【小説・ヴィーナス症候群】(863)キーッ!悔しい〜ッ!
福祉系ライターの神俣葵は、関東地方にある小さな市役所を取材していた。
人口は十万に届かず、都心から電車で一時間ほど。通勤圏ではあるが、行政規模としては決して大きくない自治体だ。
今回の取材対象は、その市役所に在籍している女性職員である。
福祉部門に配属され、制度解説や調査資料の作成を得意としてきたが、現在は体調不良を理由に休職している。休職に入ってから、まだ数ヶ月しか経っていない。
神俣がこの事例に関心を持ったのは、彼女が能力不足で職場を離れたわけではない、という点だった。
むしろ、得意分野で評価されていた職員が、「人事の幅を広げるため」という理由で不得意な部署に異動させられ、短期間で心身を崩した──その経緯に、この市役所の構造的な問題が凝縮されているように思えたのだ。
取材は、市役所から少し離れた喫茶店で行われた。

平日の昼下がり。彼女はコーヒーカップを両手で包みながら、静かに話し始めた。
「……私、もともとは向いてたんですよ」
福祉部門にいた頃は、制度の読み込みや文章作成が苦にならなかった。
現場で何が起きているか、制度と現実のどこが噛み合っていないかも、自然と見えてくる。上司からも、「分かりやすい資料を書くね」と言われていた。
「それが急に、『人事の幅を広げるため』って言われて」
異動先は、締切と正確性がすべての部署だった。
細かいルール、例外処理、電話対応。ひとつのミスが、すぐに謝罪と再処理につながる。
「分かってたんです。ここ、私に向いてないなって」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
「だから、元の部署に戻してほしいって課長に相談しました。ちゃんと、丁寧に」
その返事は、想像していたものとは違った。
――優しく言っても分からないみたいだから、はっきり言うぞ。
――最近お前みたいな専門バカばっかり増えて、人事が回らないんだよ。
――お前みたいな奴の尻拭いを、誰がやってると思ってる?
――公務員なんだから、基本的なことをちゃんとやってくれよ。
「……その場では、謝るしかなかったです」
彼女は視線を落とした。
「でも、それからですね。自分が全部ダメな人間に思えてきたのは」
それまで「得意」だったはずのことまで、急に信用できなくなった。
ミスをしないように気を張り続け、家に帰ると何もできなくなる。
決定的だったのは、ある日の帰り道だった。
コンビニで会計をしようとして、小銭が足りないことに気づいた。
バッグの中を必死で探す。後ろには人が並んでいる。
「キーッ!悔しい〜ッ!」
自分でも驚くほど、声が出ていた。
次の瞬間、後ろにいた人が何も言わずに横から会計を済ませた。
「……ああ、私、完全に壊れてるなって思いました」
それは怒りというより、感情のブレーキが一瞬だけ外れた音だった。
翌日、彼女は休職届を出した。
「面白いですよね」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「私にああ言った課長、結局その後すぐ辞めたんです。『もう役所に愛想が尽きた』って。今はコンサルやってるらしいです」
神俣は、ペンを止めた。
「恨んでいますか?」
そう尋ねると、彼女は首を振った。
「たぶん、あの人も限界だったんだと思います。ただ……」
言葉を選ぶように、彼女は言った。
「せめて、向いてない場所に人を押し込むことが“育成”だっていう考え方だけは、どこかで止まってほしいですね」
喫茶店を出たあと、神俣葵は思った。
この話は、誰か一人の問題ではない。
「人事の幅を広げるため」という言葉の裏で、静かに折れていった人たちの話だ。
原稿のタイトルは、もう決まっていた。
「専門バカの尻拭いは、誰の仕事なのか」
#AI小説 #小説 #ヴィーナス児 #ヴィーナス症候群 #近未来小説
#神俣葵
