があった。

つばさは立ち止まった。
胸の奥に、何とも言えない感情が浮かぶ。
怒りでもない。
悲しみでもない。
ただ、静かな納得。
「そりゃそうでしょうね……」
それ以上、言えることはなかった。
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